第8話 夏休みだけ
夏休みだから。
少し遠くへ、
出かけるだけ。
たぶん。
Juste pour les vacances d’été
「魔界って、何持っていったらいい?」
ノエルは、
開けたままのクローゼットの前で、振り返った。
「そうだなあ……」
ミュルラスは、
自分の服を見下ろす。
黒いTシャツ。
それを、
指で引っ張った。
「服は、向こうでもなんとかなる」
「うん」
「でも、こういう軽いのは、あまりない」
「Tシャツ?」
「ああ」
今度は、穿いているスウェットを引っ張る。
「これも」
「スウェットも?」
「ああ。楽だからな」
その時、
ノエルは、ふと気づいた。
「……ねえ」
「なんだ」
「君って、パンツ穿いてる?」
「パンツ?」
ミュルラスが、首を傾げた。
「なんだ、それ」
「……やっぱり」
思い返せば、
洗濯をしていても、
一度も、ミュルラスのパンツを見たことがない。
「パンツってなんだ」
「えっと……」
ノエルは、乾いた洗濯物を入れてある棚へ行った。
一枚、
取り出す。
「これ」
ミュルラスが、受け取る。
裏。
表。
しばらく眺める。
「へえ」
そして、
「穿いてみていいか?」
「え?」
次に見た時には、
もう穿いていた。
「……」
ミュルラスは、少し動く。
「なんか、締めつけるな」
「……」
ノエルは、
しばらく黙った。
「いいよ。君は穿かなくても……」
「あ」
思い出した。
「じゃあ、こっちは?」
別の棚から、
ボクサータイプのものを出す。
水着にも使える、軽い素材。
「これは?」
「もう少し、楽だと思う」
ミュルラスが、
穿き替える。
少し歩く。
「……スースーするな」
「穿いてなかった時と、あんまり変わらない?」
「そうだな」
もう一度、
腰のあたりを確認する。
「でも、これいいな」
「そう?」
「ああ。これだけでいいんだろ?」
「……まあ、部屋なら」
「楽だな」
どうやら、
気に入ったらしい。
そしてそのまま、
ゲームを物色し始めた。
「……」
ノエルは、
クローゼットへ戻った。
Tシャツ。
下着。
靴下。
薄いパジャマ。
とりあえず、
二週間くらい。
昨日覚えたばかりの、
大きなポケットを意識する。
一枚。
また一枚。
服が、
空気の中へ消えていく。
だんだん、
面白くなってきた。
「ねえ」
「なんだ」
「魔界にも、草とか花ってある?」
「ああ。当たり前だろ」
「どんなの?」
「知らん。いっぱいある」
「持って帰れる?」
「物によるな」
カチャ。
音がした。
ノエルが振り返る。
「……何してるの?」
さっき、
確かにポケットへ入れたはずのゲーム機が、
もうテレビにつながっていた。
「ゲーム」
「それは見れば分かるよ」
ミュルラスは、
すでにコントローラーを持っている。
ノエルは、
少し笑って、
荷造りに戻った。
魔界の、草花。
どんな香りがするんだろう。
小さなガラス瓶。
紙のサンプル袋。
ピンセット。
小さなハサミ。
ラベル。
油性ペン。
必要そうなものを、
机の上に並べていく。
採った場所。
色。
形。
それから、
最初に嗅いだ時の香り。
忘れないように、
書いておこう。
一つずつ、
ポケットへ入れる。
「あ」
ノエルは、手を止めた。
「何?」
「魔界って、どんな匂いがするんだろう」
ミュルラスは、
ゲーム画面を見たまま答えた。
「さっき嗅いだだろ」
「……え?」
「木のところで」
ノエルは、窓を見る。
雨に濡れた、大きな木。
「……あれ?」
「ああ」
それ以上、
ミュルラスは何も言わなかった。
画面の中で、
戦闘が始まっている。
ノエルは、
もう一度、窓の外を見た。
あの匂い。
ほんの一瞬だけ、
鼻先を掠めた。
知らない匂い。
「……」
ノエルは、
また荷造りを続けた。
ノートPCだけは、
ポケットには入れなかった。
これは、
リュック。
充電器も。
それから、
「ねえ」
「なんだ」
「どのくらい行くの?」
「何が」
「魔界」
「知らん」
「知らんって……」
ノエルは、
ポケットへ入れかけていたTシャツを止めた。
「夏休みが終わる頃には、戻ってくるからね」
「夏休み?」
「大学の」
「いつまでだ」
「九月」
ミュルラスは、
少し考えた。
「分かった」
「ほんとに?」
「ああ」
「夏休みだけだからね」
「分かった」
なんとなく、
信用できない。
ノエルは、
Tシャツをもう一枚、ポケットへ入れた。
念のため。
それから、
ミュルラスの分も、何枚か。
さっき気に入った、ボクサーも。
大きめで、ノエルには合わなかったものが、
いくつかある。
たぶん、
ミュルラスなら穿ける。
黙って、
ポケットへ入れた。
「ノエル」
「ん?」
「これも持っていく」
振り返る。
ミュルラスが、
あの古い絵本を持っていた。
「……うん」
絵本が、
その手から消える。
理由は、
聞かなかった。
準備は、できた。
ノエルは、
窓の外を見る。
雨の向こうに、
大きな木がある。
「明日、あそこから行くんだよね」
「ああ」
昨日まで、
ただの木だった。
窓を、
少し開ける。
濡れた葉。
雨。
その奥に、
かすかに、知らない匂い。
明日。
あの木の向こうへ行く。
à suivre…
二千年生きてきた魔王。
今日、
パンツを知りました。
どうやら、
ボクサーは気に入ったようです。




