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OMNIBUS SMOKE  作者: gongon


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20/26

第二十煙 JASMINE MINT

夜を辞めることと、昼へ戻ることは、同じではない。


暗い場所から出た人間が、次に立つ場所まで正しいとは限らない。


それでも、自分で出口を選んだ人間へ、最初から道を説くのは違う気がする。


まずは、出口まで歩いたことを喜べばいい。


その先で迷ったときは、そのとき一緒に考えればいい。


シナがOMNIBUSへ来たのは、平日の遅い時間だった。


珍しく、その夜は客が一人もいなかった。


タカダさんも、先生も、ゴトウも来ていない。


俺はカウンターの中で、使い終えたグラスを拭いていた。


このまま誰も来なければ、少し早く閉めようと思っていた頃、階段から柔らかい靴音が聞こえた。


細いヒールではなかった。


扉が開く。


シナは、大きめの灰色のパーカーに、黒いパンツを穿いていた。


髪は巻かず、化粧も薄い。


足元に、仕事用の大きな鞄はなかった。


「一人?」


店内を見回して聞いた。


「見たら分かるやろ」


「あとから誰か来る?」


「予約はないよ。来たら追い返す?」


「そこまでせんでええ」


そう言いながら、少し安心したように見えた。


シナは、いつものソファへ座った。


以前なら、最初に携帯をテーブルへ置いた。


その日は鞄へ入れたままだった。


白い封筒もない。


「何にする?」


「JASMINE」


「久しぶりやね」


「うん。でも、今日はMINT入れて」


「どのくらい?」


「花の匂いが消えんくらい」


「注文うまくなったな」


「誰の店に通っとると思っとん」


「ほかのシーシャ屋も行きよるやろ」


「ばれた?」


シナが笑った。


袖から覗いた手首に、薄い傷が残っていた。


白くなりかけた線。


あの日から増えた新しい傷は、見える範囲にはなかった。


俺は棚からJASMINEとMINTを取り出した。


花の香りを潰さないよう、JASMINEを中心に、MINTは少しだけ合わせる。


フレーバーをほぐし、空気の通りを残してボウルへ詰めた。


炭を外側へ置く。


「あたし、夜やめるんよ」


あまりに普通の声だったから、最初は意味が分からなかった。


俺はトングを持ったまま、シナを見る。


「今日、休みなん?」


「そうやなくて」


シナは笑った。


「もう、やめるんよ」


「仕事?」


「うん。今月で店も辞める」


「風俗を?」


「ほかに、あたしが夜やっとる仕事ある?」


「ないけど」


炭から上がる熱が、指先へ伝わっていた。


「いいことやないか」


俺が言うと、シナは少し驚いた顔をした。


「もっと疑うかと思った」


「なんで。辞めたい言うた人間が辞めるんやろ」


「じゃあ、ホストはって聞かんの?」


「今から聞こうと思いよった。ホストは?」


「ホストも」


「担当んとこ、もう行かんの?」


「行かん」


答えは早かった。


ORANGEを吸った夜、三日行かなかったことを褒めてほしいと言った女とは思えないほど、迷いのない声だった。


「何かあったん?」


「いい人ができたんよ」


その一言で、少しだけ分かった。


シナは一人で立つために、男から離れたわけではない。


別の男の方へ歩き始めたのだろう。


「複雑やけど、よかったな」


俺が言うと、シナは目を細めた。


「複雑なんや」


「そら、ちょっとはね」


「素直に喜んでや」


「喜びよるよ」


「顔が看護師なんよ」


「どんな顔ぞ」


「何か問題ありますね、って顔」


「職業病や」


「シーシャ屋しよるときくらい忘れたらええのに」


「忘れたらいかんこともあるけんね」


数分蒸らし、ゆっくり吸い出した。


最初にJASMINEの甘い花の香りが立つ。


その奥から、MINTの冷たさが細く抜けた。


強すぎない。


花の香りを消すのではなく、あとに残る甘さだけを軽くしている。


炭の位置を整え、シナの前へ運んだ。


