第28話 古い墓地
春の午後。
古い墓地の門の前で、
魔王が足を止めた。
「……何かいる」
ノエルには、
まだ何も聞こえない。
L’ancien cimetière
「……何かいる」
魔王は、
墓地の奥を見たまま、動かなかった。
ノエルも、門の向こうを見る。
古い墓石。
春の草。
木々の間から、午後の光が落ちている。
「何がいるの?」
「分からん」
魔王の目が、細くなる。
「だが、多い」
ノエルは、耳を澄ませた。
その瞬間だった。
――待って。
――まだ。
――わたしは。
――帰ってきて。
――会いたかった。
ノエルが、息を呑んだ。
ひとつではない。
いくつもの声が、
遠く、
近く、
重なっている。
「ノエル」
魔王が、前へ出た。
「下がれ」
黒い炎が、指先に灯る。
「俺様の地獄の炎で、焼き尽くしてやる」
「待って」
ノエルは、その腕を掴んだ。
「何か言ってる」
「だから危険だ」
「……少し、聞いてみよう」
魔王が、
ノエルを見る。
「君も、聞きたかったんでしょう」
しばらくして、
黒い炎が、消えた。
「……分かった」
ノエルは、
ゆっくり、墓地の中へ入った。
その途端、
声が、押し寄せた。
――エミール。
――ジャンヌ。
――お母さん。
――帰りたい。
――ごめんなさい。
――まだ死にたくない。
足が止まった。
声だけではなかった。
知らない部屋。
窓辺の椅子。
冷たい水。
誰かの手。
土の匂い。
パンを焼く匂い。
笑い声。
泣き声。
何十年も、
何百年も前の時間が、
ばらばらになって、ノエルの中へ流れ込んでくる。
「……ノエル」
魔王の声がした。
ノエルは、
小さく手を上げた。
大丈夫。
そう伝えるように。
そして、
ひとつの声に、耳を澄ませた。
*
薄暗い部屋だった。
ベッドに、
ひとりの女がいる。
長い病だった。
窓の外では、
春が来ていた。
けれど、
もう外へ出ることは、できなかった。
――会いたかった。
誰に。
その人の顔が、
一瞬だけ見えた。
遠くへ行った、妹だった。
喧嘩をしたまま、
何年も、会わなかった。
――ごめんね。
女の名前が、
微かに聞こえる。
「……エレーヌ」
ノエルが、その名を呼ぶ。
風が、
墓地を通り抜けた。
「会いたかったんだね」
声が、
少し遠くなった。
*
別の声。
――まだ?
――まだ帰らないの?
暖炉のそばに、
年老いた女がいる。
扉の音がするたび、
顔を上げる。
戦場へ行った息子。
最後に見たのは、
玄関で振り返った、若い横顔だった。
――帰ってくるって言ったの。
季節が変わる。
椅子は、
いつも扉の方を向いている。
――約束したのよ。
ノエルの目から、
涙が落ちた。
「うん」
それ以上、
何も言えなかった。
*
石を打つ音。
大きな建物。
足場。
粉塵。
男たちの声。
――もう少しだったんだ。
若い男が、
上を見ている。
――完成するところを、見たかった。
手には、
石の粉がついている。
家には、
妻と、
まだ小さな娘がいた。
――あの子に、見せたかった。
ノエルは、
遠くに見える宮殿の方を、振り返った。
春の光を受けて、
屋根が、淡く輝いている。
「……残ってるよ」
小さく言った。
「今も」
男の気配が、
ゆっくり、ほどけていった。
*
次に聞こえたのは、
子どもたちだった。
ひとりではない。
熱。
水。
母親を呼ぶ声。
隣のベッドで、
小さな手と、小さな手が触れている。
――暑い。
――ぼくも。
――お水。
――ママン。
ノエルは、
唇を噛んだ。
何もできない。
何百年も前のことだ。
水を渡すことも、
手を握ることも、できない。
ただ、
聞くことしかできない。
小さな名前が、
いくつか聞こえた。
ノエルは、
ひとつずつ、呼んだ。
静かに。
忘れないように。
*
魔王は、
少し離れたところから、ノエルを見ていた。
ノエルは、
何度も立ち止まった。
涙を拭った。
ときどき、
小さく笑った。
誰もいない場所に、
「うん」
と答えた。
何度か、
知らない名前を呼んだ。
魔王には、
ほとんど聞こえない。
ただ、
ノエルの周りにあった気配が、
ひとつ、
またひとつ、
静かになっていくのだけは、分かった。
長い時間が経った。
やがて、
ノエルが顔を上げた。
もう、
声は少なくなっていた。
春の風が、
墓石の間を抜けていく。
花が揺れる。
鳥の声がする。
ノエルは、
小さく息を吐いた。
「覚えてるから」
誰に向けたのか、
自分でも分からなかった。
風が吹いた。
返事はなかった。
魔王が、
ノエルの隣へ来た。
「帰るか」
ノエルは、
少し赤くなった目で、笑った。
「うん」
二人は、
並んで門へ向かった。
振り返らなかった。
墓地には、
春の午後の光が、
静かに残っていた。
à suivre…
何百年も前の声に、
今から何かをしてあげることはできない。
ただ、
耳を澄ませること。
そして、
聞こえてきた名前を呼ぶこと。
墓地には、
春の午後の光が残っていました。




