第二十四煙 VIOLET
人の顔を覚えるのは、得意な方だと思っていた。
看護師をしていれば、患者の顔を覚える。
店に立てば、一度来た客の顔もだいたい覚える。
名前が出てこなくても、何を吸ったかを見れば思い出せることもある。
だが、ジェーンちゃんの顔だけは、何度見ても説明できなかった。
目が大きいわけではない。
細いわけでも、垂れているわけでもない。
鼻が高いとも低いとも言えず、口元にも目立った癖はない。
美人かと聞かれれば、たぶん違う。
不細工かと聞かれても、それも違う。
顔の部品が、どれも他人の記憶へ残ろうとしていなかった。
代わりに、服装は一度で覚えた。
黒いレースのワンピース。
何枚も布を重ねて膨らんだスカート。
編み上げの厚底靴。
目元を黒く囲み、唇には暗い赤を引いている。
肌は、店の照明の下でも白かった。
ゴシックロリータというのだろうか。
俺には正しい名前が分からないが、少なくとも、それに近い格好だった。
あとから思い出そうとすると、まず黒い服が浮かぶ。
その襟元へ顔を置こうとした途端、輪郭だけがぼやけた。
ジェーンちゃんが初めてOMNIBUSへ来たのは、小さなライブハウスで演奏があった夜だった。
日付が変わる一時間ほど前。
店にはタカダさんがいた。
いつもの席でBLUEBERRY MINTを吸い、チェの煙草を指に挟みながら、今月の営業成績について一人で喋っている。
「先月はワシがおらなんだら、支店が沈んどったで。じゃのに所長は――」
階段を上がる足音がして、扉のベルが鳴った。
入ってきた女を見て、タカダさんの話が止まった。
この男が人の見た目で黙るのは珍しかった。
女は片手に、黒い布の手提げを持っていた。
白い文字で、知らないバンドの名前が印刷されている。
手首には、ライブハウスの紙の帯が残っていた。
「まだ、いけますか」
「一台なら大丈夫よ」
「よかった」
声は、服装から想像したより普通だった。
高くも低くもない。
顔と同じで、声だけ聞けば翌日には思い出せなかったかもしれない。
女は店内を見回し、カウンターに近い席へ座った。
黒いスカートが、ソファの上へ花のように広がる。
メニューを渡すと、一枚ずつ丁寧に見た。
「VIOLET、ありますか」
「あるよ。すみれの花」
「それを単体でお願いします」
「花の味、好きなん?」
「分かりません。吸ったことがないので」
「なら、なんでVIOLET?」
女は手提げの文字を俺へ向けた。
「このバンドで一番好きな曲が、VIOLETなんです」
味ではなく、曲名でシーシャを選んだらしい。
「今日、その曲やったん?」
「やりませんでした」
「一番好きなのに?」
「八年前の曲なので。最近は、あまり演奏しません」
「八年も追っかけとん?」
タカダさんが会話へ入った。
女は、初めてタカダさんがいることに気づいたように顔を向けた。
「九年です」
「長えのう。ワシゃ女でも九年は続かんで」
「続かなさそうですね」
あまりに迷いのない返事だった。
タカダさんが、チェの煙草を口元で止めた。
「初対面でよう分かるのう」
「見たままを言っただけです」
「ワシ、見た目は一途じゃろうが」
「革命を起こして、家庭を放っていそうです」
「ワシはチェ・ゲバラじゃねえで」
「そうなんですか」
女は本当に知らなかったらしい。
「この人、タカダさん。店員やないよ」
俺が言うと、女は小さく頭を下げた。
「すみません。働いていない人だと思いました」
「ワシ、敏腕営業マンじゃけぇな」
「見えませんね」
「お前、空気いうもん知らんのんか」
「読めないとは言われます」
「読もうとはしょん?」
「字なら」
タカダさんは、しばらく女を見た。
それから、大きな声で笑った。
「おもれえ姉ちゃんじゃのう」
笑われた女は、不思議そうに首を傾げた。
俺は棚からVIOLETを取り出した。
細かく刻まれた葉を軽くほぐし、空気の通りを残してボウルへ詰める。
