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OMNIBUS SMOKE  作者: gongon


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第二十一煙 LIME LIT

安倍が女を連れてきた。


女が驚くほど綺麗だったことより、二人が酔っていたことより、その事実が一番珍しかった。


安倍は、人に興味がないように見える。


客が何の仕事をしているかも、昨日誰と寝たかも、自分から聞くことはない。


俺が人の揉め事へ首を突っ込めば、まず事実を並べろと言う。


誰かの気持ちを聞けば、感情は数字にできないと答える。


女に興味がないというより、人間そのものを少し遠くから見ているような男だった。


その安倍が、女の腰へ手を添えて階段を上がってきた。


日付が変わる少し前だった。


扉が開くより先に、女の笑い声が聞こえた。


「まだ開いとる?」


先に顔を出したのは安倍だった。


いつもの暗いスーツ。


だが、ネクタイは緩み、目元が少し赤い。


後ろから、女が安倍の肩越しに店内を覗いた。


「こんばんはぁ」


年齢は、俺よりずっと上に見えた。


だが、何歳かと聞けば失礼になり、若く見えますと言っても機嫌を損ねそうな女だった。


長い髪を緩く巻き、身体の線が綺麗に見える黒い服を着ている。


目尻に細い皺がある。


それさえ、笑った時間の長さを飾るように見えた。


美魔女という言葉が、一番近い。


「一応、開いとるよ」


「一応って何よ」


女が笑った。


「客おらんなったら閉めようと思いよったけん」


「じゃあ、私らが今日最後のお客さんね」


女は安倍より先に店へ入り、カウンターに近いソファへ座った。


安倍は彼女の上着を受け取り、背もたれへ掛けた。


それだけの動きが、妙に自然だった。


「珍しいな」


俺が言うと、安倍は顔をしかめた。


「何がだ」


「酔っ払っとるんと、女連れなん」


「酔っていない」


「酔ってるよぉ」


女がすぐに否定した。


「この人ね、さっき同じ話を三回したの」


「二回だ」


「数えられとるうちは、まだ大丈夫やね」


「お前も同じ店の話を何度もしていた」


「私は誕生日だからいいの」


「誕生日なん?」


俺が聞くと、女は両手を小さく広げた。


「今日の主役です」


「おめでとうございます」


「急に敬語になるんやね」


「何歳か聞きそうになったけん、誤魔化した」


「正直でよろしい」


女は、くしゃっと笑った。


整った顔が、その瞬間だけ年齢の分からない少女のようになった。


「アキコ」


安倍が言った。


「昔からの知り合いだ」


「アキコです。安倍君とは、腐れ縁」


「昔馴染みでいいだろう」


「都合のいい言い方するねぇ」


アキコは、安倍の横へ座った。


近すぎず、遠すぎない。


初めて隣へ座った人間には取れない距離だった。


「何飲む?」


俺が聞くより先に、安倍が答えた。


「こいつはジントニック。俺はハイボール」


「誕生日の本人に聞かんの?」


「どうせ同じものを頼む」


「まあ、そうなんやけど」


アキコは満足そうだった。


安倍は、俺が知らないこの女の好みを知っていた。


普段なら、人の注文へ口を挟むことさえない男が。


「だいぶ飲んどるんやろ。先に茶か水にしたら?」


「店長、若いのにお母さんみたいね」


「二人とも店で潰れたら、運ぶん俺なんよ」


「安倍君が運んでくれるから大丈夫」


「俺も飲んでいる」


「じゃあ店長が二人とも運んで」


「帰ってくれん?」


「誕生日やけん許して」


アキコが笑い、安倍も小さく笑った。


安倍が客の前で笑うことはある。


だが、誰かの言葉を聞く前から、笑う準備をしている顔は初めて見た。


「シーシャは?」


「さっぱりしたのがいいなぁ」


アキコが棚を眺める。


俺は、ETERNAL SMOKEのLIME LITを取り出した。


「甘いライムに、冷たいメンソール。最初から混ざっとるやつ」


「LITって、今日の私らにぴったりやん」


「酔っ払いの自覚あるやないですか」


「誕生日は、楽しく酔ったもん勝ちよ」


アキコが安倍を見る。


「これでええ?」


「お前の誕生日だ」


「何でもいいが一番困るんよ」


「俺もそれでいい」


「最初からそう言えばええのに」


安倍は、少し面倒そうな顔をした。


だが、本当に面倒なら、この男は店まで連れて来ない。


俺はLIME LITを軽くほぐし、ボウルへ均等に詰めた。


熱を急に上げると、ライムの酸味だけが尖る。


炭を外側へ置き、ゆっくり熱を入れる。


蒸らしている間に、二人の酒を作った。


アキコはグラスを受け取ると、安倍のハイボールへ軽く当てた。


「今年もお祝いしてくれて、ありがと」


「毎年ではない」


「去年は喧嘩しとったもんね」


「お前が連絡を無視したんだ」


「一昨年は?」


「俺が県外にいた」


「その前は?」


「覚えていない」


