第21話 耳を澄ませて
今度は、
魔王と一緒に散歩へ。
何か聞こえても、
すぐには呼ばずに、
少しだけ耳を澄ませてみます。
En tendant l’oreille
数日後。
朝から、よく晴れていた。
開けた窓から入る風には、まだ少し冷たさが残っている。
白いカーテンが膨らんでは、ゆっくり戻った。
魔王は、ソファに座っていた。
テレビの中では、
勇者たちが、深い森を歩いている。
「ねえ」
「なんだ」
「散歩に行かない?」
魔王は、画面から目を離さなかった。
「今、森を抜けるところだ」
「それ、昨日も言ってなかった?」
「昨日とは違う森だ」
「……そう」
ノエルは、窓の外を見た。
春の光が、
向かいの古い壁を、淡い金色にしている。
「天気いいよ」
「見れば分かる」
「外で見たら?」
魔王の指が、止まった。
少しして、
「……散歩か?」
「うん」
魔王が、ようやくノエルを見る。
「本当に?」
「何、その確認」
「この前も、お前は散歩だと言って出ていった」
「あれは……」
「池で溺れた」
「分かってるよ」
魔王は、じっとノエルを見ている。
ノエルは少し笑った。
「今日は一緒だから大丈夫」
「答えになっていない」
「何か聞こえても、すぐには呼ばないよ」
魔王は、しばらく考えていた。
やがて、
コントローラーを置いた。
「セーブする」
「はいはい」
*
外へ出ると、
空は、淡い青だった。
古い石造りの家々のあいだを、春の光が流れている。
窓辺には花が増え、
店先の椅子には、昼を待たずに人が座っていた。
二人は、特に行き先を決めずに歩いた。
「どこへ行くんだ」
「散歩に行き先なんてないよ」
「目的もなく歩くのか」
「そういうもの」
「効率が悪いな」
「ゲームの森は、ずっと歩いてるよね」
「あれには目的がある」
「じゃあ今日は、春を見るのが目的」
魔王は、空を見上げた。
「もう見たぞ」
「早いよ」
石畳を歩く。
宮殿へ向かう人々とは、
少しずつ離れていった。
通りは静かになり、
古い壁の向こうから、若い葉をつけた枝が伸びている。
風が吹いた。
ノエルが、
ふと、足を止めた。
魔王も止まる。
「どうした」
「……」
ノエルは、少しだけ首を傾けた。
「聞こえたのか」
「たぶん」
魔王は、何も言わなかった。
ノエルは目を閉じる。
人の話し声。
遠くを走る車。
鳥の声。
風が、木の葉を揺らす音。
その奥に、
何かがある。
けれど、
まだ分からない。
ノエルは、そのまま待った。
――怖くないよ。
女の人の声だった。
ノエルは、目を開けた。
「何が聞こえた」
「女の人」
「なんと言った」
「怖くないよ、って」
魔王は辺りを見た。
「俺には聞こえん」
「うん」
ノエルは、もう一度目を閉じた。
今度は、
探そうとしなかった。
ただ、
聞く。
しばらくすると、
風の匂いが変わった。
湿った土。
煙。
乾いた草。
目を開ける。
石の街路の向こうに、
細い土の道が、透けるように重なっていた。
「……見える」
「何が」
「道」
「そこにあるだろう」
「違う道」
魔王は黙った。
ノエルの目の前を、
今のヴェルサイユの人々が、普通に歩いていく。
その身体を透かすように、
もう一つの景色がある。
低い家。
粗い石と木の壁。
その向こうには、今よりずっと近く、
森があった。
家の前に、
女の人が座っている。
その前に、小さな男の子。
母親だろうか。
女は、
細い革紐のようなものを、子どもの首にかけていた。
その先に、
白っぽい、小さなものが下がっている。
「これは?」
子どもが聞いた。
「お守りよ」
女は、紐を整えた。
「何から守るの?」
「怖いものから」
「夜も?」
「夜も」
子どもは、
胸元の小さなものを、指でつまんだ。
「これが?」
「そう」
「こんなに小さいのに?」
母親が笑った。
「小さくても、守ってくれるものはあるのよ」
子どもは、まだ少し不思議そうな顔をしていた。
母親が、
その頬に触れる。
「なくさないでね、ギヨーム」
風が、
止まった。
ノエルは、小さく息を吸った。
「……ギヨーム」
その瞬間、
景色の輪郭が、鮮やかになった。
土の道。
家の壁。
軒下に積まれた薪。
遠くで上がる、細い煙。
母親のスカート。
子どもの髪。
胸元で揺れる、
小さな白いお守り。
ほんの一瞬、
今の街よりも、昔の村の方が濃く見えた。
けれど、
次の瞬間には、
春の風が吹いた。
土の道が消える。
家も、
森も、
親子も。
そこには、
今のヴェルサイユだけがあった。
「……消えた」
ノエルが言った。
「終わったのか」
「うん」
「今度は落ちなかったな」
ノエルが振り返る。
「そこ?」
「重要だろう」
「まあ……そうだけど」
魔王は、ノエルが見ていた場所を見る。
「何がいた」
「親子」
「何をしていた」
「お母さんが、男の子にお守りを渡してた」
「守り?」
「うん」
ノエルは、自分の胸元を指した。
「ここに下げる、小さなもの」
「どんなものだ」
「分からない」
「見えたんだろう」
「見えたけど、白っぽくて……」
ノエルは、指先で小さな形を作った。
「石みたいにも見えた」
魔王は、何も言わなかった。
そのまま、
道の端へ歩いていく。
古い壁の下。
草の間に、乾いた土が覗いている。
魔王が、しゃがんだ。
「何してるの?」
返事はない。
魔王は、
土を一握り、掌に取った。
指先で、ゆっくり崩していく。
さらさらと、
細かな土が、指の間から落ちていった。
やがて、
魔王の手が止まる。
「……あった」
à suivre…
見えたのは、
もうここにはない時間。
けれど魔王は、
土の中から何かを見つけたようです。




