第二十二煙 ROSE STRAWBERRY
先生は、嘘をつくのが下手だった。
静に、一度でも女として見たことがあるかと聞かれた夜。
先生は、ないと答えた。
静は、よかったと笑った。
どちらも、本当のことを言っていなかった。
教師と生徒は、答えを知っている方が教えるものだと思っていた。
だが、大人になれば、先生も答えを間違える。
間違えたことを知りながら、正解として教えることさえある。
あの夜から、しばらく経った。
先生は変わらずOMNIBUSへ来た。
平日の夕方。
いつもの席。
注文はROSE。
スキンヘッドの頭を照明に光らせ、答案へ赤い印をつける。
静も、変わらず週末に来た。
左手には婚約指輪があり、同じ席でROSEを吸った。
二人が店で会うことはなかった。
互いに避けていたのか。
偶然、時間が合わなかっただけなのか。
俺は聞かなかった。
静がクリーム色の封筒を持ってきたのは、先生が答案を採点している夜だった。
階段を上がる足音がして、扉のベルが鳴る。
入ってきた静は、先生の姿を見ると、一度だけ足を止めた。
驚いてはいなかった。
先生も答案から顔を上げた。
「こんばんは」
静が言った。
「こんばんは」
先生が答えた。
よそよそしい挨拶だった。
そのよそよそしさを作るために、二人がどれだけ互いを知っているかを、俺は知っていた。
「先生、今日おると思って」
「私に用事ですか」
「はい」
静は、持っていた封筒を少し上げた。
「招待状、持ってきました」
前に店で会った夜、先生は結婚式へ行くと約束した。
静は、口約束を本物にするための紙を持ってきたらしい。
「そうですか」
先生は赤ペンの蓋を閉めた。
答案を揃え、鞄へ入れる。
「隣、いいですか」
「もちろん」
静は、以前と同じように先生の隣へ座った。
二人の間に、クリーム色の封筒を置く。
「シーシャは?」
俺が聞いた。
「ROSEを」
静が答える。
先生も頷くと思った。
だが、少し考えてから言った。
「STRAWBERRYも合わせてもらえますか」
静が先生を見る。
「先生、ROSE以外も吸うんですか」
「今日は、お祝いですから」
「苺がお祝いなん?」
俺が聞く。
「甘い方が、それらしいでしょう」
先生は、いつもの穏やかな顔で答えた。
俺は棚からROSEとSTRAWBERRYを取り出した。
花の香りを残すため、ROSEを中心にする。
STRAWBERRYは、薔薇の輪郭を丸くする程度に合わせた。
フレーバーを軽くほぐし、空気の通りを残してボウルへ詰める。
炭を外側へ置いた。
「式、いつなん?」
蒸らしている間に、俺が聞いた。
「来月です」
「もうすぐやないか」
「準備が大変で。もっと早く持って来たかったんですけど」
「私の分まで、わざわざありがとう」
先生が言った。
「わざわざじゃないですよ」
静は封筒へ触れた。
「先生には、来てほしいんです」
先生は答えず、小さく頷いた。
熱が入ったところで、ゆっくり吸い出す。
最初に立ったのはROSEの華やかな香りだった。
そのあとから、熟したSTRAWBERRYの甘さが重なる。
花だけで吸うより柔らかい。
果物だけで吸うより、少し大人びている。
炭の位置を整え、二人の前へ運んだ。
「ROSE STRAWBERRY」
静へ新しいマウスピースを渡した。
静はゆっくり吸い、白い煙を吐いた。
「甘い」
「嫌いですか」
先生が聞く。
「ううん。好きです」
「それなら、よかった」
先生も自分のマウスピースをつけ、ホースを受け取った。
同じ煙を吸う。
前に二人が会った夜は、単体のROSEだった。
あのときより甘い煙が、二人の間へ広がった。
しばらく、結婚式の話をした。
会場は、街から少し離れた小さな式場。
親族と、親しい友人だけを呼ぶ。
高校時代の同級生も何人か来るらしい。
先生は、誰が来るのかを一人ずつ聞いた。
名前を聞けば、当時の席と、書いていた進路希望まで覚えていた。
「先生、よう覚えとるね」
俺が言うと、先生は首を横へ振った。
「忘れている生徒もいますよ」
「静のことは?」
静が聞いた。
先生は、少しだけ間を置いた。
「忘れたことはありません」
静は何も言わなかった。
ROSE STRAWBERRYを吸い、煙で口元を隠した。
婚約者の話もした。
朝が弱い。
休みの日は、放っておけば昼まで寝る。
料理はできないが、洗い物は必ずする。
静が怒ると、まず謝ってから何に怒っているのかを聞く。
「順番、逆やない?」
