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第7話 大きなポケット


旅に出るなら、

必要なものを。


たぶん、

たくさん入るから。



Une grande poche


雨が、

降っていた。


境界樹を抜けた途端、

細かな雨粒が、葉の向こうに見えた。


「……ベルサイユだ」


ノエルは、

大きな木を見上げた。


見覚えがある。

というより、


「これ……」


振り返る。


すぐそこに、

自分の部屋の窓がある。


「僕の部屋の前の木じゃない?」


「ああ」


「これ、境界樹だったの?」


「そうだ」


「知らなかった……」


何度も、

窓から見ていた木だった。


その時。

ふっと、何かが鼻先を掠めた。


ノエルは、

顔を上げる。


「……ん?」


もう一度、息を吸う。


すん。

すん。


湿った木の匂い。


雨。

土。


その奥に、

知らない匂いがある。


「何してる」


「なんか、匂いがする」


「匂い?」


「うん」


ノエルは、

もう一度鼻を鳴らした。


ミュルラスも、

少しだけ空気を嗅ぐ。


「ああ」


「分かる?」


「魔界の匂いだ」


「……魔界?」


「ああ」


それだけ言うと、

ミュルラスは、もう窓へ向かっていた。


ノエルは、

もう一度、雨の向こうの空気を嗅いだ。


けれど。

さっきの匂いは、もう分からなかった。


「ノエル。行くぞ」


「え?」


ミュルラスは、

もう、窓の前に立っている。


「そこから入るの?」


「ああ」


「鍵かかってるよ」


「壊せばいい」


「やめて」


ノエルは、即答した。


「玄関から入ろう」


下に降りようとした時。


ミュルラスが、

指先を、すっと動かした。


カチ。


「……」


窓の鍵が、開いた。


ミュルラスが、

顎を動かす。


「行くぞ」


「……」


ノエルは、

開いた窓を見る。


それから、

ミュルラスを見る。


「そういう魔法も、使えるんだ……」


「鍵を開けただけだ」


「僕には、できないけどね」


仕方なく、

窓から入った。


大きな木の葉が、

傘のようになっていたおかげで、

二人とも、ほとんど濡れていなかった。


部屋へ降りる。


ノエルは、

髪についた雨粒を払った。


そして、


「あ」


「なんだ」


「絵本」


ミュルラスを見る。


「古木に忘れた!」


「あるぞ」


「え?」


次の瞬間、

ミュルラスの手に、

あの古い絵本があった。


「……」


ノエルは、

絵本を見る。


「どこに持ってたの?」


「空間だ」


「空間?」


「お前、入れられないのか?」


「何を?」


「物を」


「どこに?」


「空間に」


「……なにそれ」


ミュルラスは、少し考えた。


「魔界に行くんだから、覚えた方がいいな」


「僕も?」


「ああ」


指を折りながら、数え始める。


「水。

ミルク。

蜂蜜。

肉巻き」


「肉巻き?」


「必要だ」


「何日行くつもりなの」


「知らん」


「知らないの?」


「だから、全部持っていく」


その瞬間、

ミュルラスの手に、

いつもの黒い服が現れた。


「……」


「こういうものも入る」


次の瞬間、

服が消える。


「ちょっと待って」


今度は、ゲーム機が現れた。


そして、

消えた。


ノエルは、目を細めた。


「ねえ」


「なんだ」


「ゲーム、持っていくの?」


「ああ」


「魔界に?」


「ああ」


「コンセントとか、どうするの?」


ミュルラスの手に、

もう一度、ゲーム機が現れた。


本体から伸びたコード。

その先のプラグを見る。


「……」


少し考える。


「まあ、作ればいい」


「何を?」


「これを刺すところ」


「コンセント?」


「多分」


ゲーム機が、また消えた。


「どうなってるの、それ」


「見るか?」


「見れるの?」


「ああ」


ミュルラスが、

ノエルの肩を抱いた。


「ちょっとこっち来い」


「うん」


何もない場所へ、手を伸ばす。


空気が、