「JASMINE MINT」


シナはホースを取り、長く吸った。


白い煙を吐く。


「ああ、これ好き」


「MINT、足りる?」


「これくらいがええ。冷たすぎたらJASMINE分からんなるやろ」


もう一度吸う。


目を閉じ、煙を吐き終えてから、シナは言った。


「その人も、シーシャ屋なんよ」


「客?」


「店やりよる人」


「どこの?」


「今は言わん」


「何で?」


「店長、顔に出るけん」


「出さんよ」


「絶対、見に行くやろ」


否定しようとして、やめた。


たぶん、行く。


「どこで会ったん?」


「その店。OMNIBUS閉まっとった日に、ほか探して入った」


「うちが開いとったら、出会わんかったんか」


「やけん、たまには早う閉めてええよ」


「売上減るやろ」


「人の恋と売上、どっちが大事なん」


「俺の店の売上」


「最低」


笑いながら、シナはJASMINE MINTを吸った。


その男の店へ、最初は客として何度か通ったらしい。


仕事終わり。


担当の店へ行かないと決めた夜。


一人で家へ帰るには、まだ少し早いと感じた夜。


OMNIBUSが閉まっていれば、その店へ行った。


男は、シナが何をしているか知っても、辞めた方がいいとは言わなかった。


可哀想だとも言わなかった。


ただ、疲れた顔で来れば、今日は喋らなくていいと言って、シーシャを一本出した。


「それ、俺もしよるやろ」


「張り合わんといて」


「似たようなことしよるなと思って」


「店長は、朝になったら帰るやん」


「店やけんね」


「あの人は、店閉めたあとも一緒におってくれた」


「なるほど」


「それに、元ホストなんよ」


俺は、思わずシナを見た。


「よりによって?」


「その顔すると思った」


「男の選び方、変える気ないん?」


「元、やけん。今はシーシャ屋」


「元ホストのシーシャ屋か」


「店長も、元ヤンみたいな看護師のシーシャ屋やろ」


「一緒にすんなや」


「だいたい一緒よ」


否定しきれなかった。


夜の街で覚えた人の見方は、仕事を変えたくらいでは消えない。


元ホストなら、女がどんな言葉で安心するかも知っている。


寂しいときに連絡する時間も、返事を少し遅らせる意味も、身体で覚えているだろう。


だが、それだけで全部を嘘と決めることもできない。


人を喜ばせるために覚えたことを、本当に好きな人へ使うこともある。


「その人ね、あたしが風俗しよるって知っても、店の名前聞かんかったんよ」


「うん」


「辞めるって言うたときも、自分の店で働けって言わんかった」


「何て?」


「自分で決めたんなら、できることは手伝うって」


「昼の仕事は?」


「まだ決まってない。でも、派遣の登録した」


「自分で?」


「あたしを何やと思っとん」


「男がおらんと何もできん人」


言ってから、少し強すぎたと思った。


だが、シナは怒らなかった。


「前はね」


静かに答えた。


「でも、ORANGE吸った頃から、ちょっとずつ金残しよったんよ」


以前、白い封筒を担当の店へ持って行かず、自分の口座へ入れた夜があった。


何に使うのかと聞いた俺へ、まだ決めていないと答えた。


「あの金、何に使うか決まった」


シナは言った。


「夜やめるために使う」


「どのくらい持つ?」


「贅沢せんかったら、しばらく。昼の仕事決まるまでは何とかなると思う」


「家賃は?」


「先に取ってある」


「税金は?」


「急に現実戻すやん」


「大事やろ」


「分かっとる。相談しに行く」


「なら、ええ」


シナは少し得意そうに煙を吐いた。


男が手を引いたから、シナが夜から出られたわけではない。


ORANGEを吸った夜から、一日ずつ担当へ行かない日を増やした。


白い封筒を持って行かなかった。


自分の口座へ金を残した。


戻った日があっても、戻らなかった日をなかったことにしなかった。


その小さな積み重ねの先へ、たまたま男が立っていた。


そう思えば、少しだけ安心できた。


「担当には?」


俺が聞くと、シナはホースを置いた。


「最後に、一回だけ会った」


「金持って?」


「持たんと」


「何話したん?」


