第19話 散歩ではなかった
「散歩」と言って出ていったノエル。
けれど、
どうやら本当に散歩ではなかったようです。
Ce n’était pas une promenade
魔王は、
まだゲームをしていた。
画面の中で、勇者が剣を振るう。
そのとき、
指が止まった。
「……?」
何かを感じた。
微かだが、自分の魔力だった。
魔王は、コントローラーを置いた。
目を閉じる。
遠い。
いや、距離ではない。
何かを隔てた向こう側から、
自分の魔力が返ってくる。
「……あいつ」
魔王の姿が、消えた。
*
現れたのは、春の街路だった。
人が歩き、車が通っている。
ノエルの姿はない。
けれど、
いる。
自分の魔力が、
目の前の何もない場所から返ってくる。
魔王は目を細めた。
空間が、
ほんのわずかに歪んでいる。
「……境界か」
片手を上げた。
何もない空間を、
指先でなぞる。
細い亀裂が走った。
黒い光が、
一瞬、その縁を染める。
魔王は亀裂に指をかけ、両側へ引いた。
空間が、
裂けた。
その向こうに、
水があった。
青い水の中。
ノエルが、
沈んでいる。
魔王の顔色が変わった。
「何をしている、あいつは!」
躊躇なく、裂け目へ腕を突っ込んだ。
*
水の中に、
突然、黒い亀裂が走った。
ノエルは目を見開いた。
その向こうに、
金色の瞳が見える。
「ノエル!」
腕が、水の中へ伸びてきた。
「……え?」
「掴まれ!」
ノエルは、その手を掴んだ。
すぐに、強い力で握り返される。
「なんで君が――」
「話はあとだ!」
身体が、一気に引かれた。
水面が砕ける。
光が散る。
「うわっ!」
次の瞬間、
ノエルは、石畳の上に転がっていた。
「げほっ……!」
咳き込む。
髪から、水が落ちる。
セーターは肌に張りつき、
袖からも水が滴っていた。
背後で、裂け目が閉じる。
春の午後。
人々は、
何事もなかったように歩いている。
魔王はしばらく、
裂け目の消えた場所を見ていた。
「……境界の中に入ったのか」
ノエルは、濡れた前髪をかき上げた。
「たぶん」
「どうやって」
「分からない」
「……」
「名前を呼んだら、池が出てきたんだ」
魔王が振り返る。
「池の名前か?」
「うん。クラニー」
ノエルも、
さっきまで水があった場所を見た。
「最初は昨日と同じだった。昔の景色が重なって見えただけで」
「それで?」
「一歩、歩いたら……落ちた」
魔王は黙った。
「……」
「なに?」
「危険なことはするなと、俺は言ったな」
「……言った」
「散歩だとも言ったな」
「……言った」
「さっきだぞ」
ノエルは、少し目を逸らした。
「……ごめん」
春の風が吹いた。
濡れた服を抜けて、
冷たい空気が肌に触れる。
ノエルは、肩を縮めた。
「寒っ……」
魔王が、ノエルを見る。
人差し指を、すっと向けた。
「え?」
ふわりと、
温かな風が身体を包んだ。
濡れていた髪が、
一瞬で軽くなる。
セーターから水気が消え、
肌に張りついていた布が、元の柔らかさに戻った。
ノエルは、自分の袖に触れた。
「……乾いた」
「当然だ」
魔王は、指を下ろした。
「便利だね」
「魔法とは、そういうものだ」
「僕のは全然便利じゃないけど」
「お前のはまず、溺れない方法を覚えろ」
「……はい」
ノエルは立ち上がった。
そのとき、
魔王が何かに気づいた。
「動くな」
「え?」
ノエルの肩へ、手を伸ばす。
セーターの編み目に、
小さな黒いものが引っかかっていた。
魔王は、指先でそれを摘み取った。
ほんの数ミリの欠片。
しばらく眺めて、
「……俺の爪だ」
「え?」
ノエルも覗き込んだ。
「昨日の?」
「ああ」
「そんなの、ついてたの?」
「らしいな」
魔王は、指先の欠片を見る。
そこには、
彼自身の魔力が微かに残っていた。
ノエルは、ふと気づいた。
「もしかして……」
「なんだ」
「これで、僕がいるところが分かったの?」
「ああ」
「爪で?」
「俺の身体の一部だからな」
ノエルは、小さな欠片を見た。
「……すごいね」
「そうだろう」
「爪が」
魔王が顔を上げた。
「俺がだ」
ノエルは笑った。
「はいはい」
魔王は、爪の欠片を掌に乗せた。
少し考える。
「次からは持っていけ」
「爪を?」
「ああ」
「嫌だよ」
「なぜだ」
「普通に嫌だよ」
「便利だぞ」
「そういう問題じゃないって」
魔王は、納得していない顔をした。
ノエルは笑って、魔王の掌から小さな爪の欠片を取った。
そして、そっとポケットに入れた。
「持っていくのか?」
「……一応ね」
ノエルは、もう一度だけ振り返った。
春のヴェルサイユ。
石の街路。
芽吹いたばかりの緑。
そこに、
池はない。
けれど、
ノエルの耳には、
ほんの一瞬だけ、
ちゃぷん。
水の音がした。
à suivre…
昨日切った、
ほんの小さな爪の欠片。
思いがけないところで、
役に立ったようです。




