第25話 無数の扉
壁の向こうに現れた、
無数の扉。
どれを開けても、何もない。
力任せには進めない場所で、
ミュルラスは、ある出来事を思い出します。
Les portes innombrables
壁が消えた。
その向こうを見て、
ミュルラスは黙った。
扉。
扉。
扉。
石造りの広い空間に、
同じような扉が、ずっと奥まで並んでいる。
右にも。
左にも。
奥にも。
どこまで続いているのか、暗くて見えない。
「……なんだ、これは」
エルネが、ミュルラスの後ろから顔を出した。
「ほっほー」
「ほっほー、じゃない」
ミュルラスは一番近くの扉へ向かった。
取っ手を掴む。
開ける。
中は空だった。
次。
開ける。
何もない。
その隣。
何もない。
さらに次。
空っぽ。
「……」
ミュルラスは歩く速度を上げた。
開ける。
閉める。
次。
開ける。
閉める。
次。
次。
次。
十。
二十。
三十。
「じじい」
返事がない。
振り返った。
エルネがいない。
「……じじい?」
少し戻る。
いた。
壁際に座り込んでいる。
膝の上に布を広げ、
パンを食べていた。
「おい」
「なんじゃ」
「何をしている」
「見れば分かるじゃろ。昼飯じゃ」
「今か?」
「昼は、とっくに過ぎておる」
ミュルラスは、エルネの手のパンを見た。
「どこから出した」
「荷物からじゃ」
エルネは気にせず、パンを一口食べた。
「お主も食うか?」
「いらん」
「そうか」
また食べる。
ミュルラスは、並んだ扉を見た。
「……終わらん」
「そうじゃな」
「何枚ある」
「知らん」
「なんとかしろ」
「わしに言われても困るのう」
「お前、さっきまで妙に詳しかっただろ」
「知らんものは知らん」
エルネは水を飲んだ。
それから、
もう一本のボトルをミュルラスへ差し出した。
「まあ、お主も水でも飲め」
「いらん」
「飲んどけ」
「……」
ミュルラスは受け取った。
喉が渇いていた。
立ったまま、水を飲む。
エルネがパンをちぎりながら言った。
「ダンジョンは初めてか?」
ミュルラスはボトルから口を離した。
「そうだな」
少し考える。
「似たようなところには入ったことがある」
「どうした?」
「壊した」
「……」
「大抵、一発で終わる」
エルネはパンを食べる手を止めた。
「壁もか?」
「壊す」
「扉も?」
「壊す」
「罠は?」
「壊す」
「……なるほどのう」
「なんだ」
「いや」
エルネは、またパンを食べ始めた。
ミュルラスは、
無数の扉を見た。
壊せばいい。
こんなもの。
全部まとめて吹き飛ばせばいい。
いつもなら、そうしていた。
だが、
今はできない。
このどこかに、ノエルがいる。
「……助けたい奴など、いなかったからな」
エルネの手が、
ほんの少し止まった。
だが、何も言わなかった。
ミュルラスは黙った。
助けたい。
その言葉が、妙に耳に残った。
そういえば、
前にも、似たようなことがあった。
ベルサイユ。
古い墓地。
何か分からないものが、
ノエルの周りに集まっていた。
危険だと思った。
だから全部、焼き尽くそうとした。
その時、
ノエルは――
やめて。
そう言った。
怖がるどころか、目を閉じた。
ただ、
声を聞こうとしていた。
「……」
ミュルラスは、
手にしていたボトルをエルネへ返した。
そして、
目を閉じた。
「どうした?」
「黙ってろ」
「ほっほー」
「それもやめろ」
静かになった。
ミュルラスは耳を澄ませた。
石の匂い。
遠くで落ちる水の音。
自分の呼吸。
エルネがパンを噛む音。
「じじい」
「なんじゃ」
「食うな」
「まだ半分ある」
「あとにしろ」
渋々、パンを包む音がした。
もう一度、
耳を澄ます。
最初は何も聞こえなかった。
だが、
やがて、
どこかから、小さな声がした。
――こっち。
ミュルラスが目を開けた。
右を見る。
扉。
――こっちだよ。
別の扉。
――こっち。
――こっち。
――ここ。
――こっちだよ。
声が増えていく。
あちこちの扉から、
小さな声が聞こえる。
「……聞こえる」
「何がじゃ?」
「声だ」
ミュルラスは歩き出した。
――こっち。
――ここ。
――こっちだよ。
全部が呼んでいる。
その時、
別の声がした。
微かだった。
「……?」
ミュルラスは立ち止まった。
――くるな。
「……」
もう一度、耳を澄ます。
――くるな。
扉ではない。
もっと低い。
――くるな。
――くるな。
――絶対、くるな。
ミュルラスは下を見た。
石の床。
「じじい」
「なんじゃ」
「下から聞こえる」
エルネが立ち上がった。
「何と?」
「来るな」
「ほう」
「来るな。絶対来るな、だと」
ミュルラスは右手を見た。
黒い指輪。
「ノエルはどこだ」
心の中で、
強く問いかける。
淡い光が宿った。
そして、
右手が、
すうっと下へ引かれた。
「……下だ」
エルネが近づいてくる。
「指輪もか?」
「ああ」
ミュルラスは床を見つめた。
指輪は下を示している。
だが、
声は来るなと言う。
「……」
エルネが尋ねた。
「どうする?」
ミュルラスは答えなかった。
――こっちだよ。
扉からは、まだ声がする。
――こっち。
――ここ。
床の下からは、
――くるな。
――絶対、くるな。
ミュルラスは眉を寄せた。
もし、
ノエルが、この下にいるなら。
危険な場所にいるなら、
あいつは、
「……呼ばない」
「ん?」
「あいつなら、呼ばない」
エルネが黙る。
「危ないところにいるなら、俺に来いとは言わない」
ベルサイユでもそうだった。
危険なものから、
誰かを遠ざけようとする。
自分が怖くても。
そういう奴だ。
ミュルラスは顔を上げた。
「こっちだ」
「ほっほー」
「じじい」
「なんじゃ?」
「パンはあとだ」
「もう包んだわい」
ミュルラスは床の一点を指した。
「ここだ」
エルネはしゃがみ込んだ。
細い杖を取り出す。
石の床へ、そっと先端を当てた。
何かを唱え始める。
聞いたことのない言葉だった。
低く。
古い響き。
やがて、
杖の先から、細い光が走った。
一本。
二本。
石の隙間を辿るように、
光が広がっていく。
ゴゴゴゴゴ――
床が震えた。
ミュルラスが一歩下がる。
石の床が、
ゆっくりと左右へ分かれていった。
冷たい空気が、
下から吹き上がる。
そこには、
闇の底へ向かって、
長い石の階段が続いていた。
à suivre…
壊すのではなく、
耳を澄ます。
かつてノエルが見せた魔法が、
今度はミュルラスの道を開きました。
二人は、さらに地下へ。




