第26話 ピエール
名前を知っていても、
それだけでは届かない。
聞くこと。
待つこと。
今日は、
魔王も一緒に。
Pierre
カフェを出て、
二人は、
少し遠回りをして帰ることにした。
春の午後は、まだ明るい。
石造りの家の窓に、光が落ちている。
玄関先の鉢植え。
壁に立てかけられた自転車。
さっきまで墓地の話をしていたのが、不思議なくらい、
どこにでもある住宅街だった。
「この辺りみたい」
ノエルが、スマートフォンを見る。
「墓地が?」
「うん」
魔王は、辺りを見回した。
「何もないな」
「ずっと昔だからね」
少し歩いて、
魔王が言った。
「ノエル」
「なに?」
「さっきの声、どうやって聞いた」
「分からない」
「分からないのか」
「聞こうとして、聞いてるわけじゃないから」
魔王は、少し考えた。
「俺もやってみたい」
ノエルが、顔を上げる。
「この魔法?」
「ああ」
「君が?」
「悪いか」
「悪くないけど」
いつもは、魔法を教えるのは魔王だった。
「君なら、普通にできそうだけどね」
「俺もそう思う」
二人は、足を止めた。
風が、細い通りを抜けていく。
「……聞こえる?」
「いや」
「僕も」
しばらく、何もなかった。
やがて、
遠くから、
声がした。
――もうひとくち。
ノエルは、顔を上げる。
――だめよ。
――どうして?
――昨日、お腹が痛くなったでしょう。
――今日は大丈夫。
女の声が、少し笑った。
――本当に?
――うん。
風が吹いた。
そのとき、
魔王が呟いた。
「……ピエール」
ノエルが、振り向く。
「え?」
魔王も、妙な顔をしている。
「今、なんて言った?」
「ピエール」
「誰?」
「知らん」
「知らないのに?」
「なぜか、浮かんだ」
ノエルは、魔王を見る。
さっき、
カフェでは、二人とも同じ声を聞いた。
その何かが、まだ残っているのだろうか。
「……ピエール」
今度は、魔王がはっきり呼んだ。
何も起こらない。
「もう一回」
「ピエール」
やはり、
春の道が、そこにあるだけだった。
ノエルは、首を傾げる。
「変だね」
「何がだ」
「君、魔王なのに」
「魔王だ」
「僕より、ずっと魔法使えるでしょ」
「当然だ」
「じゃあ、なんでできないんだろう」
魔王は、少しむっとした。
「お前がやってみろ」
「僕?」
「同じ名前だ」
ノエルは、
さっき声がした方へ、耳を澄ませた。
女の声。
小さな声。
林檎を噛む音。
「……ピエール」
光が、揺れた。
石畳の向こうに、
別の景色が、薄く重なる。
古い家。
小さな窓。
女が、林檎を切っている。
その前に、男の子がいた。
「もうひとくち」
「これで最後よ」
「うん」
女は、
小さく切った林檎を、その手にのせた。
男の子が、口に入れる。
しゃく。
嬉しそうに、笑った。
風が吹く。
古い家も、
女も、
男の子も、
光の中へ消えていった。
ノエルは、しばらくその場所を見ていた。
「……見えた?」
隣で、
魔王が黙っている。
「君?」
「少しだけ」
ノエルが、振り向く。
「何が?」
「窓と……」
魔王は、目を細めた。
「小さい手」
「ほかには?」
「林檎」
ノエルは、驚いた。
同じものを、
魔王も見ていた。
ほんの少しだけ。
「でも、君がピエールって呼んだときは、何も起きなかったね」
「……ああ」
「なんでだろう」
魔王は、黙っている。
ノエルも、考えた。
「僕、呼ぶ前に声を聞いてた」
「聞く?」
「うん。たぶん、それが違うのかな」
魔王は、
さっき男の子がいた場所を、見た。
「どうやって聞く」
「耳を澄ます」
「それだけか」
「たぶん」
魔王も、耳を澄ませた。
「……」
「聞こえる?」
「聞こえん」
ノエルは、少し笑った。
「君にも、できないことあるんだね」
魔王が、じろりと見る。
「笑うな」
「笑ってないよ」
「笑っている」
二人は、また歩き出した。
しばらくして、
魔王が言った。
「ノエル」
「なに?」
「その魔法、俺にも教えろ」
「僕もまだ、分かってないよ」
「なら、一緒に調べる」
春の光の中を、
二人は、並んで家へ帰った。
à suivre…
「どうやって聞く」
「耳を澄ます」
いつも魔法を教えるのは、
魔王の方でした。
けれど今日は、
少しだけ逆のようです。