「好きやったって言うた」


過去形だった。


「向こうは?」


「無理せんでええ、いつでも戻っておいでって」


「最後まで営業するな」


「あの人の仕事やけんね」


「泣いた?」


「誰が?」


「シナ」


「ちょっとだけ」


シナは、人差し指と親指で小さな隙間を作った。


「ほんまにちょっと?」


「店出てから吐くほど泣いた」


「ちょっとの範囲広いな」


「でも、戻らんかったよ」


「うん」


「褒めて」


ORANGEを吸った夜と、同じ言葉だった。


あのときは、三日行かなかったことを褒めてほしいと言った。


「えらい」


「また適当」


「頭撫でた方がええ?」


「触ったら殺す」


同じ返事をして、シナは笑った。


その笑顔を見て、ようやく本当に一つ終わったのだと思えた。


「連絡は?」


「消した」


「向こうから来たら?」


「分からん」


「そこは、もう行かんって言うところやろ」


「今は行かんよ」


「今は?」


「一生の約束させんといて。今日できる約束だけにして」


それでいいと思った。


一生行かないと言って、明日戻れば、自分を嘘つきにしてしまう。


今日行かないという約束なら、今日の自分で守れる。


その日を重ねた先にしか、一生はない。


俺は、JASMINE MINTの炭を持ち上げた。


灰を落とし、熱が偏らない位置へ置き直す。


花の香りは、最初より柔らかくなっていた。


MINTの冷たさも、吸い終わりへ自然に馴染んでいる。


「で、その男とは、付き合っとるん?」


「うん」


「ちゃんと?」


「ちゃんとって?」


「ほかに相手おらんの?」


シナは、少しだけ視線を逸らした。


嫌な予感がした。


「おるよ」


「おるんか」


「奥さん」


店の中が、急に静かになった。


客は俺とシナしかいない。


音楽も、ちょうど曲と曲の間だった。


炭が小さく鳴る音だけが聞こえた。


「結婚しとるん?」


「うん」


「別れるって?」


「言いよる」


「いつ?」


「まだ分からん」


「それ、信じとるん?」


「信じたい」


シナは、俺の顔を見た。


「ほら、看護師の顔になった」


「今のは誰でもなるやろ」


「分かっとるよ」


「何が?」


「不倫が悪いことも。奥さんがおることも。新しい依存先を見つけただけかもしれんことも」


そこまで分かっていて、どうしてと言いかけた。


だが、その言葉を俺は飲み込んだ。


分かっていることと、やめられることは別だ。


それは、シナを見て何度も知ったことだった。


そして、俺自身が一番よく知っていた。


俺はバツイチだ。


離婚の原因は、俺の不倫だった。


家庭の外へ、自分だけの幸福を作った。


その時間が幸せだったことも、それで傷ついた人間がいたことも、どちらも本当だった。


不倫は間違っている。


誰かが知らないところで、その人の生活を削って作る幸福を、正しいとは言えない。


経験したからこそ、止めるべきなのかもしれない。


だが、自分が守れなかった正しさを、シナにだけ守れと言えるほど、俺は立派な人間ではなかった。


「店長、何か言わんの?」


「俺が言えること、ないよ」


「怒るかと思った」


「間違っとるとは思う」


「うん」


「でも、俺も同じことしたけん」


シナは驚かなかった。


以前から、何となく知っていたのかもしれない。


「奥さんのこと、忘れたらいかんよ」


「忘れてない」


「なら――」


「忘れたふりしよるだけ」


シナは、JASMINE MINTを吸った。


白い煙で、自分の言葉まで隠すように、長く吐いた。


「あたしも、最低なんは分かっとるよ」


「自分で言うても軽うならんぞ」


「軽うしたいんやない」


「なら、何?」


「それでも好きなんよ」


声は静かだった。


担当の話をするときの、熱に浮かされた声ではない。


もっと幼く、もっと素直だった。


「あたしね、男に会うために金払わんでええん、初めてなんよ」


「喜ぶ基準、低すぎん?」


「知っとる」


シナは笑った。


「白い封筒持ってなくても、会いたいって言うてくれた。しんどいって言うたら、店へ来いじゃなくて、俺が行くって言うてくれた」


