第十九煙 BLACK CURRANT
警察官と半グレが、同じ店へ入ることは珍しくない。
たいていは、一方がもう一方を追っている。
追われてもいないのに同じテーブルへ座り、同じ煙を吸うことの方が、たぶん珍しい。
ヨネミツとオチを、一日のうちに警察へ突き出してから数日が経った。
夜の街に正確な噂はない。
OMNIBUSで二件の窃盗未遂があった話は、三日もすると、店へ警察が二度踏み込んだ話に変わっていた。
さらに一週間も経てば、俺が二回逮捕されたことになるかもしれない。
「もうなっとるで」
タカダさんが言った。
いつもの席で、BLUEBERRY MINTを吸いながらチェの煙草へ火をつけている。
「何が?」
「お前が一日に二回パクられたいう話」
「店開けよるやろ。脱獄したんか、俺は」
「一回目で釈放されて、同じ日にもう一回捕まったらしいで」
「だいぶ忙しいな」
「二回目は、客の財布を盗ったとか」
「逆や。なんで俺が犯人になっとん」
「噂いうんは、面白え方へ走るけぇのう」
「営業マンが言うたらいかんやろ」
向かいのソファで、先生が答案から顔を上げた。
スキンヘッドに店の照明が反射している。
「学校では、店主が二人の窃盗犯を捕まえた話になっていますよ」
「ほら」
「ただし、素手で十人ほど倒したあとに」
「増えとるやないか」
「生徒の噂ですから」
「先生なら訂正してや」
「盗んだ人間を警察へ渡した、という部分は正しいでしょう」
「人数も訂正して」
「何人までなら本当なんですか」
「この前は一人も倒してないよ」
先生は、少し残念そうに答案へ戻った。
そのとき、階段を上がる足音がした。
急がず、一段ずつ。
扉の前で止まり、短い間を置いてからベルが鳴った。
入ってきたのは、紺色の上着を着た男だった。
年は三十代の後半くらい。
短く切った髪。
黒いパンツに、飾りのないスニーカー。
どこにでもいそうな服なのに、扉を閉めるより先に店内を見回した。
入口。
窓。
客の数。
最後に、防犯カメラ。
「一名、いけますか」
「どうぞ」
声に聞き覚えがあった。
だが、どこで聞いたのかがすぐには出てこない。
男はカウンターまで来ると、俺の顔を見た。
「今日は、財布は大丈夫ですか」
思い出した。
一度目も、二度目も来た警察官。
二度目に扉を開けて、俺へ向かって、またですかと言った方だった。
制服を脱ぐと、街ですれ違っても気づかない。
「今日はまだ、一回も盗られてないよ」
「まだ、をつけないでください」
「仕事?」
「休みです」
「ほんまに?」
男の視線が、もう一度防犯カメラへ向いた。
「見る癖がついてるだけですよ」
「怪しいな」
「警察官を怪しむ店主も珍しいですね」
「この店では、職業だけで人を信用せんけん」
男は、少しだけ笑った。
「森岡です」
「俺は――」
「知っています」
「そらそうか」
二回も通報者の名前を書いたのだから、知られていて当然だった。
「それで、休みの日に何しに来たん」
「一日に二回も呼ばれた店が、どういう店なのか気になっただけです」
「あの日に見たやろ」
「あれは現場です。今日は客として見に来ました」
客。
その言葉を自分から使ったのが、少し意外だった。
「シーシャは?」
「初めてです」
「甘いのは大丈夫?」
「甘すぎなければ」
俺は棚から、BLACK CURRANTを取り出した。
「黒すぐり。カシスやね」
「黒いんですか」
「実はね。煙は白いよ」
「それでお願いします」
フレーバーをほぐし、空気の通り道を潰さないようボウルへ詰める。
甘さの中に、黒い果実らしい酸味がある。
初めてなら、単体の方が味も分かりやすい。
炭を外側へ置き、ゆっくり熱を入れた。
蒸らしている間も、森岡は店の中を見ていた。
棚に並んだフレーバー。
低いソファ。
採点を続ける先生。
チェ・ゲバラのような男。
「あの方は?」
森岡が、小さな声でタカダさんを指した。
「敏腕営業マン」
「ほんまじゃ」
聞こえていたらしい。
「ほんで、こっちのハゲは教師じゃ」
「ハゲではなく、剃っています」
先生は顔を上げずに言った。
森岡が、俺を見た。
「本当に?」
「職業だけで人を疑うんも、あんまり良くないよ」
「あなたが言ったんでしょう。職業だけでは信用しないと」
「信用せんのと、全部疑うんは違うけんね」
「面倒な店ですね」
「まだ吸ってもないのに帰らんといてや」
