第34話 おかえり
三日目の夜。
いつもより少し遅く、
ノエルは家へ帰ります。
扉の前で、
ふと、知っている匂いがしました。
Bon retour
ノエルが大学を出た頃には、
すっかり、夜になっていた。
今日は、
研究室の友人たちと、少し飲んできた。
飲んだといっても、
ノエルは、グラスに一杯だけ。
あとは、
チーズや、小さなサンドイッチをつまみながら、
みんなの話を聞いていた。
外へ出ると、
夜の空気が、少し冷たかった。
ベルサイユの街は、
昼間の雨で、まだ濡れている。
街灯の光が、
石畳に、細長く映っていた。
*
家に着いたのは、
いつもより、
ずいぶん遅い時間だった。
階段を上がり、
鍵を出す。
扉の前で、
ノエルは、手を止めた。
「……」
匂いがする。
肉。
赤ワイン。
香草。
それから、
少し焦げた玉ねぎ。
知っている匂いだった。
ノエルは、
鍵を回した。
扉を開ける。
温かい空気が、
ふわりと、頬に触れた。
キッチンには、
大きな鍋。
そして、
ソファには、
魔王がいた。
長い身体を、寝転がせて、
漫画を読んでいる。
「……」
魔王が、
漫画から、目を上げた。
「戻ったぞ」
「……うん」
ノエルは、
しばらく、その姿を見ていた。
三日前と、
何も変わらない。
黒い髪。
長い脚。
ソファから、少しはみ出している。
「おかえり」
魔王が、
少し黙った。
「ただいま」
ノエルは、
なぜか、少し笑った。
靴を脱ぐ。
「僕も、ただいま」
魔王は、
漫画を閉じた。
「おかえり」
*
コートを脱いでいると、
魔王が言った。
「肉を煮込んだぞ」
「作ったの?」
「ああ」
「ご飯、食べてきたんだけど」
魔王が、
ノエルを見る。
「いらないのか」
「食べる」
「どっちだ」
「軽いものしか、食べてないから」
ノエルは、
手を洗って、キッチンへ行った。
鍋の蓋を開ける。
湯気と一緒に、
肉と香草の匂いが立ち上がった。
「いい匂い」
「そうだろう」
「君は、もう食べた?」
「まだだ」
ノエルが、振り返った。
「待ってたの?」
「……」
「……」
「たまたまだ」
「ふうん」
それ以上は、
聞かなかった。
二人分の皿に、
煮込みを入れる。
パンを切る。
水を注ぐ。
向かい合って、
座った。
ノエルは、
肉を一口食べた。
柔らかい。
「おいしい」
「そうだろう」
魔王が、
少し得意そうな顔をした。
「魔界、どうだった?」
「戦いに呼び戻された」
「うん」
「着いたら、終わっていた」
ノエルが、
顔を上げた。
「……それだけ?」
「ああ」
「三日も?」
「三日だ」
「何してたの?」
魔王は、
少し考えた。
「肉を食った」
「うん」
「風呂に入った」
「うん」
「武器を見た」
「楽しそう」
「つまらなかった」
ノエルが、
笑った。
「そうなの?」
「ああ」
魔王は、
煮込みを食べる。
「こっちの方が、うまい」
「自分で作ったからじゃない?」
「違う」
「そう?」
「ああ」
魔王は、
もう一口食べた。
「お前は?」
「いつもと同じだよ」
「大学か」
「うん」
「ほかは?」
「勉強したり、料理したり」
「そうか」
「ゲームもした」
魔王の手が、止まった。
「ゲーム?」
「うん」
「俺のか?」
「うん」
「……何をした」
ノエルは、
パンをちぎった。
「お楽しみ」
「何をした」
ノエルは、
少し笑った。
「あとでね」
魔王が、
じっとノエルを見る。
ノエルは、
知らないふりをして、
煮込みを食べた。
*
食事が終わる。
皿を片づけながら、
ノエルが聞いた。
「ミルク飲む?」
「飲む」
「蜂蜜?」
「たくさん」
「はいはい」
小さな鍋に、
ミルクを入れる。
ゆっくり温める。
カップへ注いで、
蜂蜜を入れた。
少し多めに。
スプーンで、くるくる混ぜる。
魔王の前へ置く。
「はい」
魔王は、
カップを両手で持った。
一口。
「……」
もう一口。
見るからに、
嬉しそうな顔をした。
ノエルは、笑った。
「そんなに?」
「うまい」
「魔界にも、蜂蜜あるんでしょ?」
「ある」
「ミルクは?」
「ある」
「じゃあ、作れるんじゃないの?」
魔王は、
また飲んだ。
「なんか違う」
「そう?」
「ああ」
ノエルは、
空になった皿を持って、
キッチンへ向かった。
背中の後ろで、
魔王が、
もう一口飲む音がした。
いつもの音だった。
ノエルは、
蛇口をひねった。
なんだか、
ほっとした。
à suivre…
三日前と、
何も変わらない。
聞き慣れた声と、
いつもの音。
それだけで、
少し、ほっとする夜でした。




