第9話 月が二つ
知らない匂い。
知らない空。
木の向こうには、
知らない世界が、
待っている。
Deux lunes
境界樹の中は、
思っていたより、広かった。
京都へ抜けた時とは違う。
どこまで続いているのか、
分からない。
暗い。
けれど、
真っ暗ではない。
木の内側なのか、
それとも、もう木ではないのか。
ノエルには、
よく分からなかった。
ただ。
「……匂い」
足を止める。
ベルサイユで、
雨の向こうに感じた匂い。
あの時より、ずっと強い。
ミュルラスが、
振り返った。
「分かるか」
「うん」
もう一度、
息を吸う。
知らない。
でも。
あの時と、同じ匂い。
「ここだ」
ミュルラスが、
前を向く。
何もない場所を、
爪の先で、
そっとなぞった。
空間に、
細い線が走る。
それが、
ゆっくり開いた。
裂け目の向こうから、
冷たい空気が流れ込む。
ミュルラスは、
迷わず入っていった。
ノエルも、
あとに続く。
*
少し、
ひんやりしていた。
ノエルは、
顔を上げる。
「……わ」
星。
無数の星が、
空を埋めている。
ベルサイユとも。
京都とも違う。
遠くに、
大きな城が見えた。
その向こうにも、
何かが広がっている。
森なのか。
街なのか。
暗くて、
まだよく分からない。
「ここが……」
魔界。
そう言おうとした時、
ミュルラスが、ノエルの手首を掴んだ。
「え?」
次の瞬間。
景色が、消えた。
*
「お帰りなさいませ、魔王様」
低い声。
ノエルが、
瞬きをする。
目の前に、
誰かが跪いていた。
ラザン。
「……え?」
さっきまで、外にいた。
星空の下に。
なのに.....
隣を見る。
ミュルラスが、いない。
「……?」
顔を上げる。
いた。
少し離れた、
大きな玉座に、
深く腰を下ろしていた。
長い脚を組み、
片肘を置いて。
まるで、
最初から、そこにいたように。
「……」
ノエルは、
周囲を見回した。
広い。
とても、
広い。
床も。
壁も。
何でできているのか、
分からない。
石のようにも見える。
けれど、石とは違う光を持っている。
高い天井まで、
何本もの柱が伸びていた。
一本一本に、細かな彫刻。
見たことのない植物。
獣。
文字のようなもの。
頭上には、
巨大なシャンデリア。
その装飾も、
あまりに細かくて、
どこを見ればいいのか分からない。
知らないものばかりだった。
「……」
たぶん、
相当、変な顔をしていたのだと思う。
玉座から、声がした。
「瞬間移動だ」
ノエルが、
振り返る。
ミュルラスが、
こちらを見ている。
口元が、
少し上がっていた。
どうだ。
そう言いたそうな顔。
「……先に言ってよ」
「言ったら、つまらんだろ」
「つまらなくないよ」
ミュルラスは、
楽しそうだった。
その時。
ラザンが、ゆっくり顔を上げた。
そして、ノエルを見る。
「……その人間を、お連れになったのですか」
なんとも言えない顔だった。
「そうだ」
ミュルラスは、
それだけ答えた。
その時、
ノエルは、別の気配に気づいた。
ラザンから少し離れた場所に、三人。
全員、跪いている。
一人が、
顔を上げた。
ノエルを見る。
鋭い目。
もう一人は、
何も言わず、
じっと観察している。
最後の一人だけは、
明らかに、
嫌そうな顔をした。
そして、
順番に頭を下げる。
「お帰りなさいませ、魔王様」
「お帰りを、お待ちしておりました」
「魔王様」
ミュルラスは、三人を見た。
「ああ」
それだけだった。
それから、
思い出したように、ノエルを指す。
「お前たち」
三人が、
顔を上げる。
「ノエルを食うなよ」
「……」
ノエルも、
ミュルラスを見る。
「食う?」
「人間だからな」
「……」
三人のうち、
一人が目を逸らした。
余計に、怖い。
ミュルラスは、
気にする様子もなく続ける。
「明日から、少し魔界を回ってくる」
「御意」
「下がれ」
三人が、立ち上がる。
それぞれ、
もう一度だけノエルを見て、
広間から、姿を消した。
ラザンだけが、残った。
「魔王様」
「なんだ」
「お供させていただきます」
「いや。いい」
ラザンの眉が、動く。
「ですが――」
「今回も、城を守れ」
「しかし、魔王様」
「ラザン」
声は、大きくなかった。
けれど、それだけで、空気が変わった。
ラザンは、
少し黙る。
そして、
深く頭を下げた。
「……はっ」
ミュルラスが、
玉座から立ち上がる。
ノエルのところまで来る。
「行くぞ」
「どこに?」
返事の代わりに、手首を掴まれた。
「え?」
また。
景色が、消えた。
今度は、
静かな場所だった。
「……」
壁一面に、本。
上を見上げる。
ずっと、本。
何階あるのかも、
分からない。
円を描くように、
書架が続いている。
「ここは?」
「塔の図書館だ」
「図書館……」
ノエルは、
ゆっくり辺りを見回した。
古い本。
見たことのない文字。
棚と棚をつなぐ、細い階段。
高いところには、
暗くて見えない場所まである。
さっきの広間とは違う。
静かだった。
その時、
奥から、淡い光が差していることに気づいた。
壁を大きくくり抜いたような、窓。
ノエルは、
吸い寄せられるように、そこへ向かった。
「……すごい」
夜空。
星。
ベルサイユで見るより、ずっと多い。
その中に。
大きな光が、浮かんでいる。
一つ。
そして。
その少し離れたところに、もう一つ。
ノエルは、
目を凝らした。
「ミュルラス」
「なんだ」
窓から、目を離せなかった。
「月が……」
二つ。
魔界の夜空には、
月が、二つあった。
à suivre…
初めて見る、
魔界の夜。
星の向こうに、
月が二つ。
ここから、
夏休みが始まります。




