↑ページトップへ
表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
OMNIBUS SMOKE  作者: gongon


この作品ページにはなろうチアーズプログラム参加に伴う広告が設置されています。詳細はこちら

PR
23/26

第二十三煙 CANE MINT

喋らない人間は、何も考えていないと思われやすい。


ボッさんは、その誤解を解くために喋るくらいなら、誤解されたままでいいと思っている男だった。


本名は知らない。


誰が最初にそう呼んだのかも、本人がなぜ否定しないのかも知らない。


いつ来ても作務衣を着て、雪駄を履いている。


寒い夜でも、階段の下から、ぺた、ぺた、と乾いた音が聞こえれば、扉が開く前にボッさんだと分かった。


仕事は工場勤務。


俺が知っているのは、それだけだった。


何を作っているのか。


どんな仕事を任されているのか。


聞けば答えるのかもしれないが、聞く必要もなかった。


OMNIBUSでは、客が話したくないことまで聞かない。


ボッさんは、店の一番奥へ座る。


誰かがいれば、小さく頭を下げる。


話しかけられれば答えるが、自分から会話へ入ることはほとんどない。


だからといって、他の客を嫌っているわけでもなかった。


人と関わるのが、昔から少し苦手なだけらしい。


先生が帰るときには、お疲れさまでしたと言う。


シナが新しい髪色を見せれば、似合っていると思いますと答える。


ただ、その一言を出すまでに、他の人より少し時間がかかる。


その時間を、気まずいと思わずに待てる客は多くなかった。


タカダさんは、待たなかった。


返事があってもなくても、一人で喋り続けた。


営業先の受付が別れた女に似ていた話。


昼に入った店の大盛りが、まったく大盛りではなかった話。


若い頃、モテすぎて年末の予定が三つ重なった話。


ボッさんが聞いていようがいまいが、お構いなしだった。


二人が初めて一緒になった夜も、タカダさんは四十分ほど一人で喋った。


話が途切れたところで、ボッさんが言った。


「それで、契約は取れたんですか」


タカダさんは、チェの煙草を持ったまま目を丸くした。


「お前、聞いとったんか」


「話しかけられたので」


それから二人は、仲がよかった。


話す量は、今も十対一くらいだった。


その夜も、階段から雪駄の音が聞こえた。


日付が変わる少し前。


店には、タカダさんしかいなかった。


いつもの席でBLUEBERRY MINTを吸い、チェの煙草へ火をつけようとしている。


扉が開き、紺色の作務衣を着たボッさんが入ってきた。


「こんばんは」


「おう、ボッさん。今日も坊さんみたいな格好しとるのう」


「昨日も同じこと言ってましたよ」


「昨日も同じ格好じゃったからのう」


ボッさんは雪駄の音を鳴らし、いつもの奥の席へ座った。


俺はグラスの水を出した。


「今日は何にする?」


「CANE MINT」


「単体?」


「強めで」


「酒は?」


「いりません。明日も仕事なので」


そう答えたあと、ボッさんは深く息を吐いた。


煙を吸う前から、何かを吐き出しに来ていた。


「今日、愚痴いけますか」


「長さによるね」


「一台分で」


「なら、いける」


俺は棚から、TANGIERSのCANE MINTを取り出した。


黒く湿ったダークリーフを、ボウルへ均一に詰める。


詰め目にむらが出ないよう表面を整え、アルミを張った。


炭を外側へ置き、急がず熱を入れる。


CANE MINTは、名前だけなら優しそうに見える。


だが、実際は容赦がない。


甘いキャンディの芯を残しながら、強いペパーミントが喉と鼻を一気に冷やす。


熱を荒く入れれば、冷たさまで刺々しくなる。


ゆっくり立ち上げた方が、甘さと冷たさがきれいに残った。


蒸らしている間に、ボッさんが話し始めた。


