第37話 名前
久しぶりに、
二人で眠る夜。
三日前は広かったベッドが、
今日は、
少しだけ狭く感じます。
Le nom
ワインを飲み終えた頃には、
ずいぶん、
夜も深くなっていた。
空になったグラスを、
ノエルは、
キッチンへ運んだ。
魔王は、
先にベッドへ入っている。
「もう寝るの?」
「ああ」
「珍しいね」
「魔界では、よく眠れなかった」
ノエルが、振り返った。
「どうして?」
「ベッドが広すぎる」
「……」
ノエルは、少し笑った。
「ここのも、十分広いけど」
「城のは、もっと広い」
「どれくらい?」
「お前が五人くらい寝られる」
「そんなに?」
「俺のベッドだからな」
ノエルは、
少し考えた。
「でも、
一人で寝るんだよね?」
「……」
魔王も、
少し考えた。
「そうだな」
ノエルは、
笑った。
*
灯りを消す。
久しぶりに、
二人で眠る。
ノエルは、
いつもの場所に横になった。
すぐ隣に、
魔王の身体がある。
「……」
三日前は、
あんなに広かったのに。
今日は、
少し狭い。
魔王が、
寝返りを打った。
長い腕が、
ノエルの枕に乗る。
「重い」
押し返す。
魔王は、
もう眠っていた。
「……早いな」
ノエルは、
目を閉じた。
すぐ近くから、
静かな寝息が聞こえた。
*
夢を見た。
知らない場所だった。
けれど、
どこかで、
見たことがある。
風が吹いている。
遠くに、
大きな木があった。
その下に、
一人の青年がいる。
長い、
黒い髪。
白い肌。
横顔が、
とても綺麗だった。
青年は、
何かを見ている。
その先には、
二人の人影があった。
男と女。
顔は、
よく見えない。
光の向こうにいて、
輪郭だけがぼんやりしている。
それでも、
なぜだろう。
怖くなかった。
とても、
優しい気配がした。
青年が、
その二人の方へ歩いていく。
女が、
手を伸ばした。
青年の髪に、触れる。
ゆっくりと、
撫でる。
――あの子を。
声がした。
女の声だった。
――あの子を、
その先は、
風に消えた。
ノエルは、
耳を澄ませた。
今度は男の声。
低く、
穏やかな声だった。
――いつか、
また風が吹く。
木の葉が、
大きく揺れる。
言葉が、
途切れた。
青年が、
振り返った。
その顔を、
見た気がした。
「……」
知っている。
どこかで。
でも、
思い出せない。
青年の向こうで、
二人の姿が、少しずつ遠くなる。
――名前を。
女の声がした。
ノエルは、
もう一度、耳を澄ませる。
――名前を、
青年が、
何かを言った。
聞こえない。
もう一度、
口が動く。
けれど、
その言葉だけは、
どうしても、聞こえなかった。
*
目を開けた。
薄い朝の光が、
カーテンの隙間から入っている。
ノエルは、
しばらく、天井を見ていた。
「……」
夢。
隣から、
寝息が聞こえる。
顔を向ける。
魔王が、
眠っていた。
長い黒髪が、
枕の上に広がっている。
ノエルは、
しばらく見ていた。
昨夜の言葉を、
思い出す。
――実は俺、
自分の名前が分からないんだ。
「……」
ノエルは、
そっと、ベッドを抜けた。
*
机へ行く。
写本ノートを、
開いた。
頁をめくる。
水。
星。
光。
命。
いくつもの文字を、通り過ぎる。
そして、
手が止まった。
あの頁。
子どもの頃に描いた、
下手な絵。
長い髪。
大きすぎる目。
妙に長い睫毛。
その横に、
一つの文字。
Myrrhas
ミュルラス。
そこまでは、
前にも読めた。
その下には、
小さな文字が並んでいる。
今まで、
何度見ても、読めなかった。
ノエルは、
目を凝らした。
「……」
一文字。
また、
一文字。
文字の形が、
少しずつ、意味を持ちはじめる。
ノエルは、
ゆっくり読んだ。
名前は、
たったひとりを、
呼ぶためのもの。
「……」
ノエルは、
小さな文字をもう一度見た。
そして、その上。
Myrrhas
ミュルラス。
ノエルは、
指先で、その文字に触れた。
夢の中の青年。
遠くにいた、
優しい男女。
――名前を、
「……もしかして」
ノエルは、
文字を見つめた。
「これ、
人の名前……?」
朝の光が、
ノートの上に静かに差していた。
à suivre…
朝になっても、
夢の中の声が、
少しだけ残っていました。
読めなかった文字も、
少しずつ、
言葉になっていきます。




