第2話 君を呼ぶ
君を見るたび、
その名前を思い出す。
T’appeler
六月に入って、
大学は、急に慌ただしくなった。
試験が近い。
講義が終わっても、図書館へ行き、
家に帰れば、また机に向かう。
机の端には、
あのノートが置いてあった。
五歳の頃、
京都の古木で見つけた絵本を、
夢中で書き写したもの。
勉強の途中、
ノエルは、ときどきそのページを開いた。
長い髪の青年。
相変わらず、
ひどい絵だった。
そして、そのそばにある文字。
Myrrhas.
ミュルラス。
読める。
何度見ても、もう読めた。
ノエルは、顔を上げる。
ソファでは、
その名前かもしれない人が、寝転んでいた。
「……」
「なんだ」
「ん?」
「さっきから、俺を見ているだろう」
「なんか、気になって……」
「勉強しろ」
「うん……」
ノエルは、
またPCへ目を戻した。
*
数日後。
午後の試験を終えて、大学を出た。
まだ、
全部終わったわけではない。
明日もある。
その次の日も。
頭の中には、
さっきまで解いていた問題が、
まだ残っている。
ノエルは、鞄を肩にかけ直した。
初夏のベルサイユは、
夕方になっても、まだ明るかった。
石造りの建物に、
やわらかな光が残っている。
通りには、いつもより人が多かった。
買い物袋を持つ人。
話しながら歩く学生。
テラスから聞こえる、食器の音。
ノエルは、
ぼんやりと、その中を歩いていた。
ふと。
人の向こうに、
見覚えのある黒い髪が見えた。
「……あれ?」
背が高い。
というより、
周りから、頭ひとつ抜けている。
間違えようがない。
「君!」
呼んだ。
近くを歩いていた男の人が振り返った。
少し先の女の人も、
こちらを見る。
でも。
呼びたい人だけが、
振り返らない。
そのまま、黒い髪が遠ざかっていく。
「君!」
もう一度。
今度は、別の人が振り返った。
でも、
やっぱり届かない。
ノエルは、少し足を速めた。
人が、二人のあいだを横切る。
黒い髪が、また遠ざかる。
そして。
考えるより先に、
声が出た。
「ミュルラス!」
黒い髪が、
止まった。
ゆっくりと、
彼が振り返る。
風が吹いた。
長い黒髪が、
初夏の光の中で、さらりと揺れた。
金と赤の瞳が、
人の流れの向こうから、
まっすぐ、ノエルを見つける。
目が、合った。
その瞬間。
胸の奥を、何かが強く打った。
「……」
ノエルは、足を止めた。
いつも見ている顔だった。
朝も。
夜も。
向かいに座って、
ご飯を食べている時も。
ゲームをしている時も。
眠そうに、蜂蜜ミルクを飲んでいる時も。
何度も、
見ているはずなのに。
知らない人みたいに、
綺麗だった。
人々が、
二人のあいだを、通り過ぎていく。
それなのに。
そこだけ、
時間が止まったように見えた。
ミュルラスも、
何も言わなかった。
ただ、
ノエルを見ている。
やがて。
金と赤の瞳が、
ふっと、やわらいだ。
見たことのないほど、
優しい顔だった。
そして。
どちらからともなく、
歩き出した。
一歩。
もう一歩。
人の流れが、二人の横を過ぎていく。
気がつけば。
ノエルは、
その胸の中にいた。
黒い髪が、頬に触れる。
背中に、
大きな手がまわる。
あたたかい。
なぜ、
こんなことをしているのか。
考えるより先に、
ノエルの腕も、
ミュルラスの背中にまわっていた。
「おかえり」
耳の近くで、
低い声がした。
「……ただいま」
答えた。
それから。
ほんの少しして。
「……」
「……」
二人とも、
同じくらいの速さで、身体を離した。
ノエルは、ミュルラスを見る。
ミュルラスも、ノエルを見る。
「……」
「……」
さっきまで、
あんなに自然だったのに。
急に、
どこに手を置けばいいのか、
分からなくなった。
ノエルは、
なんとなく、目を逸らした。
そして。
「……あのさ」
「なんだ」
視線が、
ミュルラスの胸元で止まった。
黒いTシャツ。
「……」
肩は、
かろうじて、収まっている。
胸も、
まあ、
収まっている。
でも。
裾が、
明らかに足りない。
ノエルは、
もう一度、よく見た。
「それ……」
「なんだ」
「僕のTシャツじゃない?」
ミュルラスは、
自分の胸元を見た。
「ああ」
「ああ、じゃなくて」
「暑かったからな。借りた」
ノエルは、
しばらく黙った。
どう見ても、
サイズが合っていない。
「……クロップドトップみたいになってるけど」
「なんだ、それは」
「知らなくていい」
さっきまで、
胸があんなにうるさかったのに。
なんだか、
急にどうでもよくなってきた。
ノエルは、小さく息を吐いた。
「服、買いに行こう」
「今からか?」
「今から」
ミュルラスが、
持っていた袋を少し上げた。
中から、
肉屋の包みが見えた。
ノエルは、それを見る。
「何しに来てたの?」
「肉を買いに来た」
「……そっか」
二千年近く失われていた名前を、
初めて人混みの中で呼んだ。
その人は、
肉を買いに来ていた。
「じゃあ、次は服」
「ああ」
ノエルは、歩き出した。
少し遅れて、
サイズの合わないTシャツを着たミュルラスが、
ついてきた。
à suivre…
名前を呼べば、
君が振り向く。
その手には、
今日の夕食。
そんな日常。




