第30話 愛してる
聞こうとしないで、
ただ待ってみる。
魔王は今日も、
耳を澄ませている。
春の風の向こうから、
何かが届くのを。
Je t’aime
あれから数日、
魔王は、毎日練習していた。
朝だったり、
昼だったり、
夜だったり。
窓辺に座っていることもあれば、
二人で歩きながら、突然立ち止まることもあった。
「何かを聞こうとしなくていいんだと思う」
ノエルが言う。
「では、どうする」
「待つ」
「……待つ?」
「うん」
魔王は、
少し納得していない顔をした。
それでも、
素直にノエルの言うことを聞いていた。
*
ある朝。
「聞こえた?」
「鳥」
「それは鳥だね」
「分かっている」
*
昼。
「今は?」
「人が喋っている」
「向こうにいる人たちだよ」
「分かっている」
*
夜。
窓を少し開けると、
春の風が入ってきた。
カーテンが、ゆっくり膨らむ。
ノエルは、
魔王の隣に座った。
「今日は?」
「……」
魔王は、黙っている。
「何か聞こえる?」
「まだだ」
「じゃあ、待とう」
「どのくらい」
「分からない」
「……」
二人で、
耳を澄ませる。
遠くを走る車。
風に揺れる木の葉。
どこかの家で、
窓を閉める音がした。
それから、
しばらくして。
――愛してる。
魔王が、
目を開けた。
「……聞こえた」
ノエルが、振り向く。
「ほんと?」
「ああ」
「なんて?」
魔王は、
聞こえた言葉を、そのまま口にした。
「愛してる」
ノエルが、瞬きをした。
「……」
「なんだ」
「いや」
「どういう意味だ?」
「愛してる?」
「ああ」
ノエルは、
少し考えた。
「好き、より……」
「好きより?」
「好き、を、
もっとぎゅっとした感じかな」
「……ぎゅっと?」
「うん。そんな感じ」
魔王は、
しばらく考えていた。
「分からん」
ノエルは、
魔王を見た。
「いつか、君にも分かるよ」
ふっと、
やさしい顔をした。
魔王は、
もう一度、窓の外を見た。
春の夜。
どこにも、
さっきの声の主は見えない。
「でも」
「なに?」
「お前が聞いていたものを、俺も聞けた」
魔王は、
少しだけ、笑った。
「嬉しい」
ノエルも、笑った。
「よかったね」
「ああ」
魔王は立ち上がった。
「よし」
「なに?」
「ゲームする」
「……もう練習終わり?」
「聞こえたからな」
魔王は、
満足そうに、コントローラーを手に取った。
ノエルは、少し笑って、
自分の机へ戻った。
*
しばらくして。
部屋には、
ゲームの音と、
ノエルがページをめくる音だけが、流れていた。
ノエルは、
写本のノートを開いていた。
子どもの頃から、
少しずつ、書き写してきたもの。
ページをめくる。
水の魔法。
星の魔法。
光の魔法。
読めるようになった文字が、
いつの間にか、ずいぶん増えていた。
もう一枚、
めくる。
ノエルの手が、止まった。
「……あれ」
見覚えのあるページだった。
昔、
古い絵本から、そのまま写したもの。
そこには、
一人の男が描かれている。
長い髪。
大きな目。
やたらと長い睫毛。
子どもの頃の自分なりに、
とても綺麗な人を描いたらしい。
ノエルは、しばらく眺めた。
「……下手だな」
小さく笑う。
その横には、
文字があった。
ずっと、
読めなかった文字。
何度見ても、
意味のない記号にしか見えなかった。
けれど、
今日は違った。
ノエルは、
顔を近づける。
Myrrhas
読める。
なぜだか、
そう読めることが分かった。
ミュルラス。
頭の中で、
音がした。
もう一度、
文字を見る。
ミュルラス。
「……なんだろう」
人の名前だろうか。
背後から、
ゲームの音がした。
「よし!」
魔王の声。
どうやら、
何かを倒したらしい。
ノエルは、
振り返らなかった。
もう一度、
文字を見る。
Myrrhas
ミュルラス。
à suivre…
ひとつは、
ようやく聞こえた言葉。
もうひとつは、
ずっとそこにあった文字。
まだ二人は、
その先を知らない。




