第18話 消えた池
復活祭の休み。
昨日見た、
知らないヴェルサイユ。
その手がかりを探して、
ノエルは古い地図を開きます。
L’étang disparu
「もう一回やれ」
「無理だよ」
「なぜだ」
「どうやってやったのか、分からないから」
魔王は少し考えた。
「そうか」
思ったより、
あっさり引き下がった。
「今日は何を作るんだ?」
「ごはん?」
「ああ」
魔王は少し考えた。
「俺は、あれが食べたい」
「あれ?」
「ふわっとしたやつだ。蜂蜜をつける」
ノエルは笑った。
「朝からパンケーキ?」
「それだ」
「さっきまで爪切ってた人が、次はパンケーキなんだ」
「何か問題があるのか」
「ないけど」
ノエルは笑いながら、
キッチンに立った。
窓から春の光が差し込み、
白い壁を淡く照らしている。
フライパンにバターを落とすと、
甘い香りが広がった。
「蜂蜜、多めな」
「分かってるよ」
「この前より多くていい」
「はいはい」
*
食事を終えると、
魔王はテレビの前に座った。
最近は、
ドラゴンクエストに夢中だった。
しばらくして、
「なるほど」
魔王が呟いた。
「なに?」
「行っていないところは、地図が出ないんだな」
画面いっぱいに、
地図が開かれていた。
歩いた場所だけが、
世界の形になっている。
ノエルは、
その画面を見た。
「……地図」
昨日の風景が蘇る。
今の街に重なった、
知らないヴェルサイユ。
「そうだ」
パソコンを開いた。
「なんだ」
「昔のヴェルサイユを調べてみる」
まず、
昨日歩いたNotre-Dameのあたりから探してみた。
古い地図を、現在のものと見比べる。
道が違う。
建物が違う。
昔あったものが、
今はない。
「こんなに変わってるんだ……」
「街は変わるだろう」
魔王はゲームを続けたまま言った。
「君の時間感覚で言わないでよ」
「二千年あれば山も変わるぞ」
「今は数百年の話してるの」
ノエルは、
少しずつ地図の範囲を広げた。
そのとき、
大きな水の形が目に入った。
「……あれ?」
現在の地図には、
ない。
古い地図には、
ある。
水面のそばに、
ひとつの名前が記されていた。
Clagny.
「……クラニー」
「なんだ?」
「池があったみたい」
魔王が振り返る。
「どこに」
「この辺。でも、今はない」
「そうか」
魔王は、
またゲームへ戻った。
ノエルは画面を見つめた。
昨日は、
マリー。
人の名前。
これは、
池の名前。
「ちょっと出てくる」
「どこへ行く」
「散歩」
「危険なことはするなよ」
ノエルは、
一瞬だけ止まった。
「……しないよ」
上着を手に取り、
家を出た。
*
春のヴェルサイユを、
一人で歩いた。
淡い青空。
石造りの建物。
街路樹には、
まだ柔らかな緑が芽吹いたばかりだった。
風には、
少し冬の冷たさが残っている。
ノエルは地図を確かめながら、
やがて足を止めた。
「……この辺かな」
道がある。
建物がある。
人が歩いている。
池だけが、
ない。
ノエルは、
古い地図を見た。
ここに、
水があった。
目を閉じる。
耳を澄ます。
車の音。
靴音。
話し声。
風。
それだけだった。
――何をイメージした。
魔王の言葉を思い出す。
ノエルは、
もう一度目を閉じた。
水面。
岸辺の草。
春の風。
空を映す水。
ちゃぷん。
目を開けた。
水など、どこにもない。
ちゃぷん。
今度は近い。
風の向こうから、
湿った土と、水草の匂いがした。
ノエルは、古い地図に残された名前を見る。
「……Clagny」
風景が揺れた。
建物の輪郭が、
淡く透けていく。
道路の上を、
光が走った。
水だった。
空を映した、
広い水面。
岸辺には草が生え、
葦が風に揺れている。
一羽の鳥が、
水面すれすれを横切った。
ノエルは、
息を呑んだ。
今の街は、消えていない。
その上に、
失われた池がある。
ノエルは、
一歩踏み出した。
ちゃぷん。
「……え?」
靴の先が、
水に沈んでいる。
後ろへ戻ろうとした。
その瞬間、
足元が消えた。
「――っ!」
冷たい水が、一気に身体を包んだ。
足がつかない。
「なに、これ……」
腕を伸ばす。
そこにあるはずの道路には、触れられない。
水が胸まで上がる。
すぐそばを、人が歩いていた。
「すみません!」
誰も振り向かない。
「……え?」
もう一度、
声を上げる。
けれど、
誰にも聞こえていない。
水が肩まで来る。
泳ごうとしても、
服が水を吸って重い。
岸が遠ざかっていく。
さっきまで、
すぐそこにあったはずなのに。
「ちょっと……待って」
水が、
顎に触れた。
à suivre…
名前を呼ぶと、
失われたものが現れる。
けれど今回は、
見えるだけではなかったようです。