「うん」


「手首の傷見ても、可哀想って顔せんかった」


シナは袖口へ触れた。


「ただ、痛かったねって言うたんよ」


それが本心なのか。


元ホストが覚えた、女を安心させる言葉なのか。


シナにも、俺にも分からない。


だが、その一言で救われた夜があったことまでは、嘘にできなかった。


「幸せなん?」


俺は聞いた。


シナは、すぐに頷いた。


「うん」


「この先も?」


「知らん」


「今は?」


「今は、幸せよ」


その顔は、担当の順位を上げたときの笑顔とは違った。


客から高い指名をもらったときの笑顔とも違う。


まるで、初めて人を好きになった少女のようだった。


自分が重ねている罪から、今だけは目を逸らすように笑っていた。


その笑顔を見ながら、俺は森鴎外の『舞姫』を思い出した。


豊太郎とエリスが、ベルリンの貧しい部屋で手に入れた短い幸福。


物語を読む人間は、その先で何が壊れるかを知っている。


だが、結末が悲しいからといって、二人が幸せだった頁まで嘘になるわけではない。


俺は、シナの物語の結末を知らない。


その男が本当に妻と別れるのか。


シナがまた夜へ戻るのか。


二人が誰かを傷つけた先で、それでも一緒にいるのか。


何一つ分からない。


分かるのは、その夜、目の前のシナが幸せそうに笑っていたことだけだった。


「明日ね」


シナが言った。


「昼に会うんよ」


「夜やないんや」


「映画見て、ご飯食べる」


「普通やな」


「普通やろ」


その普通を、自慢するように言った。


「男と昼に待ち合わせするん、何着たらええんやろ」


「俺に聞く?」


「聞いたあたしが悪かった」


「まだ何も言うてないやろ」


「店長、女の服分からんやん」


「元嫁おったぞ」


「おったことと、分かることは別やろ」


「正論言うなや」


シナは楽しそうに笑った。


未来の約束を話す声は、年相応より少し若く聞こえた。


「夜やめたらさ」


笑い終えてから、シナが言った。


「ここ、来たらいかん?」


「何で?」


「もう、風俗嬢やなくなるし」


「ここ、風俗嬢専用の店やないぞ」


「知っとるけど」


「最初から、風俗嬢にシーシャ出しよったんやないよ」


俺は言った。


「シナに出しよったんよ」


シナは、一度だけ目を伏せた。


泣くかと思った。


だが、顔を上げたときには、いつもの笑い方へ戻っていた。


「それ、口説いとる?」


「帰れ」


「まだ吸い終わってない」


「なら吸え」


「言い方が雑なんよ」


その雑な会話ができることに、俺も少し安心した。


俺は、冷たい茶を一杯出した。


「卒業祝い、酒やないん?」


「ホスト卒業する人間へ酒出すん、縁起悪いやろ」


「確かに」


シナは茶を飲み、JASMINE MINTを吸った。


携帯は最後まで鞄から出さなかった。


一本を、途中で立つことなく吸い終えた。


会計のとき、俺は首を横へ振った。


「今日はええよ。卒業祝い」


「嫌よ」


シナは金をカウンターへ置いた。


「金払わんでも会ってくれる男はできたけど、ここでは客でおらせて」


俺は少し迷ってから、金を受け取った。


「次からも、ちゃんと取るけんね」


「当たり前やろ」


初めて会った夜と、同じ言葉だった。


だが、テーブルに白い封筒はなかった。


「このあと、どこ行くん?」


「家帰る」


「会わんの?」


「明日、昼に会う言うたやろ。今日は寝る」


「寝れる?」


「楽しみすぎて寝れんかもしれん」


「子供か」


「初恋やけんね」


冗談のように言って、シナは扉を開けた。


階段へ出る前に、俺を振り返る。


「またね」


「また」


シナは、夜の仕事へ向かわなかった。


ホストクラブへも向かわなかった。


明日の昼に好きな男と会うため、一人で家へ帰っていった。


JASMINE MINT。


夜になるほど香る花へ、朝のような冷たさを重ねる。


シナはまだ、シナのままだった。


それでも、その夜の笑顔だけは、誰にも買われたものではなかった。

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