第13話 幸せ
知らない言葉を、
ひとつずつ。
今日は、
「幸せ」について。
Le bonheur
「行くぞ」
「え?」
「どこに――」
言い終わる前に、
景色が、変わった。
*
大きな鏡。
大理石のような、石の台。
それから、
大きな、ソファーのようなもの。
「ここ、どこ?」
「風呂だ」
「お風呂?」
「服を脱げ」
「え?」
もう、
ミュルラスの姿は、なかった。
奥から、
水の音だけが聞こえている。
「……」
そういえば、
少し汗もかいている。
ベルサイユから、
魔界まで来た。
「……ゆっくりしよう」
ノエルは、
一枚ずつ服を脱いだ。
石の台へ、重ねて置く。
そして、
奥の扉を開けた。
「……え」
思わず、
立ち止まった。
壁。
天井。
すべてに、細かな装飾。
誰なのか分からない、
大きな彫像。
そして、
「……これ、お風呂?」
二十五メートルプールくらいある、
巨大な浴槽。
龍の口から、
大量のお湯が流れ込んでいる。
その近くで、
ミュルラスが、すでにくつろいでいた。
ノエルは、
辺りを見る。
「体、流さないと」
シャワーらしきものはない。
代わりに、
壁際の石像が、口を開けていた。
そこから、
お湯が流れている。
「……これかな」
その下で、お湯を浴びる。
「あれ?」
なんだか、
体が、綺麗になっていくような感じ。
不思議。
そのまま、浴槽へ入る。
「……深い」
思ったより、
ずっと深い。
ミュルラスから少し離れたところで、
なんとか浸かっていると。
「ノエル」
「ん?」
「こっちへ来い」
手招きされる。
「でも、深いんだけど」
ミュルラスが、
指を向ける。
浴槽の中から、
するすると、石が盛り上がった。
椅子。
座ってみる。
ちょうど、
首から上が出る。
「すごいね。このお風呂」
ノエルは、
辺りを見回した。
「こんなお風呂に、
毎日入れるなんて、幸せだね」
「幸せ?」
ミュルラスが、
こちらを見る。
「うん」
「……幸せ」
少し、考えている。
「どういう感じだ?」
「えっと……」
ノエルも、考える。
「一緒にご飯食べて、
嬉しかったのと、似てるかな」
「そうか」
少し間があった。
「寂しくない、
ということか」
「うーん」
ノエルは、首を傾げる。
「似てるかな」
「そうなのか」
「でも、
まあ。そんな感じ」
「……」
ミュルラスは、
お湯へ肩まで沈む。
「俺は」
「ん?」
「お前の家の、
小さい風呂も悪くないぞ」
「ほんと?」
「ああ」
「お前が、いろいろ叫んでるのが聞こえる」
「……僕?」
「ああ」
「何、叫んでた?」
「なんで、こんなに水浸しにしてるんだ、とか」
「……」
「脱ぎ捨てたまま、とか」
「……」
ノエルは、
なんとも言えない気持ちになった。
お母さんみたいだ。
「ねえ」
ノエルは、話を変える。
「さっき、
入口の石像から出てるお湯を浴びたら、綺麗になった気がした」
「おお」
ミュルラスの顔が、ぱっと明るくなる。
「分かったか?」
「やっぱり?」
「ああ」
得意そう。
「お前のところに行って、
石鹸だの、シャンプーだの使っただろ」
「うん」
「魔界には、そういうのがない」
「うん」
「だから、
この前戻った時に、
綺麗になる水を作った」
「……作ったの?」
「浴びれば、
綺麗になる。楽だろ?」
「……」
「なくなりかけたら補充しろ、
とか言われなくて済むしな」
「……」
やっぱり。
自分が、
お母さんみたいだったことが、ちょっと恥ずかしい。
「ねえ、
ここのお風呂って、温泉なの?」
「温泉?」
「もともとお湯?
それとも、沸かしてるの?」
「もともと、湯だな」
「へえ」
「本当は、もっと熱い」
ミュルラスが、
龍の口を見る。
「あそこから出る時に、
ちょうどいい温度になるよう、魔法をかけてある」
「じゃあ、近くに火山とかある?」
「ああ。熱い水が湧いてる」
「それ、温泉だよ」
「そうなのか?」
ノエルは、お湯へ手を沈める。
「これ……四十二度くらい?」
「よく分かったな」
「うん。
僕、温度とか、匂いとか、味とか。
体で感じるものは、だいたい分かるんだ」
「熱いか?」
「少しね」
考える。
「すぐ上がるなら、
これくらいでもいいけど」
「うん」
「ここで、
魔法少女ミルキー読みながら入るなら、
三十九度くらいがいいんじゃない?」
「……」
ミュルラスの目が、輝いた。
「おおおおお」
「なに?」
「すごいな、ノエル」
「そこ?」
「そうか」
龍の口を見る。
「ここで、読めるのか」
「……そこなんだ」
ミュルラスが、指を向ける。
流れ込む湯が、
少しだけ変わった。
ノエルが、
触ってみる。
「……ほんとに三十九度」
ミュルラスは、
満足そうだった。
しばらく、
二人で、お湯に浸かっていた。
龍の口から、
静かに湯が流れている。
「ノエル」
「ん?」
ミュルラスが、
ぽつりと言った。
「今日は、
お前とこうして風呂に入れると」
少し、
考える。
覚えたばかりの言葉を、
確かめるように。
「幸せだな」
「……」
ノエルは、
ミュルラスを見る。
顔が、
少し熱い。
お湯のせい。
たぶん。
「うん」
湯気の向こうで。
ミュルラスは、
ゆっくり、
目を閉じた。
à suivre…
一緒にご飯を食べて。
一緒に、
お風呂に入る。
幸せは、
案外そんなところに、
あるのかもしれません。