熱が入ったところで、状態を確かめるためにゆっくり吸う。
ボトルが低く鳴った。
最初に立ったのは、少し尖った酸味だった。
そのあとから、熟したベリーの甘さが追いかけてくる。
炭の位置を整え、森岡の前へ運んだ。
「BLACK CURRANT」
新しいマウスピースを渡す。
「煙草みたいに強く吸わんと、口を少し開けたまま、ゆっくり吸って」
森岡は言われた通りに吸おうとして、途中で咳をした。
「難しいですね」
「逮捕はされんけん、ゆっくりでええよ」
「店主が警察へ言う冗談ではないでしょう」
二度目は、さっきより長く吸えた。
白い煙を吐き、少し目を細める。
「思ったより酸っぱい」
「熱が馴染んだら、甘さも出てくるよ」
「シーシャは、全部甘いものだと思っていました」
「人間と一緒じゃ。見た目だけじゃ分からんのんよ」
タカダさんが言った。
「ええこと言うた顔せんといて」
「ええこと言うたが」
「営業でよう使いよるんですか」
森岡が聞いた。
「今考えた」
「正直な人ですね」
「嘘つきが二人続いたけぇ、今日は正直にしとんじゃ」
森岡は、初めて声を出して笑った。
警察官にも、休みの日の笑い方があるらしい。
しばらくは、普通の夜だった。
先生が答案の珍回答を読み上げる。
タカダさんが、それより間違っている社会人の話をする。
森岡はBLACK CURRANTを吸いながら、二人の会話を聞いていた。
ときどき質問はするが、自分の仕事の話はほとんどしない。
聞くことに慣れている人間の喋り方だった。
「ここは、どんな客が多いんですか」
やがて森岡が聞いた。
「いろいろ」
「答えになっていませんね」
「先生も来るし、営業マンも来る。看護師も、風俗嬢も、医者も来るよ」
「昨日まで半グレだった人間も来るんですか」
タカダさんの煙が、一瞬止まった。
先生の赤ペンも止まる。
森岡は俺を見ていた。
声は変わっていない。
だが、休みの日だけの目ではなかった。
「来るよ」
俺は答えた。
「客としてなら」
「客なら、誰でも?」
「店で揉めん。武器を持ち込まん。人に迷惑かけん。金を払う。それが守れるならね」
「相手が何をしている人間か、知っていても?」
「知らんふりはせんよ。店の外まで俺が裁く気がないだけ」
森岡は、もう一度ホースを口元へ運んだ。
今度は咳をせず、ゆっくり煙を吐いた。
「危ない考え方ですね」
「そう?」
「店が逃げ場所になる」
「逃がすとは言うてない」
「人と人を繋ぐ場所にもなる」
「店の中で仕事の話はさせんよ」
「見えないところで繋がることもある」
「それは、この店やなくても繋がるやろ」
森岡は、すぐには返さなかった。
俺も、正しいと思っているわけではない。
いろいろな人間を同じ場所へ入れれば、いろいろなことが起きる。
ヨネミツとオチのような人間も、その中に混ざる。
それでも、扉の外の肩書きだけで、最初から鍵を閉めるつもりはなかった。
「乗合バスみたいなもんよ」
俺は言った。
「隣に座った人間の仕事も、降りる場所も、普通はいちいち聞かんやろ」
「危険物を持っていれば、運転手は降ろしますよ」
「やけん、武器と揉め事は持ち込み禁止」
「あなたが運転手ですか」
「店主よ」
「同じようなものでしょう」
その言い方を、少し前にも聞いた気がした。
扉のベルが鳴った。
入ってきた男を見て、森岡の表情から、休みの日が消えた。
ゴトウだった。
暗い色のジャケット。
手には携帯だけを持っている。
店へ入ると、最初に俺を見た。
次に森岡を見て、足を止めた。
「これは、珍しい方がいらっしゃる」
森岡はホースを置いた。
「あなたに言われたくありませんね」
「知り合い?」
俺が聞くと、ゴトウは笑った。
「私は一方的に知られているだけですよ」
「街を一つにしたがっている人間は、目立ちますから」
森岡が言った。
ゴトウの笑顔が、ほんの少しだけ深くなった。
「噂というものは、面白い方へ走りますね」
「それ、今日二回目に聞いたわ」
「私は一日に二回も逮捕されていませんよ」
「俺もされてない」
ゴトウは、店の奥へ入ろうとした。
「武器は?」
俺が聞く。
「持っていません」
「仕事は?」
「外へ置いてきました」
森岡の目が、ゴトウの上着をなぞった。
その視線に気づいても、ゴトウは両手を見える位置から動かさなかった。
「どうぞ」
俺は言った。
空いている席は、森岡の正面だった。
ゴトウは迷わず座った。
