第29話 できない魔法
それぞれの時間を過ごして、
一緒に帰る。
そんな春の夜。
Une magie impossible
次の日。
大学の図書館を出る頃には、
もう外は暗くなっていた。
ノエルは、
窓際の机で、まだ本を開いていた。
あと少し。
ここまで終わったら、帰ろう。
そう思って、
ふと、窓の外を見る。
木の枝に、
魔王がいた。
「……」
いつからいたんだろう。
太い枝に腰をかけて、
こちらを、じっと見ている。
目が合った。
ノエルは、
小さく手招きをした。
来る?
魔王が、枝から消えた。
少しして、
図書館の入口から、普通に入ってくる。
何人かの学生が、顔を上げた。
ひそひそと、声がする。
魔王は、
ノエルの向かいに座った。
「帰らないのか?」
「ここまでやったらね」
「まだか」
「もう少し」
ノエルは、本に目を戻した。
けれど、
視線を感じる。
顔を上げる。
魔王が、じっと見ている。
「……どうしたの?」
「別に」
また、本を見る。
しばらくすると、
やっぱり、見ている。
ノエルは、鉛筆を置いた。
「じゃあ、魔法の練習する?」
魔王の目が、少し動いた。
「ここでか?」
「うん」
ノエルは、声を落とした。
「心を開いて、耳を澄ませてて」
「……」
「何か聞こえたら、すぐ帰ろう」
魔王は、目を閉じた。
ノエルも、
静かに、本を閉じる。
紙の音。
誰かが、椅子を引く音。
遠くで、ページをめくる音。
静かな図書館の中で、
二人は、じっと耳を澄ませた。
そのとき。
ぐううぅぅ。
ノエルが、魔王を見る。
魔王は、目を閉じたままだ。
ぐるるるるる。
ノエルは、口元を押さえた。
「……聞こえた」
魔王が、目を開ける。
「何が」
「君のお腹」
「これは違う」
ノエルは、とうとう笑った。
「分かった。帰ろう」
本とPCを、鞄にしまう。
「今日は何食べる?」
「肉」
「即答だね」
ノエルは、立ち上がった。
「じゃあ、ハンバーグにしようか」
「肉か?」
「肉だよ」
「ならいい」
二人で、図書館を出た。
*
夜の空気は、
まだ少し、冷たかった。
並んで歩きながら、
ノエルは、魔王を見上げた。
「ねえ」
「なんだ」
「君、すごい魔法が使えるのに」
「当然だ」
「どうして、僕の魔法に、
そんなに興味あるの?」
魔王は、しばらく黙っていた。
「……お前には聞こえる」
「うん」
「俺には聞こえない」
「うん」
「それが、気に入らん」
ノエルは、笑った。
そんなものなのかな。
大した魔法じゃないのに。
歩きながら、
ふと思った。
「そういえば、君はどうやって魔法を覚えたの?」
「どうやって?」
「うん。最初からできたの?」
「当たり前だ」
魔王は、胸を張った。
「俺は魔界一の魔法を使える。生まれつきだ」
「生まれつき、全部?」
「……」
魔王の足が、
ほんの少し遅くなった。
どうやって覚えた。
考えたこともなかった。
思い出せる頃には、
もう魔法を使っていた。
戦っていた。
その前のことは――
「.....君?」
ノエルの声で、
顔を上げた。
「どうしたの?」
「……いや」
また、歩き出す。
しばらくして、
ノエルが言った。
「聞こえる?」
魔王は、
夜の街に、耳を澄ませた。
人の声。
車。
遠くの鐘。
二人の足音。
それだけだった。
「……いや」
「そっか」
また、
少し歩いた。
「ノエル」
「なに?」
魔王は、
前を向いたまま、言った。
「俺は、それができない」
ノエルが、魔王を見る。
いつもの魔王とは、
少しだけ、違って見えた。
「……そっか」
ノエルは、
しばらく考えてから、言った。
「じゃあ、僕が教えるよ」
魔王が、こちらを見る。
「お前が?」
「うん」
そして、
ノエルは笑った。
「だから、ハンバーグ作るの手伝ってね」
「……それとこれは、関係あるのか?」
「ある」
「何をすればいい」
「玉ねぎ」
「切ればいいのか」
「うん。細かくね」
「ああ」
見上げると、
夜になったばかりの空に、
ひとつ、
明るい星が出ていた。
宵の明星だった。
二人は、
その下を、並んで帰った。
à suivre…
できないことが、
ひとつあった。
それを知ることも、
誰かに教わることも、
魔王にはたぶん、
あまりなかったこと。
その夜はまず、
玉ねぎを切るところから。