花の香りは、熱を入れすぎると重たくなる。
炭を外側へ置き、ゆっくり蒸らした。
待っている間、女が鞄から煙草を取り出した。
白い箱。
錨と、パイプを思わせる印。
赤い帯に、ARK ROYALと書かれている。
「アークローヤル。珍しいの吸いよるね」
俺が灰皿を置くと、女は一本抜いた。
「この街では、あまり見ませんか」
「俺の店では初めて見た」
「じゃあ、一番ですね」
「何の一番なん」
「ここで最初にアークローヤルを吸った人」
女は煙草へ火をつけた。
紙巻き煙草の煙に、バニラを思わせる甘い香りが混ざる。
タカダさんのチェとは、まるで違う匂いだった。
「それもバンドの影響?」
女は頷いた。
「別のバンドです。ボーカルが吸っていたので」
「いつから?」
「七年前です」
「その人、まだ吸いよん?」
「二年前に禁煙しました」
「お前はやめんのんか」
タカダさんが聞いた。
「私が好きなのは、この煙草なので」
「その男やのうて?」
「その人も、まだ好きです」
女はアークローヤルの煙を吐いた。
「好きなものは、増えていくだけで、あまり減りません」
その一言で、女の部屋が少し見えた気がした。
昔のCD。
着なくなった服。
何年も前のライブチケット。
吸い始めた理由を失っても、まだ買い続けている煙草。
新しいものにすぐ心を奪われるのに、古いものを捨てることはできない。
好きになるのが早く、飽きるのが遅い。
女の周りには、終わらないものが積み重なっているのだろう。
「名前、聞いてもええ?」
俺が尋ねると、女は少し考えた。
「ジェーンです」
「外国の人なん?」
「日本人です」
「本名?」
「違います。ジェーン・ドウのジェーンです」
「誰、それ」
「身元の分からない女につける名前です」
「縁起悪ない?」
「本名より覚えやすいでしょう」
名前は、一度で覚えた。
顔は、店にいるうちから曖昧だった。
「ジェーンちゃんか」
タカダさんが言った。
「ちゃんまで名前ですか」
「今、ワシがつけた」
「そうですか。では、それで」
断る理由も、喜ぶ理由もないような返事だった。
その夜から、ジェーンちゃんはジェーンちゃんになった。
VIOLETへ熱が入った。
俺はゆっくり吸い出した。
柔らかな花の香りが、白い煙に乗って立つ。
甘さは薄く、少し粉っぽい。
花そのものというより、昔どこかで食べた花の砂糖菓子に近かった。
香水ほど強くはないが、何の花か分からないほど弱くもない。
炭の位置を整え、ジェーンちゃんの前へ運んだ。
「VIOLET」
新しいマウスピースを渡す。
ジェーンちゃんはアークローヤルを灰皿へ置き、ホースを受け取った。
慣れた様子で長く吸う。
吐き出した煙が、黒い服の輪郭を白くぼかした。
「どう?」
「知らない味です」
「そら、初めてやけんね」
「でも、嫌いではありません」
もう一度吸った。
「たぶん、好きになります」
決めるのが早い。
好きになれば、長いのだろう。
「バンドは、ようけ追っかけとん?」
タカダさんが聞いた。
「今は十一組です」
「そがいにライブ行けるんか」
「全部は無理です。だから、行けなかった日のことを考えて落ち込みます」
「減らしゃええが」
「嫌いになる理由がありません」
「新しいんにハマらにゃええ」
「それは、見てから決めます」
「見たらハマるんじゃろ」
「はい」
タカダさんが俺を見た。
俺にも、どうすればいいか分からなかった。
ジェーンちゃんは、そこからバンドの話を始めた。
前提を説明せず、いきなり三年前のツアーの話をする。
俺たちが一人も知らないメンバーを、あの人と呼ぶ。
途中で別のバンドの話へ移り、本人だけが分かる道を通って、最初の話へ戻ってくる。
誰もついていけていないことには、気づいていなかった。
だが、楽しそうだった。
普段は特徴のない顔に、好きなものを話すときだけ、はっきりと表情が浮かぶ。
笑えば少し幼くなる。
気に入らない曲の話では眉間に皺が寄る。
