第16話 マリー
春のヴェルサイユ。
復活祭を前にした市場で、ノエルはひとつの名前を聞きます。
Marie
復活祭の休みに入った。
リビングでは、魔王がソファで眠っていた。
昨夜も遅くまでアニメを見ていたらしい。
片手には、まだリモコンを握っている。
ノエルは少し苦笑した。
「また徹夜したんだ……」
そっとリモコンを抜き取り、
テーブルの上に置く。
それから、
ソファの背にかかっていた毛布を広げ、魔王の身体にかけた。
長い黒髪が、
クッションの上に散らばっている。
起きる気配はない。
ノエルは買い物籠を手に取った。
「行ってきます」
もちろん、返事はなかった。
静かに扉を閉めた。
*
Marché Notre-Dameは、
復活祭を前に、いつもより賑わっていた。
野菜。
チーズ。
パン。
花。
店先には、
冬にはなかった色が増えている。
ノエルはいつもの店をまわり、
パンや野菜を籠に入れていった。
人の話し声。
紙袋の擦れる音。
通りを走る車の音。
春の光の中を、
人々が行き交っている。
ふと、甘い香りがした。
ノエルは足を止めた。
青さの残る、
少し湿った甘い匂い。
花屋の前に、
白と淡い紫のヒヤシンスが並んでいる。
ノエルはしばらく眺めた。
風が吹く。
そのときだった。
――マリー。
ノエルは振り返った。
まただ。
あの日、
帰り道で聞いた声。
けれど、
誰が呼んだのか分からない。
通りには、
いつもの人々が歩いている。
少し離れたところで、
子どもが母親の手を引いていた。
花屋の店員が、
客に何かを説明している。
聞き間違いだろうか。
ノエルはもう一度、花へ視線を戻した。
風が、花の間を抜けていく。
――マリー。
今度は、はっきり聞こえた。
近い。
けれど、
どこから聞こえたのか分からない。
ノエルは目を閉じた。
耳を澄ます。
音を探すというより、
そこにある何かを、思い浮かべる。
形のないものに、
そっと輪郭を与えるように。
魔王に教わったやり方だった。
もう一度、声を待つ。
けれど、
何も聞こえなかった。
ノエルは目を開けた。
そして、なぜだか分からないまま、
小さく呼んだ。
「……マリー」
風が止まった。
人の声が、
遠くなる。
車の音も、
足音も。
すべてが、急に遠ざかっていく。
ノエルは顔を上げた。
目の前を歩いていた人の姿が、淡く透けた。
その向こうに、
石畳が見えた。
「……え?」
今ある道の上に、
もうひとつの道が重なっている。
建物の輪郭が揺らぐ。
窓の形が変わり、
軒先が低くなる。
馬車の車輪が、すぐそばを通り過ぎた。
ノエルは動けなかった。
市場だった。
けれど、
知っている市場ではない。
籠に積まれた野菜。
布をかぶせたパン。
軒先から吊るされた籠。
知らない服を着た人々が、
ノエルのそばを行き交っている。
声がする。
笑い声。
呼び込みの声。
馬の蹄が、石を叩く音。
さっきまでいた街が消えたわけではない。
その上に、
知らないヴェルサイユが、薄く重なっている。
ノエルは息を呑んだ。
その中に、ひとりの若い女がいた。
店先で、残った花を束ねている。
年は、ノエルより少し上だろうか。
白い花。
黄色い花。
淡い紫。
その前に、ひとりの青年が立った。
「それ、全部くれ」
女が顔を上げる。
「全部?」
「ああ」
「こんなに?」
「いいから」
女は怪訝そうな顔をした。
それでも、慣れた手つきで花をまとめていく。
春の色が、腕の中でひとつになった。
「はい」
青年は代金を渡した。
そして受け取った花束を、
そのまま女へ差し出した。
女が目を丸くする。
「……なに?」
「やる」
「誰に?」
「お前に」
「私が売ったのよ?」
「知ってる」
「だったら、どうして買ったの」
青年は黙った。
花束を持ったまま、地面を見ている。
女はしばらく待っていた。
「どうしたの?」
「……」
青年が、ようやく顔を上げた。
「……マリー」
「なに?」
青年は少し黙った。
「……マリー、好きだ」
マリーは目を丸くした。
青年の耳が、
赤くなっている。
「それを言うために、全部買ったの?」
「悪いか」
マリーは少し笑って、
花束を受け取った。
「今日は、ちゃんと名前で呼ぶのね」
青年は目を逸らした。
「……うるさい」
その瞬間、
風が吹いた。
花びらが一枚、ふわりと舞い上がる。
ノエルは思わず、目を閉じた。
次に目を開けたとき、
そこには、いつものMarché Notre-Dameがあった。
車が走っている。
人が歩いている。
花屋の前には、ヒヤシンスが並んでいた。
ノエルは、しばらく動けなかった。
耳の奥に、馬車の音が残っている。
「……マリー」
もう一度、
小さく呼んでみる。
何も起こらなかった。
春の風が、
ヒヤシンスの香りを運んでいく。
ノエルは、
買い物籠を持ち直した。
市場には、
いつもの声が溢れている。
誰かが誰かを呼んでいる。
その声の中を、
ノエルはゆっくり歩き出した。
à suivre…
名前を呼ぶ。
ただそれだけのことが、とても大事なことなのかもしれません。




