第十八煙 PINOCCHIO LEMONADE
OMNIBUSでは、本名を名乗る必要はない。
仕事も、年収も、昨日どこで何をしていたかも、言いたくなければ言わなくていい。
だから、嘘をつく客は珍しくなかった。
自分を守るための嘘。
少しだけ大きく見せるための嘘。
誰かに好かれるまで、本当の自分を隠すための嘘。
店主として、それを一つずつ暴こうとは思わない。
だが、嘘をつく口と、人の財布へ伸びる手は別だった。
コーセイは、あの夜から半グレを辞めた。
グループは解散し、残った人間も、それぞれ別の場所へ散っていった。
しばらくして、コーセイは彼女と一緒に県外へ引っ越した。
詳しい事情は聞かなかった。
逃げたのかもしれない。
新しく始めるためだったのかもしれない。
本人がどちらと呼ぶかで、意味は変わる。
たまにこちらへ帰ってくると、OMNIBUSへ顔を出した。
来る前には、必ず短い連絡が届く。
――先輩、今日、客一人いけますか。
初めて店へ逃げ込んできた夜と違い、今は自分から客だと名乗る。
ある夜、コーセイが来たときには、タカダさんと先生がいた。
タカダさんは、いつものBLUEBERRY MINTとチェの煙草。
先生は、ROSEを吸いながら答案を採点している。
抗争が終わっても、二人は何も変わらなかった。
「今度は彼女も連れて来いや」
タカダさんが言った。
「この店見せたら、また半グレに戻ったんか思われます」
「ほんなら、ワシがおる日は避けた方がええのう」
「タカダさんが一番見た目悪いですからね」
「お前、足洗うたらよう喋るようになったのう」
「喧嘩売られても、もう人数呼べませんからやめてください」
先生が赤ペンを置いた。
「先に彼女へ、この店にはスキンヘッドの教師とチェ・ゲバラがいると説明しておけばいいんじゃないですか」
「先生、自分だけ職業で逃げるんずるない?」
「事実しか言っていません」
「ワシかて敏腕営業マンじゃ」
「見た目の説明になってないやろ」
コーセイが声を出して笑った。
以前より、少しだけ若く見えた。
人は肩書きを失うと、小さくなることがある。
コーセイは、軽くなったように見えた。
そんな変わらない夜が戻ってきてから、しばらく経った頃だった。
俺は、一日に二度、客を警察へ突き出した。
一人目は、ヨネミツという男だった。
土曜の夕方。
店には、タカダさんと美緒がいた。
先生は少し前までいたが、明日の授業があると言って帰ったあとだった。
ヨネミツは、扉を開けた瞬間から声が大きかった。
艶のあるジャケット。
金色の腕時計。
胸元には、どこかで見た高級ブランドに少し似た印がついている。
初めての店だと言いながら、誰かに見られているように店内を歩いた。
「俺、東京ではこういう店よう行くんよ」
「そうなん」
「会員制のとこ。芸能人も来るような」
「うちは会員制やないよ」
「地方は、そっちの方がええやろね」
地方という言葉を、都会へ行ったことのある人間だけが使える資格のように言った。
ヨネミツはカウンターに近い席へ座った。
「珍しいの、ある?」
「入れたばっかりのがあるよ」
俺は棚から、SARMAのPINOCCHIO LEMONADEを取り出した。
海外のフレーバーを扱う知り合いから、試してみてくれと譲られたものだった。
「ピノキオ?」
「キャラメルと柑橘のソーダ」
「ああ、それね。向こうで吸ったことあるわ」
容器を開ける前だった。
「どこで?」
「ロシア」
「さっき東京言うたやん」
「東京の店で、ロシアから入れたやつをね」
「なるほど」
嘘かもしれない。
本当かもしれない。
どちらでも、シーシャの値段は変わらない。
俺はフレーバーを軽くほぐし、ボウルへ詰めた。
炭を外側へ置き、数分蒸らす。
ゆっくり吸い出すと、柑橘の甘酸っぱい香りが立ち、その後ろからキャラメルの丸い甘さが重なった。
