↓ ↑ページトップへ
表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
PR
52/92

第24話 消えた村


春の夕暮れ。


いつもとは違う道で、

ノエルは古い音を聞く。



Le village disparu


大学を出たとき、

まだ空には、

夕方の光が残っていた。


今日は、少し早い。


ノエルは帰り道、

小さな店で、

クレープを買った。


バターと砂糖だけの、シンプルなクレープ。

紙に包まれたそれは、まだ温かい。


一口かじる。


溶けたバターと砂糖の甘さが、

口の中に広がった。


いつもの角まで来て、

ノエルは、少し考えた。


「こっちの方が、近かったかな」


普段は通らない、細い道へ入る。


古い石造りの建物が並び、

夕暮れの光が、壁の上に長く残っていた。


そのとき、


こん。


ノエルは、足を止めた。


こん。

こん。


木を叩くような音。


工事かな。

そう思った。


けれど、

何かを打ちつける音とは、少し違う。


ノエルは、辺りを見た。


誰もいない。


こん。


また聞こえた。


ふと、

ポケットから、

スマートフォンを取り出した。


現在地を開く。


それから、

以前保存しておいた、

古いヴェルサイユの地図を呼び出した。


今の地図と、重ねてみる。

指先で、少しずつ位置を合わせる。


「……ここ」


ノエルは、画面を見つめた。


今は、

石造りの建物と、

舗装された道がある。


けれど、

古い地図には、

もっと小さな道と、

家々が描かれていた。


「ここに、村があったんだ……」


旧ヴェルサイユ村。


その中心に、

小さな教会の印がある。


横に、名前が残っていた。


Saint-Julien.


「……サン=ジュリアン」


こん。


音が、

少し近くなった。


ノエルは、

スマートフォンを下ろした。


目を閉じる。

すぐには、もう一度呼ばない。


ただ、

耳を澄ます。


こん。


こん。


馬の鼻息。

車輪の軋む音。

人の声。


重い木材が、

地面に置かれる。


ノエルは、

もう一度、その名前を呼んだ。


「……サン=ジュリアン」


夕暮れが、

揺れた。


*


石畳の上に、

土の道が重なった。


低い家々。

粗い石と木の壁。

小さな窓。


道には、

何台もの荷車が並んでいる。


椅子。

鍋。

木箱。

布。


家の中にあったものが、

次々と、運び出されていた。


こん。

こん。


一軒の家では、

男が、

壁から外した木材を、

荷車へ積んでいる。


そのそばに、

小さな男の子がいた。


「それも持っていくの?」


「ああ」


「古いよ」


「まだ使える」


男は、

木材を荷車に載せた。


「どこで使うの?」


「次の家だ」


男の子は、

少し考えた。


「家を持っていくの?」


男の手が、止まった。


子どもを見る。


「ああ」


そして、

少しだけ笑った。


「少しだけな」


男の子は、

荷車の上の木材を、

じっと見ていた。


少し離れたところでは、

女が最後の荷物を、布に包んでいる。


遠くから、

もっと大きな音がした。


石を運ぶ馬車。

槌の音。

大勢の人の声。


何か、

とても大きなものが、造られている。


「行くぞ」


男が言った。


女が、荷車に乗る。


男の子は、

家の前から、動かなかった。


「ここには、もう帰ってこないの?」


男は、

少し黙った。


それから、

子どもの肩に、手を置いた。


「……行こう」


荷車が、

ゆっくり動き出す。


男の子は、

何度も、後ろを振り返っていた。


その向こうにも、

家がある。

人がいる。


同じように、

荷物を運び出している。


家が、

ひとつずつ、解かれていく。


こん。

こん。


夕暮れの中、

小さな村が、消えていく。


ノエルは、

黙って見ていた。


やがて、

荷車が遠ざかる。


家々が薄くなる。

土の道も、

人々も、

夕暮れの光へ、溶けていった。


最後に、

遠くにあった、小さな教会の輪郭が消えた。


*


気がつくと、

ノエルは、

しばらくその場所に立っていた。


――家を持っていくの?


――少しだけな。


さっきの声が、耳に残っている。


ノエルは、

食べかけのクレープを一口かじった。


「……冷めちゃった」


ノエルは、

もう一度、スマートフォンを見る。


古い地図には、

まだ、

小さな教会の名前がある。


Saint-Julien.


ノエルは、

その文字を、しばらく見ていた。


そして、

画面を閉じた。


もう一度だけ、後ろを振り返る。

今は、

家も、

土の道も、

小さな教会もない。


それでも、

名前は、地図の上に残っていた。


*


その先で、

足を止めた。


壁際に、

黒い人影があった。


長い黒髪。

腕を組み、

石の壁に、背中を預けている。


「……何してるの?」


魔王が、顔を上げた。


「待っていた」


ノエルは、

少し目を丸くした。


「迎えに来てくれたの?」


魔王は、

答えなかった。


代わりに、

ノエルの手元を見る。


「……なに?」


魔王が、身を屈めた。


がぶ。


「あ」


ノエルのクレープが、

ひと口、大きくなくなった。


「ちょっと」


魔王は、

何事もなかったように、身体を起こした。


「何するの」


「いや」


そのまま、

ノエルの前を、歩き出す。


「甘い匂いがしたからな」


ノエルは、

手元のクレープを見る。


「僕のクレープなんだけど」


「まだあるだろう」


「そういう問題じゃないよ」


ノエルは、

少し笑った。


夕暮れは、

もうすぐ終わる。


ノエルは、

魔王の背中を追いかけた。


二人は、

並んで、家へ帰った。


à suivre…



消えてしまった家。

なくなった道。

もう誰も歩かない村。


それでも、

名前だけは残っている。


そして夕暮れの先には、

待っている人がいた。


評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。