好きなメンバーが結婚した話になると、急に無表情になった。
「結婚したいん?」
俺が聞いた。
「したいです」
答えは早かった。
「かなり」
「かなり結婚したいいうん、初めて聞いたわ」
「一緒に暮らして、同じ家へ帰って、休みの日にライブへ行きたいです。帰りにラーメンを食べて、スーパーで明日の朝ご飯を買って、できれば同じ墓に入りたいです」
「いきなり墓まで行くんか」
タカダさんが笑った。
「最後まで考えない恋愛に、何の意味があるんですか」
「まだ相手もおらんのに?」
「だから願望です」
ジェーンちゃんはVIOLETを吸った。
黒い服の女が、花の煙の向こうで、会ったこともない誰かとの老後を考えている。
妙に似合っていた。
「ほんなら、彼氏作りゃええが」
タカダさんが言った。
「無理です」
「なんでなら」
「仲良くなりすぎると、怖くなるので」
さっきまで、同じ墓へ入る話をしていた女の言葉だった。
「どっちなら」
「どちらも本当です」
ジェーンちゃんは、当然のように答えた。
「好きになるのは早いです。好きでいるのも長いです。でも、相手も私を好きだと分かると、怖くなります」
「贅沢な話じゃのう」
「そうかもしれません」
「嫌われるんが怖いん?」
俺が聞くと、ジェーンちゃんは少しだけ黙った。
初めて、答えを探しているように見えた。
「近くなった人が、遠くなるのが怖いです」
アークローヤルの灰が、灰皿へ細く落ちた。
「最初から遠い人なら、ずっと遠いままでしょう」
「前に何かあったん?」
「仲良くなりすぎて、あまり良いことがなかったんです」
それ以上は言わなかった。
俺も聞かなかった。
タカダさんまで、珍しく黙っていた。
ジェーンちゃんは、空気を読めない。
だが、自分の話したくないことまで読めないわけではなかった。
しばらくして、ジェーンちゃんがタカダさんを見た。
「タカダさんは、どうして結婚できないんですか」
「今、その話をワシに振るんか」
「黙っていたので」
「空気読めんにもほどがあるじゃろ」
「読んだ結果、質問しました」
「読み間違えとるわ」
店に笑い声が戻った。
ジェーンちゃんだけが、なぜ笑われたのか分からない顔をしていた。
顔に特徴はなくても、その表情は覚えやすかった。
閉店が近づき、俺は火力の落ちた炭を下げた。
VIOLETの香りは、最初より柔らかくなっている。
ジェーンちゃんは最後まで吸い、アークローヤルをもう一本だけ吸った。
花の甘さと、バニラの香りが店に残った。
「また来てもいいですか」
会計をしながら、ジェーンちゃんが聞いた。
「もちろん。今度はもうちょい早めに来てや」
「分かりました。次のライブが木曜日なので、そのあとに来ます」
「ライブの日やなくても来てええんよ」
「では、明日来ます」
「すぐやね」
「ハマりやすいので」
本人も分かっているらしい。
次の日、ジェーンちゃんは本当に来た。
その次の週にも来た。
同じ黒い服ではなかったが、黒いレースと厚底の靴は変わらない。
手には、いつもアークローヤルがあった。
VIOLET以外のフレーバーも吸った。
だが、最初に好きになったVIOLETを忘れることはなかった。
そうしてジェーンちゃんは、OMNIBUSの常連になった。
好きになるのが早く、飽きるのが遅い女だった。
人を好きになりたいのに、人が近づくと逃げたくなる女でもあった。
ジェーンちゃんの顔を、俺は今もうまく説明できない。
だが、好きなバンドが十一組あること。
一番好きな曲が、VIOLETであること。
七年前から、珍しい煙草を吸い続けていること。
いつか誰かと、同じ墓へ入りたいと思っていること。
それだけは、顔よりはっきり覚えている。
人を覚えるのに、顔はそれほど必要ではなかった。
VIOLET。
近づけば、一輪の花だと分かる。
離れて見れば、ただの紫にしか見えない。
ジェーンちゃんは、一人で店へ来て、一人で帰った。
あの頃は、それがいつものことだった。




