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第20話 名前の残る場所


池から戻ると、

机の上にはシュルがいました。


魔王にも、

シュルにも分からない魔法。


三人で、

少し考えてみることになります。



Là où les noms demeurent


家に戻ると、

机の上に、シュルが座っていた。


開いたノートの横で、

ブルーグレーの尻尾が、ゆっくりと揺れている。


窓から入る午後の光が、白い壁を淡く照らしていた。


「おかえりなさいませ、ぼっちゃま」


「ただいま、シュル」


ノエルは上着を脱いだ。


その後ろから、魔王が入ってくる。


シュルの耳が、ぴくりと動いた。


「魔王ぼっちゃまも、おかえりなさいませ」


魔王が足を止めた。


「……それで呼ぶのか」


「はい」


「なぜだ」


シュルは、魔王を見上げた。

鼻先が、ほんの少し動く。


「……なぜでしょう」


「お前が呼んでいるんだろう」


「そうなのでございますが」


「やめればいい」


シュルは少し考えた。


「承知いたしました、魔王ぼっちゃま」


「何も承知していない」


ノエルは笑いながら、買い物籠を置いた。


「シュル、ちょうどよかった」


「はい?」


「聞きたいことがあるんだ」


ノエルは椅子を引いた。


「今日、池で溺れた」


シュルの尻尾が、

止まった。


「……はい?」


「もうない池で」


シュルは、しばらくノエルを見つめた。

それから魔王を見る。


魔王は腕を組んだ。


「俺は止めた」


「……..」


「危険なことはするなと言った」


「……..」


シュルが、静かにノエルを見る。


「ぼっちゃま」


「はい」


「お座りくださいませ」




ノエルは紅茶を淹れ、

魔王のカップには蜂蜜を多めに入れた。


春の午後はまだ少し冷える。


窓の向こうには、古いヴェルサイユの屋根が連なり、

その上を、薄い雲が流れていた。


ノエルは、昨日からのことを話した。


Marché Notre-Dameで聞いた声。

――マリー。


その名前を呼んだこと。


昔の市場が、

今の街に重なったこと。


そして今日。

古い地図で見つけた、Clagnyという名前。


「クラニー、と呼んだら、池が現れた」


シュルは黙って聞いていた。


「最初は、昨日と同じだったんだ。

今の街の上に、昔の景色が重なって」


「それから?」


「一歩、歩いた」


魔王が言った。


「落ちた」


「そこ、僕が話してるんだけど」


「事実だ」


シュルの耳が、少し伏せた。


「それで、魔王ぼっちゃまが?」


「ああ」


「境界を裂いた」


シュルが、魔王を見る。


「裂いたのでございますか?」


「裂いた」


「……」


「なんだ」


「いえ」


シュルは紅茶に目を落とした。


「力任せでございますね」


「開いたから問題ない」


「そういう問題ではございません」


「でも、助かったよ」


ノエルが言うと、

魔王は何も言わず、蜂蜜の入った紅茶を飲んだ。



「シュル」


「はい、ぼっちゃま」


「こういう魔法、知ってる?」


シュルは、すぐには答えなかった。


窓辺でカーテンが揺れる。

遠くから、

車の走る音が聞こえた。


「いいえ」


ノエルは少し意外そうに、シュルを見る。


「知らないの?」


「はい」


シュルは、小さく頷いた。


「わたくしは、絵本を護る者でございます」


机の上のノートへ、視線を落とす。


「けれど、そこに記されたすべての魔法を、使えるわけではございません」


「そっか」


ノエルも、ノートを見た。

幼い頃から、何度も書き写してきた文字。


読めるようになったものもあれば、

今も、意味の分からないものがある。


魔王が、カップを置いた。


「名前を呼ぶ前に、何か聞こえたんだな」


ノエルは、少し考えた。


「うん」


「マリーのときは、声。今日は……水の音」


魔王は黙った。


シュルが、小さく首を傾げる。


「先に、聞こえたのでございますね」


「うん」


三人の間に、短い沈黙が落ちた。



机の上に、

夕方の光が伸びていた。


ノエルは、

古いノートを開いた。


子どもの頃には、

ただ形を写すことしかできなかった文字が、

今ではいくつも、言葉として読める。


それでも、

まだ分からないものは残っている。


魔王が、

横から覗き込んだ。


「それが、あの絵本を写したものか」


「うん」


「見せろ」


魔王が、さらに顔を寄せる。


シュルが言った。


「魔王ぼっちゃま」


「なんだ」


「近うございます」


「見えん」


「僕がそっち向けるから」


ノエルは、

ノートを少し回した。


魔王は、ページを覗き込む。


「……ずいぶん種類があるな」


「僕も、全部は読めないよ」


「お前が使った光の魔法はどれだ」


ノエルはページをめくった。


「これ」


魔王が、文字を見る。


長い睫毛の奥で、

金色の瞳が細くなる。


「……知らんな」


「君でも?」


「ああ」


魔王は、しばらくその文字を見ていた。


「俺の知っている魔法とは、少し違う」


ノエルは、その横顔を見た。


「じゃあ、一緒に勉強する?」


魔王が顔を上げる。


「俺が?」


「知らないんでしょ?」


「俺はお前より、はるかに魔法を知っている」


「これは知らない」


「……」


シュルが、静かに頷いた。


「よろしいのではないでしょうか」


「何がだ」


「お勉強でございます、魔王ぼっちゃま」


「俺は二千歳だぞ」


「学びに年齢は関係ございません」


ノエルが笑った。


「シュル、いいこと言うね」


「ありがとうございます、ぼっちゃま」


魔王だけが、

納得していない顔をしていた。



やがて、

シュルがノートを見ながら言った。


「ぼっちゃま」


「うん?」


「次に、何か聞こえましたら」


ノエルは、顔を上げた。


シュルの声は、少しだけ静かになっていた。


「すぐに呼び返さず、

もう少しだけ、耳を澄ませてみてはいかがでしょう」


「耳を?」


「はい」


「何を聞けばいい?」


シュルは、少し考えた。

そして、


「それを知るために、聞くのでございます」


ノエルは、黙ってその言葉を聞いた。


魔王も、何も言わなかった。



窓の外では、

春の夕暮れが、

石造りの街をゆっくりと青くしていた。


遠くで鐘が鳴る。

一度。


少し間を置いて、

もう一度。


ノエルは、窓の向こうへ耳を澄ませた。


今日は、

何も聞こえない。


三人の前には、

開いたままのノートがあった。


à suivre…



呼ぶ前に、

まず聞いてみる。


今日は、

何も聞こえませんでした。


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