第32話 三日間
魔王がいない、三日間。
静かな部屋で、
ノエルは久しぶりに、
自分だけの時間を過ごします。
Trois jours
翌朝。
目を覚ますと、
窓の向こうが、白く明るかった。
雨は、上がっている。
ノエルは、寝返りを打った。
いつもなら、
そこに大きな身体がある。
今日は、何もない。
「……そうか」
魔界に行ったんだった。
ベッドを出て、窓を開ける。
雨に濡れた屋根。
石畳。
遠くで、
朝の鐘が鳴っている。
空気が、少し冷たい。
よく眠れた。
*
朝食を済ませると、
ノエルは、机に向かった。
PCを開く。
昨日まで書いていた課題。
資料をいくつか並べ、
読みながら、
文章を打っていく。
途中、
必要なところだけ、ノートに書く。
静かだった。
とても、静かだった。
ゲームの音もしない。
突然、
「腹が減った」
と言われることもない。
「ミルク」
もない。
気がつくと、
今日の分は、もう終わっていた。
「……捗るな」
ノエルは、
椅子の背にもたれた。
久しぶりに、
自分の時間が、そのまま流れている。
悪くない。
*
午後、
マルシェへ出た。
魚屋の前を通ったとき、
蟹が目に入った。
足を止める。
今日は、
カニクリームコロッケを作ろうと思った。
なぜ、
そう思ったのかは分からない。
隣には、
きれいにほぐした蟹の身も売っている。
そちらを買えば、ずっと簡単だ。
ノエルは、
一匹の蟹を指した。
*
家へ戻る。
「ただいま」
言ってから、
鍵を置く手が止まった。
返事はない。
「あ」
そうだった。
ノエルは、少し笑った。
キッチンへ行く。
大きな鍋に、
湯を沸かす。
塩を量る。
蟹を入れて、
時間を見る。
茹で上がるまでに、
玉ねぎを刻んだ。
蟹を引き上げる。
少し冷ましてから、
甲羅を外した。
脚を、関節ごとに分ける。
太いところ。
細いところ。
身の入り方が、それぞれ違う。
細い脚の先まで、
竹串で、丁寧に押し出す。
「……」
途中から、
料理というより、
何かの標本を作っているような気がしてきた。
それでも、
一本残らず、身を取り出したくなる。
白い皿の上に、
蟹の身が、少しずつ増えていった。
次は、
バターを溶かす。
玉ねぎを炒める。
甘い匂いが、立ち上がる。
小麦粉を加えて、
火を弱める。
牛乳を、少しずつ。
木べらを動かす。
重くなったところへ、
蟹を入れる。
潮の匂いが、
温かいバターの香りに混じった。
味を見る。
塩。
白胡椒を、ほんの少し。
「……うん」
冷やして、
形を作る。
小麦粉。
卵。
パン粉。
油へ入れる。
ぱちぱちと、
小さな音がした。
きつね色になったところで、引き上げる。
六個。
きれいにできた。
ノエルは、満足して眺めた。
二個を、
皿に盛った。
残りの四個を見て、
少し考える。
「……明日も食べればいいか」
冷蔵庫へ入れた。
*
二日目。
大学から帰って、
ドアを開ける。
「ただいま」
また、
言ってしまった。
今度は、
自分でも少し可笑しかった。
コートを掛ける。
鞄を置く。
ソファの前を通る。
テーブルの上に、
コントローラーがあった。
ノエルは、足を止めた。
魔王が、
出かける直前まで遊んでいたゲーム。
「……ちょっとだけ」
ソファに座った。
ゲームを起動する。
魔王のデータを開く。
相変わらず、
攻撃力ばかり高い。
「偏ってるなあ」
装備を見る。
仲間を見る。
戦士。
戦士。
魔法使い。
いかにも、魔王らしい。
ノエルは、
地図を開いた。
そういえば、
はぐれメタルが出る丘を探していた。
帰ってきたとき、
レベルが上がっていたら、驚くだろう。
「よし」
地図を進む。
途中、
町へ寄った。
酒場に入る。
そこで、
一人の仲間に目が止まった。
踊り子。
レベル十二。
「……踊り子」