警察官と半グレの頭が、低いテーブルを挟んで向かい合う。
タカダさんは面白そうに二人を見ていた。
先生は採点を続けていたが、赤ペンが同じ場所で止まっていた。
「いつもの?」
俺が聞く。
「WHITE MUSKとKASHMIRをお願いします」
「今日は、何も起こさんといてよ」
「客へ毎回言うんですか」
「お前には毎回言う」
「信用がない」
「あると思っとったん?」
俺は二つのフレーバーを出した。
柔らかいWHITE MUSKへ、KASHMIRの乾いた香りを重ねる。
ボウルへ詰め、炭を置く。
振り返ると、森岡とゴトウは、まだ一言も話していなかった。
同じテーブルへいるだけで、互いが互いを調べている。
「一個だけ、言うとくよ」
俺は二人の間へ立った。
「森岡さんは、ここにおる間は警察やない。ゴトウも、半グレの頭やない。二人とも俺の客よ」
森岡が、すぐに首を振った。
「それは無理です。目の前で何か起きれば、休みでも動きます」
「何か起きたら動いて。何も起きてない間の話よ」
「この男がここにいること自体を、何も起きていないと言うんですか」
「座って注文しただけやろ」
「今のところは、模範的な客ですよ」
ゴトウが言った。
「自分で言うな」
「警察官が見ている前で、悪いことはしません」
「おらんときもするなや」
タカダさんが、堪えきれずに笑った。
「お前ら、どっちも面倒くせぇのう」
「タカダさんは黙っとって」
「ワシはただの客じゃろ」
「一番楽しんどる客や」
先生が赤ペンを置いた。
「採点が進まないので、喧嘩をするなら外でお願いします」
「先生が一番この店に慣れとるね」
「明日までに返さないといけないんです」
警察も半グレも、生徒の答案には勝てないらしい。
ゴトウのシーシャを立ち上げ、テーブルへ置いた。
白い煙が二人の間を通る。
森岡のBLACK CURRANT。
ゴトウのWHITE MUSKとKASHMIR。
甘酸っぱい果実の香りと、乾いた香りが、同じ店の空気へ混ざっていった。
「この人が何をしているか、知っているんですか」
森岡が俺へ聞いた。
「全部は知らんよ」
「知っている範囲では?」
「店の中で仕事の話はなし」
「私の質問も?」
「警察の仕事も、半グレの仕事も、外でしてや」
森岡は黙った。
ゴトウは、楽しそうに煙を吐いた。
「公平ですね」
「お前の味方しよるわけやないぞ」
「分かっています。だから気に入っているんです」
「私には、危うく見えます」
森岡が言った。
「ここへ来れば、普段は会えない人間に会える。話をしなくても、誰が誰と同じ時間にいたか分かる。それだけで情報になる」
「ほんなら、見んかったことにして帰る?」
「できないから困っているんです」
「ワシなら、名刺渡して帰るけどのう」
タカダさんが言った。
「警察へ営業するものがあるんですか」
「何でも売るんが営業じゃ」
「売ってはいけないものもあります」
「そこは選ぶわ」
「急に信用できなくなりました」
「最初から信用されとらんが」
森岡の口元が、少し緩んだ。
張りつめた空気が、一本だけ切れた。
先生が答案を重ね、赤ペンの蓋を閉めた。
「教師としては、店主の考えも分からなくはありません」
森岡が先生を見る。
「学校でも、教室の外では仲の悪い生徒がいます。それを全部持ち込まれたら、授業になりません」
「犯罪者と生徒を同じにはできないでしょう」
「同じではありません。ただ、場所の中だけでも守らせる規則は必要です」
「規則を守らない人間もいる」
「そのときは、退学ではなく警察へ渡すそうです」
先生が俺を見た。
「一日に二人までなら」
「三人目も渡すよ」
「そこは無制限なんですね」
ゴトウが笑った。
「厳しい店です」
「お前は真っ先に気をつけろ」
それから、奇妙な時間が流れた。
森岡は、もうゴトウへ質問しなかった。
ゴトウも、自分から話しかけなかった。
向かい合って煙を吸う。
互いを見ないふりをしながら、相手がホースを置く音まで聞いている。
乗合バスで、隣へ座った人間を警戒するように。
着信があったのは、ゴトウの携帯だった。
画面を確認し、立ち上がる。
森岡の視線も、一緒に動いた。
「外で話してきます」
ゴトウが俺へ言った。
「店の中では、仕事の話は禁止なので」
森岡へ聞かせるような言い方だった。
「戻ってくる?」
「まだ吸い終わっていませんから」
扉を開け、階段を下りていった。
