第15話 名前を呼ぶ
試験が終わり、
少しだけ春の気配がする帰り道。
風の中から、
聞こえてくるのは.....
Prononcer un nom
その日、最後の試験が終わった。
校舎を出ると、
空はまだ少し白かった。
冬の低さはもうない。
それでも、春と呼ぶには、まだ風が冷たい。
ノエルは鞄を肩にかけ直した。
しばらく試験のことばかり考えていたせいか、
何も考えなくていい帰り道が、妙に長く感じる。
風が吹いた。
ふと、甘い香りがした。
ノエルは足を止め、
もう一度風を待った。
青さの残る、
少し湿った甘い匂い。
視線を巡らせると、
通りの向こうの小さな庭先に、
ヒヤシンスが咲いていた。
「あ……」
春だ。
いつの間にか、
こんなところまで来ていたらしい。
ノエルは少し笑って、
また歩き出した。
パン屋の前を通る。
焼きたてのパンとバターの匂いに、
さっきの花の香りが混ざった。
明日の朝の分を買っていこう。
店に入り、
バゲットを一本買った。
紙袋を抱えて外へ出る。
いつもの道だった。
石造りの建物。
並んだ窓。
葉をつけ始めた街路樹。
少し先を、
犬を連れた人が歩いている。
歩きながら、
ふと数日前の夜のことを思い出した。
あの夜、
魔王が漫画から顔を上げて聞いた。
「告白ってなんだ?」
ノエルは少し考えた。
「……大事なことを、相手に伝えることかな」
「大事なこと?」
「うん。ずっと言えなかったこととか」
「なぜ言えない」
「それは……いろいろあるんじゃない?」
魔王はしばらく考えて、
「人間は面倒だな」
と言った。
「そうかもね」
思い出すと、少しおかしかった。
そのときだった。
「……マリー」
ノエルは足を止めた。
振り返る。
通りの向こうを歩く老夫婦。
自転車を押す男。
店先で話している二人。
けれど、
今の声の主らしい人はいなかった。
「……?」
聞こえるのは、
通りを抜けていく風の音だけだった。
気のせいかな。
数歩進んだところで、
「マリー」
今度は、
はっきり聞こえた。
ノエルは振り返った。
古い石壁のそばに、
一本の木が立っていた。
細い枝の先に、
小さな若葉が開き始めている。
なぜか、
その木から目を離せなかった。
「……マリー?」
口にした瞬間、
胸の奥で、
何かがほんの少しだけ震えた。
光でもない。
音でもない。
知っている魔法の、
どれとも違う。
一瞬だけ。
古い石壁の向こうを、
誰かが横切ったような気がした。
瞬きをすると、
そこにはもう、
古い壁しかなかった。
ノエルはしばらく見ていた。
冬を越した蔦の跡が残り、
ところどころ色の違う石。
風が止んだ。
何も起こらない。
ただ、
その名前だけが残った。
マリー。
誰なんだろう。
ノエルは歩き出した。
けれど、
少し行ったところで、
もう一度だけ振り返った。
「マリー」
小さく呼んでみる。
返事はなかった。
春の匂いを含んだ風だけが、
石壁に沿って静かに通り過ぎていく。
ふいに、
数日前の自分の言葉を思い出した。
――大事なことを、相手に伝えることかな。
なぜか、
その言葉が少しだけ残った。
ノエルは、
バゲットの紙袋を抱え直した。
そして、また歩き出す。
背後で、
若葉が揺れた。
もう、
声は聞こえなかった。
à suivre…
名前を呼んだだけ。
けれど、
ほんの一瞬だけ、
そこには何かがあったようです。