熱が偏らないよう炭の位置を整え、ヨネミツの前へ運ぶ。
「PINOCCHIO LEMONADE」
ヨネミツは、慣れているところを見せたかったのだろう。
ホースを受け取ると、こちらの説明を待たずに長く吸った。
白い煙を吐き、何度か頷く。
「現地で吸ったやつより、少し浅いね」
「現地?」
「ロシア」
さっきは東京の店と言っていた。
美緒が俺を見た。
笑いそうになるのを、口元のマウスピースで隠している。
それから一時間、ヨネミツは自分の話をした。
東京と大阪に会社を持っている。
海外にも事業がある。
乗っている車は、国内に数台しかない。
有名な俳優とは、下の名前で呼び合う仲だ。
今は地方の若い経営者を育てるため、こちらへ戻ってきている。
「何の会社しよん?」
タカダさんが聞いた。
「いろいろですね。コンサルが中心で」
「何のコンサルなら」
「企業の成長戦略とか」
「どがいに成長させるん?」
「そこは守秘義務があるから」
「一社も名前出せんのん?」
「成功してる人間ほど、表には出ないんですよ」
「そうか。ほんならワシは成功しとらんのう」
タカダさんは、楽しそうにBLUEBERRY MINTを吸った。
営業職は、人の嘘を暴く仕事ではない。
相手が自分から本当のことを話したくなるまで、質問を続ける仕事なのかもしれなかった。
ヨネミツの会社は、質問されるたびに業種が変わった。
それでも、誰も止めなかった。
見栄を張るだけなら、客の自由だった。
美緒が席を立った。
「ちょっとトイレ」
鞄は、ソファの隣へ置いたままだった。
口が少し開き、中に財布が見えている。
俺はカウンターでグラスを洗っていた。
ヨネミツはPINOCCHIO LEMONADEを吸いながら、しばらく携帯を触っていた。
やがて、店内を見回す。
立ち上がった。
美緒のソファへ近づく。
「おい」
タカダさんの声が止めた。
ヨネミツの手には、美緒の財布があった。
開いた札入れから、折り畳まれた紙幣が半分出ている。
「何しょんなら」
「いや、落ちそうだったから」
「財布が?」
「そう。直してあげようと思って」
「中の金まで直すんか」
タカダさんの声から、笑いが消えていた。
俺は手を拭き、カウンターを出た。
「財布、置いて」
「誤解ですよ」
「置け」
ヨネミツは、財布をソファへ戻した。
紙幣は手の中に残っている。
「それも」
「床に落ちてたんです」
「財布の中から?」
「だから、誤解だって」
美緒が戻ってきた。
俺たちを見て、足を止める。
「何?」
「財布、確認して」
美緒は鞄へ駆け寄った。
中身を数える。
ヨネミツの手にある紙幣と、足りない金額が一致した。
「警察、呼ぶ?」
俺が聞くと、美緒は一度だけ頷いた。
「呼んで」
「待ってくださいよ。返せば済む話でしょう」
「済むか」
自分でも驚くほど、大きな声が出た。
「嘘つくんは勝手よ。社長でも、金持ちでも、宇宙飛行士でも、好きに名乗ったらええ」
ヨネミツが黙る。
「でも、俺の店の中で人の財布へ手ぇ入れるやつは、客やない。絶対に許さん」
携帯を取り、警察へ連絡した。
ヨネミツは、警察にも知り合いがいると言った。
県警の偉い人間と、昨日も酒を飲んだらしい。
来た警察官は、二人ともヨネミツを知らなかった。
防犯カメラの映像を確認し、美緒とタカダさんから話を聞く。
ヨネミツは最後まで、財布が落ちないように直しただけだと言い続けた。
店を出る直前、俺を振り返った。
「こんな店、すぐ潰れるぞ」
「お前が来んでも潰れんように頑張るわ」
警察官に連れられ、階段を下りていった。
扉が閉まる。
美緒は財布を鞄の奥へ入れ、ファスナーを最後まで閉めた。
「怖かった?」
「腹立った」
「そっち?」
「あんたが一番怖かったよ」
タカダさんが、チェの煙草へ火をつけた。
「銃向けられたときより怒っとったんじゃねぇか」