俺が言うと、静は笑った。
「とりあえず謝っとけば話を聞いてもらえると思っとるんですよ」
「賢い人ですね」
先生が言う。
「先生より、だいぶね」
静の言葉に、先生は苦笑した。
責める声ではなかった。
長く持っていた棘が、時間の中で少し丸くなったような言い方だった。
「あの人には、先生のことも話してます」
静が言った。
先生の手が、わずかに止まった。
「私のことを?」
「高校の先生を、卒業してから好きになったこと。三回告白して、三回とも振られたこと」
「そこまで話したんですか」
「隠して結婚したくなかったんで」
「彼は、何と?」
「先生、見る目ないなって」
俺は笑った。
先生も、困ったように笑った。
「反論できませんね」
「あと、結婚式に呼びたいって言うたら、呼んだらええって」
「そうですか」
「嫌なら断ってもええんですよ」
「嫌ではありません」
先生は即答した。
その答えだけは、嘘ではないように聞こえた。
二人は、それから学校にいた頃の話をした。
静が進路希望を何度も書き直したこと。
家へ帰りたくなくて、用もないのに職員室へ残ったこと。
先生が遅くまで話を聞き、最後は駅まで送ったこと。
卒業式の日、静が泣かなかったこと。
「あのとき泣かんかったんや」
「家帰ってから泣きました」
静が答える。
「学校で泣いたら、先生がまた心配すると思って」
「心配しましたよ」
「泣いてないのに?」
「泣かないからです」
二人にしか分からない時間だった。
俺は会話へ入るのをやめた。
カウンターの中でグラスを拭き、炭の状態だけを見る。
客は、ほかに誰も来なかった。
一時間が過ぎた。
炭の灰を落とし、熱が偏らないよう位置を変える。
ROSEの香りは柔らかくなり、STRAWBERRYの甘さが少し前へ出ていた。
静は、クリーム色の封筒を先生の前へ押した。
「受け取ってください」
先生は封筒へ目を落とした。
「ええ」
両手で受け取る。
すぐに鞄へ入れず、膝の上へ置いた。
「前に、来てくれるって言いましたよね」
「言いました」
「教師が教え子との約束を破るわけにはいかないって」
「覚えています」
「先生」
静の声から、少しだけ笑いが消えた。
「あの日のこと、もう一回聞いてもいいですか」
先生は顔を上げた。
何を聞かれるのか、分かっていたはずだ。
「一度でも、私を女として見たことがあるかって聞きました」
「ええ」
「先生は、ないって言った」
「言いました」
「あれ、本当ですか」
先生は答えなかった。
静も、急かさなかった。
その沈黙は、前に同じ質問をしたときより長かった。
先生はホースを置いた。
膝の上にある招待状へ、片手を添える。
「嘘でした」
静の目が、わずかに揺れた。
「教師が、生徒に嘘ついたんですか」
「おそらく、初めてです」
先生は、静をまっすぐ見た。
「あなたが卒業して、何年も経ってからです。在学中ではありません」
「そんなこと、分かってます」
「同窓会で再会して、教師ではない私の前で笑うあなたを見たときから、少しずつ好きになりました」
静は、黙って聞いていた。
「食事へ誘われるたび、嬉しかった。誕生日に何を渡そうか考えてくれたことも、酔って抱きつかれたことも」
「あれは忘れてください」
「忘れたことはありません」
先生の声が、初めて少し震えた。
いつも正しい言葉を選ぶ人間が、選ぶ前の感情をそのまま口にしていた。
「告白されるたび、応えたいと思いました」
静が、ゆっくり息を吸った。
「なら、何で」
「怖かったからです」
先生は答えた。
「あなたが見ているのは、一人の男ではなく、昔助けてくれた教師なのではないか。応えれば、あなたの尊敬や、若い頃の弱さにつけ込むことになるのではないか。そう考えました」
「私は違うって、何度も言いました」
「ええ」
「信じてなかったんですか」
「あなたを信じていなかったのではありません」
先生は一度、目を伏せた。
「私が、自分を信じられなかった」
前に、俺へ話した言葉だった。
だが、静の前で言う声は、あの夜より弱かった。
言い訳としてではなく、自分の臆病さを認める言葉になっていた。
「教え子を守るためだと思っていました」
先生は続けた。
「でも本当は、正しい教師でいる自分を守りたかっただけなのかもしれません」
静の目に、涙が浮かんだ。
「ずるい」
「ええ」
「今、言うんですね」
「ええ」
「私、結婚するんですよ」
「知っています」
「あの人のこと、好きなんですよ」
