第36話 名前のない魔王
夜も遅くなって。
魔王はワインを、
ノエルは炭酸水を。
二人で、
少しだけ話をします。
Le Roi Démon sans nom
最後のコロッケを、
二人で食べた。
皿の上には、
パン粉が、少し残っている。
魔王は、
蜂蜜ミルクも飲み終わっていた。
ノエルが、
空になったカップを見る。
「もう一杯飲む?」
「いや」
魔王は、
少し考えた。
「酒が飲みたい」
「ワイン?」
「ああ」
ノエルは、時計を見た。
もう、
ずいぶん遅い。
「少しだけね」
「俺は、二千歳だぞ」
「年齢の話じゃないよ」
ノエルは、
キッチンの棚を開けた。
父が、
前に置いていったワインが一本ある。
ラベルを見る。
赤。
重すぎないもの。
「これにしようか」
「古いか?」
「お父さんのほどじゃないよ」
「そうか」
少し、残念そうだった。
*
栓を抜く。
小さな音がした。
ノエルは、
グラスをひとつ出して、
赤いワインを注いだ。
それを、
魔王の前に置く。
自分には、
ペリエを入れた。
ノエルは、
窓を少し開けた。
夜の空気が、部屋へ入ってくる。
雨は、
もう止んでいた。
濡れた石の匂いがする。
二人は、
ソファに座った。
魔王は、
ワインを一口飲んだ。
「……」
「どう?」
「魔界のより、うまい」
「それ、褒めてる?」
「ものすごく」
ノエルは、笑った。
しばらく、何も話さなかった。
さっきまで、
コロッケを取り合っていたのに。
今は、
妙に静かだった。
嫌な静けさでは、なかった。
*
「ノエル」
「なに?」
魔王は、
グラスを見ていた。
「俺が、人間界に来た理由、話したか?」
ノエルは、考えた。
「魔法を調べに来た、みたいなことは聞いたかな」
「そうか」
魔王は、
ワインを一口飲んだ。
「名前を、調べに来た」
「名前?」
「ああ」
ノエルが、
魔王を見る。
魔王は、
少し黙った。
それから、
何でもないことのように言った。
「実は俺、
自分の名前が分からないんだ」
「……え?」
「忘れた」
ノエルは、
瞬きをした。
「名前を?」
「ああ」
「自分の?」
「そうだ」
「……」
ノエルは、
思わず、魔王の顔を見た。
冗談を言っているようには見えない。
「どうして?」
「知らん」
「知らないの?」
「気がついたら、忘れていた」
魔王は、
ソファに深く座った。
「ずっと戦っていたからな」
「……」
「戦って、
また戦って、
そのうち、
俺より強いやつがいなくなった」
グラスの中で、
赤い酒が、小さく揺れた。
「気がついたら、
みんな俺を魔王と呼んでいた」
ノエルは、
黙って聞いていた。
「その前は?」
「分からん」
「誰かに、呼ばれてなかったの?」
「いたのかもしれん」
魔王は、
少し考えた。
「覚えていない」
「……そっか」
「だから、
城の古い塔で調べていた」
「あの塔?」
「ああ、
古い魔術書が、山ほどある」
魔王は、
少し笑った。
「どれかに、
記憶を戻す術くらいあると思った」
「それで?」
「見つからなかった」
「……」
「そのあと、
境界樹を通って、こっちへ来た」
「じゃあ」
ノエルは、
ゆっくり言った。
「君は、
自分の名前を探してたんだ」
「ああ」
魔王は、
グラスを傾けた。
「まあ」
「うん?」
「今は、
前ほどでもない」
「どうして?」
魔王は、
少し考えた。
「お前が、
君って呼ぶからな」
「……」
ノエルは、目を瞬いた。
「それでいいの?」
「別に困らん」
「でも、名前じゃないよ」
「分かっている」
「……」
「でも」
魔王は、
ノエルを見る。
「お前が俺に言う『君』は、
俺のことだろう」
ノエルは、
答えなかった。
魔王は、
またワインを飲んだ。
「だから、
まあ、いいかと思った」
「……そっか」
ノエルも、
グラスに口をつけた。
そのとき。
ふと、
頭の中に、
文字が浮かんだ。
Myrrhas
「……」
ミュルラス。
あのノート。
下手な絵の横に、
突然、読めるようになった文字。
なんの意味があるのだろうと、
ずっと思っていた。
ノエルは、
魔王を見る。
長い黒髪。
金と赤の混じった瞳。
それから、
あの絵を思い出す。
長い髪。
大きすぎる目。
妙に長い睫毛。
「……」
似ているような。
似ていないような。
そもそも、
絵が下手すぎる。
ノエルは、
グラスに口をつけた。
細かな泡が、
口の中で弾けた。
à suivre…
忘れてしまった名前。
どこかで見たような文字。
ノエルは、
もう一度考えます。




