第5話 絵本の中の青年
ずっと、
絵本の中にいた人。
その人が今、
隣にいる。
Le jeune homme dans le livre
古木の中は、静かだった。
外では、
あれほど蝉が鳴いているのに。
ここだけ、
時間から取り残されているようだった。
ミュルラスの手には、
古い絵本。
表紙に浮かんだ金の光は、
もう消えていた。
けれど。
中央に刻まれた紋章と、
右手の指輪。
同じ形。
ノエルは、
もう一度、見比べた。
「……同じだね」
「ああ」
ミュルラスは、
指輪を見る。
「これ、どこで手に入れたの?」
「知らん」
「覚えてない?」
「気がついた時には、持っていた」
それ以上は、
何も出てこなかった。
ミュルラスは、絵本を開いた。
最初のページ。
長いあいだ眠っていた紙が、
かすかな音を立てる。
「読める?」
「いや」
ページをめくる。
「これは?」
「分からん」
また、一枚。
また、一枚。
突然、
指が止まった。
「……これは読める」
「え?」
ノエルが、
隣から覗き込む。
ミュルラスは、
そこに書かれた文字を、ゆっくり読んだ。
「耳を澄ます」
ノエルは、目を見開いた。
ベルサイユで、一緒に覚えた魔法だった。
「他は?」
ミュルラスは、
次のページを見る。
「読めん」
その次も。
「これも」
「……そっか」
最後の方まで、
ページをめくっていく。
そして。
ミュルラスの手が、
止まった。
「……」
ノエルも、
何も言わなかった。
そこに、
一人の青年がいた。
長い黒髪。
白い肌。
整った顔。
長い睫毛の奥に、
金と赤の瞳。
若い。
けれど。
「……似てる」
似ている、というより、
ノエルは、隣にいるミュルラスを見る。
そして、絵を見る。
また、ミュルラスを見る。
「……君だ」
「俺か?」
「うん」
そして、その右手。
中指に、指輪がある。
同じ紋章。
ノエルは、
そのそばに書かれた文字を見る。
Myrrhas.
もう、
迷わず読める。
「ミュルラス」
青年の絵を見たまま、
ノエルが言った。
ミュルラスは、
顔を上げた。
「ここに、そう書いてある」
「……俺には読めん」
「うん」
ミュルラスは、
しばらく、絵を見ていた。
自分と同じ顔。
自分と同じ指輪。
そして、
自分には読めない名前。
「覚えてる?」
「……いや」
短い答えだった。
古木の中が、
また静かになった。
その時。
「ぼっちゃま……」
声がした。
振り返る。
シュルが、
少し離れたところに立っていた。
いつものように、
猫耳がある。
けれど。
顔が、いつもと違った。
ミュルラスが、
絵本を閉じる。
「シュル」
「はい」
「お前、これを知っているな」
シュルは、すぐには答えなかった。
「……はい」
「誰が作った」
沈黙。
「この紋章はなんだ」
シュルは、ミュルラスを見た。
「ぼっちゃま」
「なんだ」
「私の口から、お話しすることではございません」
「なぜだ」
「……」
シュルは、少しだけ目を伏せた。
「ご自身で、見つけていただきたいのです」
ミュルラスの眉が、
わずかに動く。
「どこへ行けばいい」
シュルは、今度は答えた。
「魔界へ」
蝉の声が、
遠く聞こえた。
ミュルラスは、
何も言わない。
ノエルも、
絵本を見る。
魔界。
急に、
その言葉だけが、
古木の中で重くなった。
「……」
なんだか、
空気が、ものすごく真面目になってしまった。
ノエルは、
ミュルラスを見る。
絵本。
指輪。
紋章。
魔界。
「ねえ」
「なんだ」
「秘密基地、見る?」
「……何?」
「僕の秘密基地」
ミュルラスが、瞬きをした。
「ここじゃないのか」
「ここもそうだけど、もう一個ある」
ノエルは、
立ち上がった。
「せっかく京都まで来たんだから」
古木の外を指す。
「僕の森、案内するよ」
そこには、
懐かしい夏が、待っていた。
à suivre…
二千年前と、
今。
同じ顔。
同じ指輪。
そして、
同じ名前。
その先にあるものを、
探しに行く。