「分かっています」
「先生の代わりやないんですよ」
「そうでなければ、困ります」
静は泣きながら笑った。
「ほんま、ずるい」
「申し訳ありません」
「謝らんといてください」
「それも、前に言われましたね」
「先生、同じことばっかり」
「教師は、同じことを何度も教える仕事ですから」
「そういうとこです」
二人とも、少しだけ笑った。
静は涙を指で拭いた。
化粧が崩れるほどではなかった。
長く待っていた答えを、ようやく受け取った人間の涙だった。
「何で、今日言うたんですか」
静が聞いた。
「前に嘘をついたまま、この招待状を受け取ることができなかったからです」
「言わん方が、私のためやったんやないですか」
「そうかもしれません」
「言ったん、先生のため?」
「そうです」
先生は誤魔化さなかった。
「これは、あなたのための告白ではありません。間に合わなかった私が、自分の嘘を訂正したかっただけです」
「やっぱり、ずるい」
「ええ」
先生は、何度でも認めた。
正しい教師の顔を、少しずつ自分で壊していくようだった。
「でも」
静は、残っていたROSE STRAWBERRYを吸った。
白い煙を吐いてから、言った。
「嬉しいです」
先生は何も答えなかった。
「先生を好きやった私が、間違ってなかったみたいで」
「間違いではありません」
「それ、先生が言うん?」
「今度は、本当です」
静は、また泣きながら笑った。
二人は、それからも長く話した。
もし、あの頃に先生が応えていたら。
どこへ食事に行ったか。
どんなことで喧嘩したか。
先生の仕事が忙しく、静が寂しいと言ったかもしれない。
静の気の強さに先生が疲れ、先生の煮え切らなさに静が怒ったかもしれない。
「たぶん、一回は別れとるね」
俺が言うと、静が笑った。
「一回で済むかな」
「失礼ですね」
先生も笑った。
実際には選ばなかった未来だから、好きなだけ話せた。
失敗しても、傷ついても、想像の中なら誰も困らない。
二人は、ありもしなかった思い出を懐かしむように話した。
やがて、静の携帯が震えた。
画面を確認する。
「迎えに来たみたいです」
前の夜と同じ言葉だった。
「彼ですか」
「はい」
静は鞄を持ち、立ち上がった。
先生の膝には、招待状が残っている。
「先生」
「はい」
「結婚式、来てくれますか」
先生は静を見上げた。
「もちろん」
「絶対ですよ」
「教師が教え子との約束を破るわけにはいきませんから」
前と、一言も違わない答えだった。
静は、しばらく先生を見ていた。
その言葉が本当かどうか、確かめているようだった。
「分かりました」
最後には、そう答えた。
「待ってます」
先生は頷いた。
静は俺へ会釈をし、扉へ向かった。
外へ出る前に振り返る。
「先生」
「何ですか」
「好きでした」
過去形だった。
「私もです」
先生も、過去形で答えた。
静は笑った。
扉が閉まり、ベルが鳴る。
階段を下りる足音が遠ざかった。
店の外で車の扉が閉まり、少ししてエンジンの音も消えた。
先生は、しばらく招待状を膝へ置いたままだった。
いつも持っている予定帳を、鞄から出さなかった。
「行くんですか」
俺が聞いた。
「約束しましたから」
「行く人の顔には見えんけど」
「店長は、人相も見られるんですか」
「長いこと客見よったら、それくらいはね」
先生は、答えなかった。
招待状を鞄へ入れる。
答案と同じ場所ではなく、内側の小さなポケットへしまった。
捨てるつもりはない。
だからといって、持って行くつもりにも見えなかった。
テーブルのROSE STRAWBERRYは、もう終わりに近かった。
「もう一本、いきます?」
俺が聞くと、先生は少し考えた。
「同じものをお願いします」
「ROSE MINTにしたら、少しすっきりするんやない?」
先生は、ほんの少し笑った。
「私はね、店長。MINTはあまり好きじゃないんです」
「そうなん?」
「シーシャくらい、甘い方がいいでしょう」
俺は、新しいROSEとSTRAWBERRYを取り出した。
さっきと同じように合わせ、別のボウルへ詰める。
新しい炭を外側へ置き、ゆっくり熱を入れた。
先生はその間、招待状をしまった鞄へ一度も触れなかった。
ROSE STRAWBERRY。
好きだった花へ、言えなかった時間の分だけ甘さを重ねた煙。
先生は、結婚式にはおそらく行かない。
最初の嘘をほどき、二つ目の嘘で教え子を送り出したのだろう。




