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第23話 夜の食卓


大学が始まり、

また忙しい毎日が戻ってきました。


帰りが遅くなった夜。

どこからか、

小さな鈴の音が聞こえてきます。



La table du soir


大学が始まると、

急に、

時間が足りなくなった。


講義が終われば、

次の課題がある。


図書館で資料を探し、

戻れば、またレポートを書く。


春になって、

日はずいぶん長くなったはずなのに、

それでも、

気がつけば窓の外は暗い。


その日、

ノエルが大学を出たのは、

九時を過ぎてからだった。


「……疲れた」


鞄を肩にかけ直す。


昼間の暖かさは、

もう残っていない。


夜のヴェルサイユには、

まだ、春の冷たさがあった。


店の明かりも、

少しずつ消え始めている。


閉じた窓。

古い石の壁。


街灯の下を、

ときどき、

人が通り過ぎる。


ノエルは、

いつもの道を歩いた。


帰ったら、

シャワーを浴びて、

何か食べて、

少しだけ課題の続きをして、

今日はもう寝よう。


魔王は、

たぶん、まだゲームをしている。


そんなことを考えながら、

角を曲がった。


そのときだった。


からん。


ノエルは、足を止めた。


振り返る。

誰もいない。


からん。


もう一度。

小さな鈴の音。


「……?」


ノエルは、辺りを見た。


けれど、

それらしいものは、どこにもない。


からん。


今度は、

少し遠くから聞こえた。


ノエルは、目を閉じる。


数日前、

シュルに言われた言葉を思い出した。


すぐに呼び返さず、

もう少しだけ、耳を澄ませてみる。


ノエルは、

何もしなかった。


ただ、

聞いた。


車の音。

遠くの話し声。

靴が石畳を踏む音。


その奥に、


からん。


そして、


ぱち。

ぱち。


何かが、

小さく爆ぜる音。


薪だ。


ノエルは、目を開けた。


街灯の向こうに、

薄い煙のようなものが見えた。


それでも、

まだ呼ばない。


もう少しだけ、

待ってみる。


石畳の上に、

別の地面が重なり始めた。


土の道。

低い家。

粗い石と木の壁。


今よりずっと近くに、

暗い森がある。


そのひとつに、

小さな明かりが見えた。


*


家の中だった。


炉の火が、

静かに燃えている。


小さな木のテーブル。


椅子が二つ。


年老いた男が、

黒いパンをちぎっていた。


向かいでは、

女が鍋から、

スープを木の器によそっている。


湯気が上がる。


男が、

顔を上げた。


「ジャンヌ」


「なに?」


「匙はどこだ」


女が、

男の手元を見る。


「持ってるでしょう」


男は、

自分の右手を見た。


そこに、

木の匙がある。


「……あった」


「さっきから持ってます」


男が、少し笑った。


女も、

呆れたように笑った。


外から、


からん。


鈴の音がした。


男が、

耳を傾ける。


「牛が戻ったな」


「ええ」


女は、

向かいの椅子に座った。


二人は、

しばらく黙って、

スープを食べていた。


木の匙が、

器に触れる。


薪が爆ぜる。


外では、

ときどき、

鈴が鳴った。


何も起こらない。


ただ、

一日の終わりに、

二人で食事をしている。


ノエルは、

黙って聞いていた。


まだ、

名前を呼ばない。


やがて、

男が顔を上げた。


向かいに座る女を見る。


「ジャンヌ」


「なに?」


男は、

少し黙った。


「……いや」


女が、

首を傾げる。


男は、

またスープを口に運んだ。


「呼んだだけだ」


女が笑った。


炉の火が、

小さく揺れる。


ノエルは、

その名前を、

もう一度聞いた。


ジャンヌ。


少し迷ってから、

口にする。


「……ジャンヌ」


その瞬間、

景色が変わった。


炉の火が、

鮮やかに燃える。


現在の街灯の向こうに、

古い家が、

はっきりと立ち上がった。


土の道。

夜の森。

遠くを歩く牛。

煙。


煮込んだ野菜の匂い。


男が食事を終えて立つ。

女が器を片づけようとする。


そのすれ違いざまに、

男が、

女の肩を抱いた。


女は何も言わず、

その胸に少しだけ身体を預けた。


二人は、

しばらく、

そのままでいた。


炉の火が、

寄り添う二人を、

静かに照らしていた。


やがて、

景色が薄くなる。


家も、

土の道も、

森も、

二人の姿も、

夜の中へ溶けていった。


最後に、


からん。


小さな鈴が鳴った。


*


ノエルは、夜の街に立っていた。


街灯。

石畳。

閉まった店。


遠くを走る車。


さっきまであった小さな家は、

もうどこにもない。


少しだけ、

涙が込み上げてきた。


ずっと一緒にいるって、

いいなと思った。


ノエルは、

目元を軽くこすった。

そして、

なぜだか急に、

家に帰りたくなった。


「……帰ろ」


*


家に着いた頃には、

もう、

ずいぶん遅くなっていた。


階段を上がり、

鍵を出す。


扉を開けた。


「ただいま」


その瞬間、

とてもいい匂いがした。


肉。

玉ねぎ。

煮込んだ野菜。


それから、

香草の青い匂い。


ノエルは、

思わず足を止めた。


部屋の奥から、

魔王の声がした。


「遅いぞ」


「……ごめん」


「肉入りのスープ、作ってあるぞ」


ノエルは、

少し笑った。


「うん」


上着を脱ぐ。

鞄を置く。


温かな匂いのする方へ、

歩いていった。


「お腹すいた」


à suivre…



名前を呼んだのは、

何かを伝えるためではなく。


ただ、

呼びたかっただけでした。


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