ノエルは、
少し懐かしくなった。
子どもの頃、
なぜか踊り子ばかり育てていた時期がある。
強くなるまで、時間がかかる。
打たれ弱い。
なのに、
妙に好きだった。
ノエルは、
魔王の戦士を一人、外した。
踊り子を入れる。
「……弱い」
最初の戦闘で、
あっという間に体力が減った。
「ちょっと待って」
回復する。
また戦う。
レベルが上がる。
もう一度。
また上がる。
新しい技を覚えた。
「お」
そこから、
楽しくなった。
気がつけば、
はぐれメタルの丘のことなど、
すっかり忘れていた。
窓の外が、暗くなる。
「あ」
時計を見る。
ずいぶん、遊んでいた。
踊り子は、
かなり強くなっていた。
ノエルは、
満足してセーブした。
帰ってきたら、
びっくりするだろう。
たぶん、
別の意味で。
*
三日目。
朝から、
雨だった。
夕方になっても、
止まなかった。
大学から戻り、
鍵を開ける。
ドアを閉める。
ノエルは、
コートを脱いだ。
今日は、
「ただいま」と言わなかった。
*
夜。
読みたかった本を、
何冊か持って、
ベッドへ行った。
一冊。
二冊。
三冊。
魔王が寝ている側にも、
置いてみる。
まだ、
場所が余った。
「……広いな」
ノエルは、
ベッドの真ん中に寝転がった。
好きなだけ、場所を使える。
寝返りを打っても、
ぶつからない。
本を開こうとして、
ふと思った。
今日は、
イヤホンもいらない。
魔王がいると、
ゲームをしていたり、
Netflixを見ていたりする。
だから夜、
本を読みながら音楽を聴くときは、
だいたい、イヤホンを使っていた。
ノエルは、
スピーカーをつけた。
少し迷って、
ブラームスの交響曲第3番を選ぶ。
音楽が、
静かな部屋へ流れ始めた。
低い弦の音が、
雨の夜に、ゆっくり広がっていく。
ノエルは、
枕に身体を預けて、本を開いた。
いい。
とても、いい。
雨。
ブラームス。
読みたかった本。
広いベッド。
誰にも、
邪魔されない。
ページをめくる。
しばらくすると、
音楽の方をほとんど意識しなくなった。
本の中へ、
深く入っていく。
どれくらい、経っただろう。
楽章が変わった。
ノエルは、
ふと、本から顔を上げた。
部屋の向こうに、
ソファが見える。
誰もいない。
テーブルには、
コントローラーが置かれている。
ノエルは、
また本に目を戻した。
数行読む。
ページをめくる。
また、
数行。
「……」
何かがおかしい。
少し戻る。
読む。
ノエルは、
眉を寄せた。
さっきから、
同じところを読んでいる。
本を閉じた。
ブラームスが、
部屋いっぱいに流れている。
こんなに、
好きな音楽を自由に聴けるのに。
ノエルは、
仰向けになった。
天井を見る。
雨の音。
音楽。
広いベッド。
広い部屋。
「……」
なんだろう。
少し、
ぽつんとする。
横を向いた。
ベッドの端に、
クッションがあった。
魔王が、
よく枕代わりに使っているものだった。
ノエルは、
何となく、手を伸ばした。
引き寄せる。
そして、
何となく、鼻先を寄せた。
「……」
微かに、
匂いが残っていた。
いつもの匂い。
けれど、
あの雨の夜に、
抱きしめられたときより、
ずっと薄い。
ノエルは、
もう一度、クッションに顔を寄せた。
「……なんだろう」
クッションを、
そのまま、枕元に置いた。
本を開く。
けれど、
読む前に、
もう一度だけ、その匂いを嗅いだ。
帰ってきたら、
ゲームを見せよう。
踊り子を見たら、
どんな顔をするだろう。
たぶん、
怒る。
ノエルは、
少し笑った。
ブラームスが、
雨の向こうへ、
静かに流れていった。
à suivre…
静かで、
好きなことができて、
何にも邪魔されない。
それなのに、
三日目の夜は、
少しだけ広かった。




