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第1話 ミュルラス


ずっと、読めなかった名前。


なぜだろう。

君を、そう呼んでみたくなった。



Myrrhas


「君の名前が、ミュルラス?」


魔王の長い睫毛が動いた。


金と赤の瞳が、

ゆっくりと開く。


「……今、なんと言った?」


ノエルは、

手元のノートを見る。


古い絵本を、

幼い頃に書き写したもの。


ずっと読めなかった文字が、

今は読める。


Myrrhas.


「……ミュルラス」


もう一度、

ノエルはつぶやいた。


魔王は何も言わなかった。


ただ、

その音を聞いている。


「知ってる?」


「知らん」


「何か思い出した?」


「何も」


あっさりした答えだった。


ノエルは、

もう一度ノートを見る。


文字のそばには、

ひとりの青年が描かれている。


長い髪。

大きな目。


妙に細い身体。


五歳の自分が描いた絵だから、

正直、誰なのか分からない。


ノエルは、

目の前の魔王を見る。


長い黒髪。


長い睫毛。


金と赤の瞳。


もう一度、

絵を見る。


「……分からない」


「何がだ」


「この人が君なのか」


魔王が、

ノートを覗き込んだ。


しばらく見て、


「違うだろう」


と言った。


「なんで」


「俺はこんな顔ではない」


「五歳の僕が描いたんだから、

仕方ないでしょ」


「ひどい絵だな」


「知ってる」


魔王は、

まだ絵を見ている。


ノエルは、

ページをめくろうとした。


その時。


「あ」


「今度はなんだ」


ノエルの指が止まる。


青年の右手。


そこに、

小さな指輪が描かれていた。


手も、

指も、

かなりおかしい。


なのに。


なぜか指輪だけは、

妙に細かく描いてある。


円の中に、

枝のようなもの。


細い線が幾つも重なっている。


「……こんなの描いてたんだ」


「お前が描いたんだろう」


「覚えてない」


ノエルは、

顔を上げた。


魔王の右手を見る。


中指。


いつもつけている、

黒銀の指輪。


「手、見せて」


「なぜだ」


「いいから」


魔王は少し眉を寄せたが、

右手を差し出した。


ノエルは、

その手を取った。


大きな手。


指輪を、

光の方へ向ける。


「おい」


「ちょっと待って」


黒銀の表面に、

細かな紋様が見える。


ノエルは、

ノートを見る。


指輪を見る。


もう一度、

ノートを見る。


「……同じだ」


「何が」


「この人の指輪」


ノエルは、

写本の小さな絵を指した。


「君のと、同じ」


魔王も、

自分の指輪を見る。


「……」


「これ、どこで手に入れたの?」


「知らん」


「知らない?」


「覚えている時には、もう持っていた」


「ずっと?」


「ああ」


ノエルは、

魔王の手を離した。


そして、

もう一度ページを見る。


青年。


指輪。


その横にある文字。


Myrrhas.


偶然にしては、

重なりすぎている。


でも。


まだ、

何かが足りない。


ノエルは、

目の前の人を見る。


「……この人」


「なんだ」


「君なのかもしれない」


魔王は、

答えなかった。


窓から、

初夏の風が入ってくる。


カーテンが、

ゆっくり揺れた。


ノエルは、

もう一度文字を見る。


ミュルラス。


「ミュルラス」


魔王が、

顔を上げる。


「……なんだ」


返事をした。


ノエルは、

少しだけ目を見開いた。


「いや」


「なんだ」


「呼んでみただけ」


「用もないのに呼ぶな」


「ごめん」


ノエルは、

また文字を見る。


不思議だった。


まだ、

この人の名前だと決まったわけではない。


なのに。


口にすると、

妙に馴染む。


魔王は、ノートへ視線を戻した。


「この本はどこにある」


「本?」


「これの元だ」


「ああ」


ノエルは、ノートの表紙を撫でた。


「京都」


「京都?」


「家の裏山にある」


「まだあるのか」


「あるよ」


「見たい」


即答だった。


ノエルは、魔王を見る。


「今?」


「ああ」


「無理」


「なぜだ」


「試験」


「……試験?」


「もうすぐだから」


魔王は、理解できないという顔をした。


「行って、見て、戻ればいいだろう」


「京都だよ」


「飛べばすぐだ」


「僕は飛べない」


「俺が連れていく」


「試験前だから、だめ」


魔王は黙った。


どうやら、

納得していない。


ノエルは、

机の上を見る。


本。

ノート。

資料。


まだ、

やることが山ほどある。


「試験が終わったら行こう」


「いつ終わる」


「六月の終わり」


「遅い」


「すぐだよ」


「遅い」


「二千年待ったんだから、

もう少し待てるでしょ」


魔王が、

ノエルを見る。


「俺は待っていたわけではない」


「あ、そっか」


ノエルは、ノートを閉じた。


「試験が終わったら、一緒に京都へ行こう」


少しだけ間があった。


「……分かった」


珍しく、

素直だった。


ノエルは、教科書を開く。


数行読んで。


ふと、

顔を上げた。


魔王はまだ、自分の指輪を見ていた。


黒銀の表面を、

親指でなぞっている。


ノエルは、

その横顔を見た。


そして。


「ミュルラス」


魔王が振り向く。


今度は、

さっきより早かった。


「なんだ」


「……なんでもない」


「お前な」


ノエルは、教科書へ目を戻した。


窓の外では、

六月の光が揺れている。


ミュルラス。


まだ、

君の名前かどうかは分からない。


それでも。


もう一度呼べば、

きっと君は、

振り向くような気がした。


à suivre…



Season III、始まります。


二千年近く失われていたかもしれない名前。


ミュルラス。


まだ、それが本当に彼の名前なのかは分からない。


何も思い出さない。

何も変わらない。


それでも、


その名前を呼ぶと、

彼は「なんだ」と答える。


ここから、ミュルラス自身の物語が始まります。


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