「嘘。ホテルのバー連れてってくれたやん」


安倍は答えず、ハイボールを飲んだ。


覚えていない顔ではなかった。


「付き合い長いん?」


俺が聞くと、アキコが指を折り始めた。


「何年になる?」


「数える必要があるか」


「十年以上やね」


「付き合っとるん?」


「付き合ってはいない」


安倍が即答した。


アキコは、グラスの向こうから安倍を見た。


「そういうことにしとこうか」


「何、その答え」


「懇ろになって、嫌いになって、しばらく会わんくなって。また寂しくなったら連絡するんよ」


「主語を自分だけにするな」


「安倍君も連絡してくるやろ」


「必要な用があるときだけだ」


「夜中に、起きてるかって聞くんが必要な用なん?」


安倍は黙った。


アキコが勝ち誇ったように笑う。


普段の安倍なら、相手の言葉を一つずつ分け、事実だけを残す。


だが、アキコとの会話には、正しさより長さがあった。


何度も同じ話をして、同じところで言い合い、同じように離れた人間だけが持つ長さだった。


LIME LITを吸い出す。


明るいライムの香りが立った。


甘さはあるが、柑橘の輪郭ははっきりしている。


吐き終える頃、メンソールの冷たさが口の奥へ残った。


炭の位置を整え、二人の前へ運ぶ。


「LIME LIT」


アキコへ新しいマウスピースを渡した。


最初の一口を吸い、白い煙を長く吐く。


「おいしい。冷たいね」


「酔っとるけん、ゆっくり吸ってよ」


「はぁい」


返事だけは素直だった。


アキコが吸ったあと、安倍へホースを渡す。


安倍は自分のマウスピースをつけ、少し短めに吸った。


「どう?」


アキコが聞く。


「悪くない」


「この人、何食べても悪くないしか言わんのよ」


「不味ければ不味いと言う」


「美味しいって言えばええやん」


「悪くないは、美味しい側の評価だ」


「店長、この人面倒やろ?」


「知っとる」


「お前に言われたくない」


三人で笑った。


二人は、交互にLIME LITを吸った。


アキコがグラスを空ければ、安倍は何も聞かず次の一杯を頼んだ。


安倍のハイボールが減っていなければ、アキコが勝手に持って一口飲んだ。


そのたびに安倍は嫌そうな顔をする。


だが、新しいグラスを頼もうとはしなかった。


好きなのかと聞けば、安倍は否定するだろう。


嫌いなのかと聞いても、否定するに違いない。


関係へ名前をつけなかったから、十年以上も切れずに残った二人なのかもしれなかった。


日付が変わった。


誕生日が終わったのか、始まったのかは聞かなかった。


アキコは、さっきよりゆっくり酒を飲んでいた。


「トイレ」


安倍が立ち上がった。


酔っていても足取りはまっすぐだった。


扉の奥へ消え、鍵の閉まる音がした。


アキコは、ホースを持ったまま背もたれへ身体を預けた。


さっきまでより、店が広く見えた。


「安倍君、楽しそうやったね」


アキコが言った。


「アキコさんとおると、だいぶ違うね」


「普段は、あんなんやないん?」


「人に興味なさそう」


「昔からよ」


アキコは笑い、LIME LITを吸った。


白い煙を吐き終えてから、グラスの氷を揺らす。


「私、実は結婚したんだよねぇ」


あまりに軽く言ったので、聞き間違えたかと思った。


「誰が?」


「私が」


「いつ?」


「少し前」


「安倍、知っとるん?」


アキコは、答えなかった。


グラスの中で、溶けかけた氷がぶつかった。


「知らんの?」


「たぶんね」


俺は凍りついた。


ついこの前までホストへ貢いでいた女は、既婚の元ホストへ恋をした。


今日は共同経営者が、結婚したことを隠している女の誕生日を祝っている。


なぜ俺の周りには、こんなにもだらしない人間と、頼んでもいない揉め事ばかり集まるのか。


OMNIBUSはシーシャ屋であって、不倫相談所ではない。


「何で今日、安倍とおるん?」


「毎年、誕生日の近くは一緒に飲んどったから」


「結婚したんなら、旦那さんは?」


「今日は仕事」


「そういう問題?」


アキコは、少しだけ困ったように笑った。


「安倍はね、遅すぎたんよ」


「何が?」


「全部」


その言葉に、酒で濡らしたような軽さはなかった。


十年以上、近づいては離れた。


どちらかが手を伸ばせば、もう一人が引いた。


離れようとすれば、夜中に短い連絡が届いた。


終わらせるには長すぎて、始めるには遅すぎた。


アキコは、安倍を待つのをやめたのだろう。


それでも誕生日になれば、また隣へ座っている。


俺は笑わなかった。


「それは、ちゃんとあいつに伝えてやらんといかんのやない?」


アキコは俺を見た。


それから、目尻の皺を深くして、くしゃっと笑った。


「店長は若いねぇ」


「二十七やけんね」


「年齢の話じゃないよ」


「言わん方が大人なん?」


「さあ。言えんまま歳を取っただけかもねぇ」


トイレの鍵が開く音がした。


アキコは、何事もなかったようにホースを口元へ戻した。