「なんで知っとん」
「街の噂は営業の耳へ入るんよ」
「どこまで広まっとん、それ」
「お前が思うとるより、だいぶ」
美緒が呆れた顔で俺を見た。
「相変わらず、何しよんか分からんね」
「今日は店しよっただけやろ」
「店しよるだけで警察来んのよ、普通は」
俺はテーブルへ残ったPINOCCHIO LEMONADEの炭を整えた。
警察と話している間に、熱が少し落ちていた。
灰を落とし、炭を外側から少し内へ戻す。
柑橘の香りが、ゆっくり戻ってきた。
「まあ、日に二回もあることやないけん」
俺は言った。
その数時間後、二回目があった。
夜になり、美緒とタカダさんが帰った。
入れ替わるように、シナが来た。
仕事前なのか、仕事帰りなのか分からない黒い服。
以前より小さな鞄を持ち、いつものソファへ座った。
「今日、警察来たんやって?」
「早ない?」
「夜の街で、シーシャ屋にパトカー来たら三十分で広まるよ」
「嫌な街やな」
「店長が言う?」
シナへ茶を出していると、扉のベルが鳴った。
ゴトウだった。
暗い色のジャケット。
初めて来た夜と同じように、一人だった。
「こんばんは」
「武器は?」
「持ってませんよ」
「ほんまに?」
「客へ毎回それを聞くんですか」
「銃向けた客には聞くよ」
シナが、俺とゴトウを交互に見た。
「知り合い?」
「一回、殺されかけた」
「撃ってません」
「銃は向けたやろ」
「変な友達ばっかりやね」
「友達ではない」
俺とゴトウの声が重なった。
シナが笑った。
ゴトウは、以前と同じ入口の見える席へ座った。
「WHITE MUSKとKASHMIRを」
「今日は客なんやろね」
「そのつもりで来ました」
ゴトウが本当に約束を守るのか。
確かめる必要はあった。
俺は注文通りのフレーバーを作り、ゴトウの前へ運んだ。
その直後、二人目の男が来た。
名前は、オチ。
首元まで柄の入ったシャツ。
大きな指輪。
履いている靴は、歩くためというより、値段を見せるための形をしていた。
「この店、ゴトウも来るんや」
オチは、席に着く前に言った。
俺はゴトウを見た。
ゴトウも、オチを見た。
「知り合い?」
俺が聞くと、オチは笑った。
「ゴトウは、昔から俺の後輩よ」
「そうなん?」
ゴトウへ聞く。
ゴトウはホースを置き、丁寧に頭を下げた。
「いつもお世話になっております」
シナが茶を噴きそうになった。
オチは、冗談だと気づかなかった。
「昔はよう飯食わせたったんよ。今は何か、若いの集めて頑張っとるみたいやけど」
「おかげさまで」
「今度、また人紹介したるわ」
「ぜひ、お願いします」
ゴトウの笑顔は、アルファードで拳銃を向けたときより怖かった。
「シーシャ、何にする?」
俺が聞くと、オチは棚を見た。
「さっきの客が吸いよったん、何?」
「PINOCCHIO LEMONADE」
「それ、俺が海外から入れたやつやない?」
「多分、違うと思うよ」
「まあええわ。それで」
その日二台目のPINOCCHIO LEMONADEを作った。
同じフレーバー。
同じように炭を置き、同じ時間だけ蒸らす。
柑橘とキャラメルの煙まで、ほとんど同じだった。
違ったのは、オチの嘘の方が少し大きかったことだけだ。
オチは、県外にいくつも家があると言った。
政治家から、選挙へ出ないかと誘われている。
外国へ行けば、空港に迎えの車が来る。
この街の裏で起きることは、だいたい自分へ話が通る。
「最近、若いのがカルテル作るとか言いよるやろ」
オチが言った。
ゴトウは、WHITE MUSKとKASHMIRを吸いながら頷いた。
「聞いたことがあります」
「俺が、遊び半分で言うたことなんよ」
「勉強になります」
「まあ、あいつらだけじゃ無理やろうけどね」
「努力します」
シナは、もうオチを見なかった。
見れば笑ってしまうからだろう。