「工場で、機械から変な音がしてたらしいんです」


「壊れたん?」


「大事にはなってません。気づいた人がいたのに、次の人へ言ってなかっただけで」


「危ないやん」


「はい。だから、報告の仕方を決め直すとか、点検の記録を残すとか。そういう話になると思うじゃないですか」


「普通はそうじゃな」


タカダさんが言った。


ボッさんは、何も入っていない手元を見つめた。


「上が出した結論は、コミュニケーション不足でした」


「まあ、それも間違いやないんやない?」


「それで、今週から朝礼で一分間、最近あった嬉しいことを一人ずつ話すことになりました」


店が静かになった。


俺は、聞き間違えたかと思った。


「機械の話よね?」


「機械の話です」


「嬉しい話をしたら、機械の音が直るん?」


「俺も聞きました」


「聞いたんや」


「人となりを知れば声を掛けやすくなって、小さな異変も共有できるようになるそうです」


「なるほどのう」


タカダさんは、感心したように頷いた。


「なら、理屈は通っとる」


「通ってません」


ボッさんは、はっきり言った。


声は大きくなかった。


だが、今日店へ来てから一番強い言葉だった。


「仕事の話ならします。機械の音がおかしかったら言います。分からないことも聞きます。なんで、そのために昨日食べたものとか、休みの日にしたことまで話さないといけないんですか」


「ボッさん、昨日何食うたん?」


「今、その話してません」


「聞きやすい人間になる練習じゃ」


「タカダさんが聞きたいだけでしょう」


俺は笑いながら、炭の位置を動かした。


試しに一口吸う。


白い煙が、舌の上を冷たく滑った。


ペパーミントの鋭い清涼感の奥に、飴のような甘さがある。


煙を吐いても、口の中には冷たさだけが長く残った。


火力を確かめて、ボッさんの前へ運ぶ。


「CANE MINT」


ボッさんは新しいマウスピースをつけ、深く吸った。


濃い煙を吐く。


作務衣の胸元から上が白く隠れた。


「これです」


「何が?」


「今日ほしかったやつ」


もう一度吸った。


冷たさに顔をしかめることもない。


ボッさんはCANE MINTを単体で吸える人だった。


人付き合いには弱いが、煙は強い方がよかったらしい。


「ほんで、ボッさんの番はいつなら」


タカダさんが聞いた。


「昨日でした」


「何を話したん?」


「特にありませんと言いました」


「そりゃあ、いけんじゃろ」


「係長にも言われました。毎日生きていれば、一つくらい嬉しいことがあるだろうって」


「ええこと言うが」


「ないものはないです」


「探せや」


「急に言われて、一分で探せるなら苦労しません」


ボッさんはホースを持ったまま、足元を見た。


履き込まれた雪駄の鼻緒だけが、新しい。


「だから、鼻緒を替えましたと言いました」


俺は足元を見た。


「それ、新しいんや」


「はい。前のが緩くなってたので」


「嬉しかったん?」


「歩きやすくはなりました」


「ええ話じゃねえか」


タカダさんが、膝を叩いて笑った。


「係長も同じ反応でした」


「何が不満なら」


「笑い話みたいにされたことです」


ボッさんはCANE MINTを吸った。


「こっちは、聞かれたから本当のことを答えただけなのに」


煙が、ゆっくり天井へ昇る。


自分の嬉しいことを話せと言われて、正直に話した。


それが他人にとって小さすぎたから、冗談にされた。


人と人が分かり合うために始めた朝礼で、人にはそれぞれ違う嬉しさがあることは、あまり大事にされなかったらしい。


「ボッさん、組み立て方が悪いんじゃ」


タカダさんが言った。


「鼻緒を替えました、だけじゃ話が広がらん。何年履いた雪駄で、どこが気に入っとって、緩んだせいでどねえ困ったか。最後に、皆さんも足元には気をつけましょうで締めりゃ、一分じゃ」


