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第4話 秘密基地と魔王


夏が来る。


ずっと待っていた場所へ、

今度は、ふたりで。



La cachette et le Roi Démon


最後の試験が、

終わった。


「……終わった」


大学を出た瞬間、

ノエルは、もう一度言った。


長かった。


課題は、

山ほど残っている。


夏休みだからといって、

何もしなくていいわけではない。


それでも。


しばらくは、

講義がない。


それだけで、

身体が少し軽かった。


家に帰ると、

ミュルラスが待っていた。


「終わったか」


「終わったよ」


「京都へ行けるな」


早い。


「うん。行けるよ」


ノエルは、

鞄を置いた。


パソコンを開く。


「何をしている?」


「飛行機見てる」


「飛行機?」


「うん、京都に行くから。」


パリから日本。

時期は、夏。


画面に並んだ数字を見て、

ノエルは黙った。


「……高いなあ」


「何がだ」


「航空券」


ミュルラスが、

後ろから画面を覗き込んだ。


「これに乗るのか?」


「うん」


「なぜだ」


「なぜって」


ミュルラスは、

不思議そうな顔をした。


「今すぐ行けばいいだろう」


「……え?」


「京都だろう?」


「うん」


「なら、

今すぐ行ける」


ノエルは、

振り返った。


ミュルラスは、

紫のTシャツを着ていた。

胸元には、今日も寿司が並んでいる。


「……どういうこと?」


「境界樹が、ここにもある」


「境界樹?」


「ああ」


「ここって、ベルサイユに?」


「そうだ」


「それを通れば?」


「すぐだ」


「……京都に?」


「ああ」


ノエルは、

しばらく黙った。


それから。


「早く言ってよ!」


「聞かれなかった」


「知らないことは、聞けないよ」


ミュルラスは、

少し考えた。


「そうか」


「そうだよ」


ノエルは、

開いていた航空券のページを閉じた。


「じゃあ、準備しないと」


「何の準備だ」


「服とか」


「あるだろう」


「荷物の話」


「いらん」


「いるよ」


「すぐそこだ」


「日本だよ?」


「すぐそこだ」


どうやら、

距離の概念が違う。


ミュルラスは、

立ち上がった。


「行くぞ」


「今?」


「ああ」


「ちょっと待って」


ノエルは、

ミュルラスを見る。


紫。

寿司。


「……その服で行くの?」


「うん」


即答だった。


「……」


まあ、

本人がいいなら、

いいのかもしれない。


そう思ったのが、

間違いだった。


*


ほんの少し前まで、

ノエルは、ベルサイユの部屋にいた。


部屋着のまま。


財布も。

着替えも。

何も持たず。


そして今。


「……狭い」


古木の中にいた。


暗い。


近い。


そして、

二人いるには、明らかに狭い。


ミュルラスの肩が、

完全に邪魔だった。


「早く出ろ」


「どうやって?」


「外へだ」


「だから、

どうやって?」


「そこから出ればいい」


「そこ、木だよ」


ミュルラスは、

目の前を見る。


古い幹。


「これか」


鋭い爪が、

すっと伸びた。


「ちょっと待っ――」


ず。


木の表面に、

細い裂け目が走った。


そのまま、

ミュルラスが爪を滑らせる。


ずずず、と。


目の前が、

縦に開いていく。


光が差した。


「……」


ノエルは、

何も言えなかった。


ミュルラスは、

何事もなかったように、


外へ出た。


ノエルも、

そのあとに続く。


そして。


「暑っ……」


一瞬だった。


さっきまで、

古木の中は、ひんやりしていたのに。


外は、

夏だった。


熱い空気が、

身体を包む。


強い日差し。

濃い緑。


そして。

蝉。

蝉。

蝉。


山じゅうが、

鳴いている。


懐かしい。


でも。


「暑い……」


もう一度、

ノエルは言った。


ミュルラスは、

涼しい顔をしている。


紫の寿司Tシャツで。


「火炎洞窟より、ましだ」


「比較がおかしいよ」


ミュルラスは、

空を見上げた。


「そうか?」


「そうだよ」


ノエルも、

顔を上げた。


京都の夏。


久しぶりだった。


木々の匂い。

土の匂い。


湿った空気。


遠くで、

鳥が鳴いている。


そして、

目の前には、

ずっと昔から、ここにある古木。


ノエルは、

その幹に触れた。


「……ただいま」


小さく言った。


それから、

もう一度、古木の中へ入った。


奥に、

あった。


根に抱かれるようにして、

古い絵本が眠っている。


「これ」


ノエルは、

しゃがみ込んだ。


五歳の頃。


初めて、

ここで見つけた。


何度も開いた。


何度も眺めた。


読めない文字を、

一文字ずつノートに写した、

あの絵本。


「これが、本物か?」


「うん」


ミュルラスも、

隣にしゃがんだ。


ノエルは、

そっと手をかける。


「……あれ?」


動かない。


もう一度、引く。


やっぱり、

動かない。


「根が、くっついてる」


長い年月のあいだに、

古木の細い根が、本を抱き込んでいた。


「ちょっと待って。

傷つけないように――」


横から、大きな手が伸びた。


「邪魔だな」


「え?」


ミュルラスが、絵本を掴む。


そして。


ぶちっ。


「……」


ノエルは、

固まった。


すぐそばに現れていたシュルも、

固まった。


「……」


「……」


ミュルラスは、

二人を見る。


「なんだ」


「……いや」


ノエルは、

引きちぎられた根を見る。


シュルも、

見る。


そして、

絵本を見る。


「……なんでもない」


ミュルラスは、

気にせず、古い絵本を持ち上げた。


その瞬間。

かすかな光が、走った。


「……え?」


表紙に刻まれた、

古い金の線。


蔓。

葉。

星。


長いあいだ、

色を失っていた装飾が、

一本ずつ、

目を覚ますように、淡く光っていく。


ミュルラスが、

動きを止めた。


光は、

表紙の中央へ集まっていく。


そこにあったのは、

ひとつの紋章。


古い円環。

その内側に、

枝とも、炎とも見える、細い形。


紋章が、

金色に光った。


そして。

もう一つ。


ミュルラスの、

右手。


中指にはめられた、

古い指輪。


その紋様にも、

同じ光が、灯った。


「……」


ノエルは、

息を止めた。


蝉の声だけが、

古木の外で、鳴いていた。


à suivre…



五歳の夏に見つけた、

古い絵本。


そして、

二千年を越えて残った指輪。


ようやく、

ふたつが同じ場所に戻ってきました。


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