森岡は、閉まった扉を見ていた。
追いかけようとはしなかった。
「あの人が、規則を守っているように見えますか」
「今は守っとるやろ」
「ここを使いたいからですよ」
「理由は何でもええよ」
「守る理由がなくなれば、破る」
「そんときは、店へ入れん」
「簡単に言いますね」
「難しく言うても、やることは一緒やけん」
俺は、BLACK CURRANTの炭を持ち上げた。
灰を落とし、位置を少しずらす。
熱が全体へ馴染み、最初にあった酸味の角が取れていた。
森岡が吸うと、さっきより濃い煙が出た。
「甘くなった」
「言うたやろ」
「同じものなのに」
「時間と熱で変わるよ」
「人間と一緒じゃ」
タカダさんが、また言った。
「それ気に入ったん?」
「二回目は流行るんじゃ」
「自分で流行らすんやないんよ」
森岡が笑った。
今度は、さっきより自然だった。
「あなたは、自分が何を作ったのか分かっていますか」
笑い終えたあと、森岡が聞いた。
「シーシャ屋」
「それだけですか」
「酒も出すよ」
「そういう意味ではありません」
「それ以外にしたくないんよ」
俺は答えた。
ゴトウも、似たようなことを言った。
人が集まれば、力になる。
普段なら交わらない人間を繋げられること自体が、店の価値だと。
だが、俺は誰かを繋ぐためにホースを渡しているわけではない。
煙を吸いたい人間へ、煙を出しているだけだった。
「客が勝手に意味をつけるんは止められんけどね」
「意味をつけられてからでは、遅いこともありますよ」
「ほんなら、森岡さんは何しに来たん」
「言ったでしょう。気になったからです」
「店が? ゴトウが?」
森岡は答えなかった。
扉のベルが鳴り、ゴトウが戻ってきた。
「何の話ですか」
「お前が面倒くさいいう話」
「その結論には同意します」
「自分の話ぞ」
ゴトウが元の席へ座る。
向かいの森岡も、BLACK CURRANTのホースを取った。
二人は、また何も話さなかった。
だが、最初の沈黙とは少し違っていた。
互いを無視しているのではない。
相手がそこにいることを認めたうえで、何もしない沈黙だった。
その夜、最初に席を立ったのは森岡だった。
「ごちそうさまでした」
「初シーシャ、どうやった?」
「悔しいですが、悪くなかったです」
「何に負けたん」
「自分でも分かりません」
森岡は財布を出し、自分の分を払った。
紙幣を受け取りながら、少し笑いそうになった。
この前は人の財布を開く人間を二人見た。
今日は警察官が、自分の財布から金を出している。
当たり前のことが、妙にまともに見えた。
森岡は、黒い名刺入れから一枚抜いた。
カウンターへ置く。
「何かあれば、ここへ」
「通報は、一日二回まで?」
「三回でも来ます。ただ、できれば一回も呼ばないでください」
「俺もそうしたいよ」
「次に来るときは?」
タカダさんが聞いた。
森岡は、少し考えた。
「できれば、また客として」
「ほんなら次はワシがミックス組んだるわ」
「遠慮します」
「まだ何も言うとらんが」
「警察官の勘です」
「休みでも使うんか、それ」
森岡は笑いながら扉を開けた。
階段へ出る前に、振り返る。
「店主さん」
「何?」
「この店、いつか本当に面倒なことになりますよ」
「もう十分なっとるけどね」
森岡は店内を見た。
教師。
営業マン。
半グレの頭。
最後に、俺を見る。
「そうでしょうね」
扉が閉まった。
足音が、階段を一段ずつ下りていく。
ゴトウが煙を吐いた。
「警察まで常連にするつもりですか」
「お前が客になれるんやけん、警察くらい入れるよ」
「私より、あちらの方が厄介かもしれませんよ」
「お前が言うな」
「ワシは次、裁判官と吸いてぇのう」
タカダさんが言った。
「何の話をするんですか」
先生が聞く。
「ワシの営業トークが、どこから詐欺になるんか聞くんじゃ」
「やめておいた方がいいでしょう」
「何でなら」
「有罪になるので」
ゴトウが声を上げて笑った。
俺も笑った。
笑いながら、カウンターに残った森岡の名刺を見た。
BLACK CURRANT。
黒い実から出た煙は、白かった。
だが、白い煙の中へ入ったからといって、人まで白くなるわけではない。
ただ、黒と白の境目が、一時だけ見えにくくなる。
その夜、警察官と半グレの頭は、同じバスへ乗った。
二人がどこで降りるのかは、まだ誰も知らなかった。




