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第17話 爪切りと新しい魔法


復活祭の休み。


買い物から帰ると、

魔王はなぜか、

見慣れない刃物で爪を研いでいました。



Le coupe-ongles et la nouvelle magie


買い物を終えて、

ノエルが家に戻る頃には、

午後の光が少し傾き始めていた。


古い建物の壁を、

春の淡い光が滑っている。


階段を上がり、扉を開ける。


「ただいま」


シャー、シャー。


返事の代わりに、妙な音が聞こえた。


シャー、シャー。


ノエルは買い物籠を置いて、

リビングを覗いた。


魔王がソファに座っている。


片手には、

見慣れない黒い刃物。


その刃に、

長い爪の先を当てていた。


「……何してるの?」


魔王が顔を上げた。


「爪を研いでいる」


「爪?」


見ると、

いつもよりずいぶん長い。


人間の姿をしているときは、

少し長い程度に見えていたはずなのに、

白い指先から鋭い爪が伸びている。


「そんなに長かったっけ」


「放っておけば伸びる」


シャー。


また一本、

刃の上を滑らせる。


「リモコンが押しにくいからな」


ノエルは、テーブルの上を見た。


昨日、

魔王が握ったまま眠っていたリモコンが置いてある。


「それ、何?」


「これか」


魔王は刃物を持ち上げた。


「ドラゴンの角だ」


「……ナイフ?」


「ああ」


「危ないよ」


魔王が怪訝そうに、

ノエルを見る。


「何がだ」


「それで爪を研ぐの、もうやめてよ」


「よく削れるぞ」


「そういう問題じゃないよ」


ノエルは小さく息をついて、棚の引き出しを開けた。

中から、使い慣れた爪切りを取り出す。


「これ使って」


魔王の手のひらに置いた。


銀色の、ごく普通の爪切りだった。


魔王が眺める。


裏返す。

横から見る。


「なんだ、これは」


「爪切り」


「これで爪を切るのか?」


「そう。おばあちゃんにもらった日本製。よく切れるよ」


魔王は、まだ疑わしそうに眺めている。


「どう使う」


「貸して」


ノエルは隣に腰を下ろした。


爪切りを受け取り、

レバーを起こす。


「ここに爪を入れて――」


ぱちん。


魔王の眉が、わずかに上がった。


「……切れるな」


「でしょ」


魔王はすぐに爪切りを取り返した。


ぱちん。


切った爪を見る。


ぱちん。


「これはいい」


「気に入った?」


「ああ」


ぱちん。


「ドラゴンの角より早い」


「比較するものがおかしいよ」


ぱちん。


小さな欠片がひとつ跳ねて、

ノエルのセーターに落ちた。


ノエルは気づかず、立ち上がった。


窓から入る午後の光の中で、


ぱちん。


ぱちん。


乾いた小さな音が続いている。


ノエルは買ってきたものを、

ひとつずつ籠から取り出した。


パン。

チーズ。

野菜。


花屋の前を通ったときの、

甘い香りがふと蘇る。


そのとき、


「ところで」


ぱちん。


魔王が言った。


「なに?」


「お前、さっき何をした?」


ノエルの手が止まった。


「……何って?」


ぱちん。


最後の爪を切る。


魔王は指先を確かめてから、顔を上げた。


「魔法だ」


「魔法?」


「ああ」


ノエルは、魔王を見た。


「僕、魔法なんて使ってないよ」


「使った」


「いつ?」


「少し前だ」


魔王は、

爪切りをテーブルに置いた。


「お前の魔力が動いた」


ノエルは黙った。


市場で見たものが、もう一度、目の奥に浮かぶ。


知らない石畳。

馬車。

春の花。


そして、

――マリー。


「……もしかして」


「なんだ」


ノエルは、椅子に腰を下ろした。


「さっき、変なものを見た」


「変なもの?」


「昔の街」


魔王の目が、

少し細くなる。


「昔?」


「たぶん、昔のヴェルサイユ」


ノエルは、

市場で起きたことを話した。


花屋の前で、

知らない名前が聞こえたこと。


その名前を口にした瞬間、

街の景色が変わったこと。


「今の街がなくなったわけじゃないんだ」


ノエルは、少し考えた。


「その上に、昔の街が重なったみたいだった」


魔王は、珍しく口を挟まずに聞いていた。


「どのくらい続いた」


「ほんの少し」


「そこにいた人間は、お前を見たか?」


「ううん」


「話しかけてきたか?」


「違う。僕はただ、見てただけ」


魔王は黙った。


窓の外では、

春の光が少しずつ薄くなっている。


やがて、


「幻術ではないな」


と魔王が言った。


「分かるの?」


「ああ」


「じゃあ、何?」


「知らん」


ノエルは目を瞬いた。


「君にも分からないこと、あるんだ」


魔王がこちらを見る。


「ある」


「へえ」


「なんだ、その顔は」


「別に」


魔王は少し不満そうに、腕を組んだ。


「その名前を口にしたとき、発動したんだな」


「たぶん」


「呪文は?」


「言ってない」


「魔法陣は」


「ないよ」


「何をイメージした」


ノエルは考えた。


「……声かな」


「声?」


「聞こえたから、耳を澄ませた」


「それだけか」


「うん」


しばらく、魔王は何も言わなかった。


テーブルの上には、

さっきまで使っていた爪切りが置かれている。


やがて、

金色の瞳がノエルを見た。


「もう一回やれ」


à suivre…



ドラゴンの角より、

日本の爪切り。


そして、

魔王にも分からない魔法が始まったようです。


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