わずかに歪んだ。


「ここだ」


「……ここ?」


「覗いてみろ」


ノエルは、

恐る恐る、顔を近づけた。


そして、


「うわあああああ!」


飛び退いた。


ミュルラスを見る。


「なに、これ!」


「何って。物をしまうところだ」


「底がなかったよ!」


「まあ、そうだな」


「暗いし!どこまであるの?」


「俺なら――」


ミュルラスは、少し考える。


「街一つくらいは、入るんじゃないか」


「いやいやいやいや」


ノエルは、両手を振った。


「そんなに入れなくていいよ」


「お前もやってみろ」


「僕も?」


「ああ」


ミュルラスは、ノエルを見る。


「そうだな……」


急に、顔が近づいた。


「え?」


金と赤の瞳が、目の前にある。


「ちょっと待って」


「動くな」


さらに、近づく。


「……おお」


「何?」


「かなりあるじゃないか」


「何が?」


「魔力」


「なんで分かるの?」


「瞳を見る」


「瞳?」


「中の粒子だ」


「粒子……?」


「魔力が多いほど、よく見える」


「そんなの、見えるの?」


「ああ」


ミュルラスが、自分の目を指す。


「ほら。俺のを見てみろ」


ノエルは、

金と赤の瞳を見る。


じっと。


「……」


もう少し。


「……分からない」


「よく見ろ」


「見てるよ」


鼻先が、

触れそうだった。


金。

赤。

その奥に、

何かがあるのか。


探そうとしていると、


「すごいだろ?」


柔らかい声が、

息と一緒に、ノエルの頬に触れた。


「……」


急に、顔が熱くなった。


ノエルは、

ぱっと離れた。


「分からなかった」


「そうか」


ミュルラスは、

まったく気にしていない。


部屋を見回す。


「お前なら……」


指をさす。


L字のソファ。

その前のテーブル。


「このくらいは、余裕で入る」


「そんなに?」


「ああ」


「どうやるの?」


「入ると思って、手を入れる」


「どこに?」


「適当に」


「いい加減だなあ……」


ノエルは、

恐る恐る、何もないところへ手を伸ばした。


すっ。


ただ、

空気を掻いた。


もう一度。


何もない。


「できないよ」


「違う」


ミュルラスが、隣へ来た。


ノエルの手を、

そっと掴む。


「いいか。こうだ」


そのまま、空中へ。


すっ。


「うわ」


指先の感覚が、消えた。


冷たいわけでも、

熱いわけでもない。


そこだけ、

世界がなくなっているような。


「なにこれ……」


「そこだ」


ミュルラスが、

手を離す。


「覚えたか?」


「多分……」


「じゃあ、これを入れてみろ」


テーブルの上に、

二リットルの水のボトルがある。


ノエルは、

それを持った。


さっきの感覚。

何もないところへ、

そっと押し込む。


すっ。


ボトルが、

消えた。


「……」


「できたな」


「おおおおお……」


ノエルは、

同じ場所へ手を入れる。


ボトルが、出てくる。


もう一度。


消える。

また出す。


「すごい」


また入れる。

また出す。


「ノエル」


「うん」


「もう分かっただろ」


「ちょっと待って。面白い」


もう一度、

消す。


ミュルラスは、

その横で、

旅支度を始めていた。


「これ、どこでもできるの?」


「ああ。

最初は今の位置から出すのが、

一番やりやすい」


「この原理は、どうなってるの?」


「知らん」


「知らないの?」


「ああ」


そう言いながら、

ミュルラスは、本棚から何かを抜いた。


一冊。

また一冊。


『魔法少女ミルキー』が、

次々と空間へ消えていく。


「……ねえ」


「なんだ」


「それも、全部持っていくの?」


「当然だ」


最後の一冊が、消えた。


魔界への旅支度は、

着々と、進んでいた。


à suivre…



水。

蜂蜜。

ゲーム。

漫画。


魔界へ行く準備は、

たぶん、

これで大丈夫。


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