オチは、自分の話へ夢中になっていた。
ゴトウが立ち上がったのは、着信が入ったからだった。
「外で電話してきます」
ジャケットをソファへ残し、携帯だけを持って扉へ向かう。
店のルールを守って、店内で仕事の話をしないつもりらしい。
「すぐ戻ります」
扉が閉まった。
ゴトウのジャケットの内側から、財布の端が見えていた。
オチの話が止まった。
視線が、ジャケットへ向く。
一度、俺を見る。
シナを見る。
俺は炭の灰を落としていた。
シナは携帯へ目を落としている。
オチが立った。
ゴトウの席へ近づく。
ジャケットへ手を入れた。
「何しよん?」
声を出したのは、シナだった。
オチの手が止まる。
財布を半分引き出していた。
開いた札入れへ、もう片方の手を入れようとしている。
「落ちそうだったから、直してあげようと思って」
数時間前と、一言も違わなかった。
俺は、持っていたトングを炭受けへ置いた。
「お前ら、同じ教科書でも読んどんか」
「何の話?」
「財布、戻せ」
「これはゴトウのやろ。俺とあいつの仲なら――」
扉が開いた。
ゴトウが戻ってきた。
自分の財布を持つオチを見る。
「何をしてるんですか」
「落ちそうやったけん、直しよったんよ」
「私の財布が、私のジャケットから?」
「昔からの仲やろ」
「今日が初対面です」
オチの顔から、初めて言葉が消えた。
ゴトウが一歩近づく。
俺は、その前へ入った。
「店のルール」
「分かってますよ」
ゴトウは両手を見える位置へ上げ、その場で止まった。
約束を守った。
オチは、それを自分が助かった合図だと思ったらしい。
「ほら。本人も怒ってないやろ」
「怒ってますよ」
ゴトウは笑顔で答えた。
「ただ、ここでは客なので」
俺は携帯を取った。
「また警察?」
シナが聞いた。
「また警察」
「返すって。何も取ってないやろ」
オチが言った。
「一回目のやつも同じこと言いよったわ」
「一回目?」
「今日二人目よ」
自分でも、言いながら信じられなかった。
警察へ連絡し、事情を説明する。
さっきと同じ店。
さっきと同じ内容。
違うのは、名前と財布だけだった。
来たのは、一度目と同じ二人の警察官だった。
扉を開けた警察官が、俺の顔を見る。
店内を見る。
もう一度、俺を見る。
「またですか」
「俺が聞きたいわ」
シナが、声を立てて笑った。
警察官は、防犯カメラの映像を確認した。
シナから話を聞く。
ゴトウにも、財布の持ち主として確認する。
「被害届は?」
警察官が尋ねた。
ゴトウは俺を見た。
「店主に任せます」
「持ち主はお前やろ」
「では、出します」
オチが、信じられない顔でゴトウを見た。
「お前、誰に世話になったと思っとんぞ」
「本日、初めてお会いしました」
最後まで、ゴトウは丁寧だった。
オチは警察官に連れられ、階段を下りていった。
同じ日に、二人目。
警察官は帰り際、店内を見回した。
「財布は、各自で管理してください」
「ほんま、すいません」
俺が謝ることなのかは分からなかった。
扉が閉まる。
店に、静けさが戻った。
俺はPINOCCHIO LEMONADEの炭を一度外へ寄せていた。
灰を落とし、状態を見ながら熱を戻す。
柑橘の甘酸っぱさが、もう一度煙へ戻ってきた。
「一日に二回警察呼ぶシーシャ屋、初めて見た」
シナが言った。
「俺も初めてしたよ」
ゴトウは自分の財布を確かめ、ジャケットの奥へしまった。
「私が銃を向けたときより、怒ってましたね」
「店の中やけんね」
「なるほど」
「何が?」
「やはり、あなたを外へ出したのは失敗だった」
「次したら、客でも警察呼ぶぞ」
「気をつけます」
ゴトウが笑った。
シナも笑った。
俺は、笑えなかった。
PINOCCHIO LEMONADE。
嘘をついたピノキオは、鼻が伸びた。
大人の嘘つきは、代わりに人の財布へ手が伸びるらしい。