安倍が席へ戻ってくる。


俺とアキコを交互に見た。


「何の話だ」


「店長が若いって話」


「俺より若いだろう」


「安倍君も、そういうとこ若いよねぇ」


「意味が分からない」


「分からんままでええよ」


アキコは、残っていたジントニックを飲み干した。


安倍は何も聞かなかった。


俺も、さっきの話を口にしなかった。


それは俺が伝えることではないと思った。


二人が店を出たのは、それから一時間ほどあとだった。


俺は、二人ともこれ以上酒を飲ませなかった。


安倍が配車を頼み、アキコへ上着を着せる。


「楽しかったぁ」


アキコが言った。


「また来てもええ?」


「客ならね」


「じゃあ、次も誕生日に来る」


「一年後やないですか」


「そのくらいが、ちょうどええのよ」


扉を出る前、アキコは俺を振り返った。


何かを約束するようにも、何も言うつもりがないようにも見える笑顔だった。


安倍は振り返らなかった。


二人の足音が階段を下りていく。


テーブルには、二人で吸ったLIME LITが残っていた。


ライムの明るい香りは薄くなり、冷たさだけが長く残っていた。


次の夜。


珍しく、安倍が二日続けて店へ来た。


一人だった。


いつもの鞄を持っていない。


帳簿も、物件の資料もなかった。


ネクタイは締まっている。


酒も残っていない顔だった。


ただ、いつもより少し疲れて見えた。


「一人?」


俺が聞くと、安倍は店内を見回した。


「見れば分かるだろう」


昨日、俺がアキコへ言ったのと同じ返事だった。


安倍は、昨日と同じソファへ座った。


アキコがいた方ではなく、自分が座っていた方へ。


「何飲む?」


「ウイスキー」


安倍が店で酒を頼むこと自体、ほとんどない。


「飲み方は?」


「ロックで」


「銘柄は?」


「任せる」


それが一番、安倍らしくなかった。


この男は、分からないものを分からないまま誰かへ任せることがない。


「シーシャは?」


いつものBERGAMOTだと思った。


安倍は少し間を置いた。


「LIME LIT」


俺は何も言わず、棚から同じ容器を取った。


昨日と同じようにフレーバーをほぐす。


同じボウルへ、同じ高さに詰める。


炭を外側へ置き、ゆっくり熱を入れた。


ウイスキーをロックで出す。


安倍はグラスを持ち上げ、氷を一度だけ回した。


「昨日は、悪かった」


「何が?」


「遅くまで店を開けさせた」


「客がおる間は開けとるよ」


「それでは、店がもたないと言ったはずだ」


「昨日は誕生日やったんやろ」


「そうだな」


安倍はウイスキーを飲んだ。


それ以上、昨日の話はしなかった。


LIME LITを吸い出す。


昨日と同じ、明るいライム。


同じ、吸い終わりの冷たさ。


煙の状態を確かめ、安倍の前へ置いた。


「LIME LIT」


安倍は新しいマウスピースをつけ、ゆっくり吸った。


白い煙を吐く。


「どう?」


聞いてから、昨日と同じ質問だと気づいた。


安倍は、煙が消えるまで見ていた。


「悪くない」


同じ答えだった。


だが、その言葉を美味しい側の評価だと説明する女は、隣にいなかった。


店には、ほかの客がいなかった。


安倍はLIME LITを吸い、ウイスキーを飲んだ。


俺はカウンターの中で、グラスを拭いた。


話したのは、炭の状態と、明日の天気くらいだった。


アキコが、結婚したことを伝えたのか。


安倍が、いつから知っていたのか。


二人が店を出たあと、何を話したのか。


聞こうと思えば、聞けた。


安倍は、俺が困ったとき、いつも必要なことを聞いた。


美緒のことで焦った夜も、彼女が何をしたかを一つずつ確かめた。


危ないと思う理由は伝えろ。


関係を切らずに見ていろ。


帰って来られる席だけ、空けておけ。


あの夜、安倍が俺へ言った言葉だった。


その夜は、安倍がその席へ座る番だった。


だから、何も聞かなかった。


炭の灰を落とした。


ライムが尖りすぎないよう、熱を少し外へ逃がす。


ウイスキーが減れば、同じ量だけ注いだ。


安倍が話すなら聞く。


話さないなら、煙が終わるまで店を開けておく。


それでいいと思った。


一時間ほどして、安倍はホースを置いた。


グラスには、溶けた氷だけが残っている。


「会計は?」


「共同経営者から取るん?」


「私的な飲食だ。店の経費へ入れるな」


安倍は、きっちり自分の分を払った。


こんな夜でも、安倍は安倍だった。


扉を開ける前、一度だけ店内を振り返る。


何か言うかと思った。


だが、何も言わなかった。


「またな」


俺が言う。


「ああ」


安倍は階段を下りていった。


LIME LIT。


明るいライムのあとに、冷たさだけが残る。


何があったのかは、聞かなかった。


聞かずに隣へいるのも、友達だった。

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