「工場です。営業しなくていいんです」


「一分持たせにゃおえんのじゃろ」


「持たせたいとも思ってません」


「ほんなら、天気の話でええ。昨日は寒かった、今日は暖こうなるとええですね」


「嬉しかったことじゃないです」


「昨日より一度高かったら嬉しいじゃろ」


「別に」


「難儀な男じゃのう」


タカダさんは笑い、BLUEBERRY MINTを吸った。


「ワシなら、質問で返すけどのう。係長は最近、何が嬉しかったんですか。そっから相手に喋らせりゃ、こっちは楽じゃ」


「一分間スピーチで質問していいんですか」


「駄目じゃったら、会話を増やすいう目的と矛盾しとる言うたれ」


「そんなこと言ったら、また面倒なやつだと思われます」


「もう思われとるじゃろ」


「そういうところが嫌いです」


「ワシはお前のそういうところ、好きじゃけどな」


ボッさんは、返事をしなかった。


だが、少しだけ口元が緩んだ。


タカダさんは、相手に好かれるために言葉を使う仕事をしている。


それでも、店では返事を求めなかった。


言った言葉を、相手がどう受け取るかまで管理しようとしない。


だからボッさんも、タカダさんとは話せるのかもしれなかった。


「まだあるん?」


俺が聞いた。


ボッさんは頷いた。


「休憩中、一人でいると、大丈夫かって聞かれます」


「心配してくれよんやない?」


「大丈夫ですと答えると、大丈夫そうに見えないと言われます」


「大丈夫やないんやない?」


「一人で休みたいだけです」


「言うたらええやん」


「言いました。そしたら、何か嫌なことでもあったのかと聞かれました」


「心配されとるねえ」


「その心配で疲れてるんです」


俺は何も言えなくなった。


親切は、断りにくい。


悪意なら、嫌だと言える。


だが、あなたのためだと言われたものは、いらないと答えた側が冷たい人間になる。


ボッさんは、人が嫌いなのではない。


人と一緒にいる時間が長いと、少しずつ息が浅くなるだけだった。


ボッさんの職場では、それを直すべき欠点だと思われているらしい。


「それなら、休憩中だけイヤホンしときゃええが」


タカダさんが言った。


「駄目です」


「本読むとか」


「何読んでるのって聞かれます」


「寝たふり」


「体調悪いのって聞かれます」


「便所に逃げる」


「長いと心配されます」


「お前んとこの工場、えれえ優しいのう」


「だから困るんです」


タカダさんは、なおも何か考えていた。


ボッさんは、CANE MINTを大きく吸った。


そして、煙をすべて吐き切ってから言った。


「タカダさん」


「なんなら」


「別に、解決しに来たんじゃないんです」


タカダさんの口が止まった。


「愚痴を吐きに来ただけです」


短い沈黙があった。


タカダさんは、火をつける前のチェの煙草を箱へ戻した。


「ほうか」


BLUEBERRY MINTを一口吸う。


「ほんなら、まだあるんか」


「あります」


「言うてみい」


それからボッさんは、三十分ほど喋った。


誰かが共有の道具を元の場所へ戻さないこと。


回覧に書いてあることを、わざわざ口頭でも説明されること。


話しかけていい雰囲気を作ろうと言い出した人が、機嫌の悪い日は誰より話しかけにくいこと。


どれも、店を飛び出して何とかしに行くような話ではない。


誰かを呼び出して、落とし前をつけさせるようなことでもない。


明日になれば、ボッさんはまた工場へ行く。


同じ人たちと働き、変な音がすれば報告し、共有の道具が戻っていなければ自分で探す。


それでも今夜くらいは、腹が立ったと言ってよかった。


愚痴を話す人を見ると、多くの人は答えを探す。


こうすればいい。


そんなことは気にするな。


自分なら、こうする。


だが、愚痴の中には、出口だけを求めているものがある。


直してほしいのではない。


一度、体の外へ出したいだけだ。


シーシャ屋には、話を聞いてほしい客が来る。


話しかけてほしい客も来る。


誰にも構わず、煙だけ吸わせてほしい客も来る。


同じ店にいても、必要な距離は一人ずつ違った。


一台の終わりが近づく頃、ボッさんの声は元の少なさへ戻っていた。


俺は火力の落ちた炭を下げた。


煙には、まだ冷たい甘さが残っている。


「明日の朝礼、どうするん?」


俺が聞いた。


「もう決めました」


「何を話すん?」


「昨日、シーシャ屋でCANE MINTを吸いました。美味しかったです。以上」


「一分ないやろ」


「残りは黙ります」


「ワシが考えた雪駄の話、使えや」


「嫌です」


「ほんなら、ワシいう敏腕営業マンに話し方を教わった話にせえ」


「嬉しくないので無理です」


「お前、最後だけよう喋るのう」


ボッさんは立ち上がり、代金をカウンターへ置いた。


「ごちそうさまでした」


「愚痴、一台に収まったね」


「今日は」


また溜まれば来るらしい。


扉を開ける。


「お疲れさん」


俺が言うと、ボッさんは小さく頭を下げた。


「お疲れさまです」


階段を下りる雪駄の音が、少しずつ遠ざかった。


ぺた、ぺた、と乾いた音。


明日も同じ工場へ向かう人間の足音だった。


CANE MINT。


強い冷たさは、職場を変えない。


朝礼もなくさない。


他人との距離を、うまく測れるようにもしてくれない。


ただ、口の中に残った一日の味を消して、次の一息を吸いやすくする。


愚痴は、解決しなくても、吐けば少し軽くなる。


煙と同じだった。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。