第12話 人間界の服
白い靴を履いて、街へ。
今日は、
人間界で初めての服選びです。
Les vêtements du monde des humains
昼前。
ノエルは、
玄関で靴を履きながら振り返った。
「行こうか。」
「どこへ行く。」
「服を買いに。」
魔王は、自分の身体を見下ろした。
黒いスーツ。
黒いシャツ。
足元には、
さっきもらったばかりのオフホワイトのスニーカー。
「あるぞ。」
「それ、外に出る服でしょ。」
「服は服だ。」
「家でずっとスーツ着てるつもり?」
「駄目なのか。」
ノエルは少し考えた。
「……駄目じゃないけど。」
昨日も、ソファに座って本を読んでいるあいだ、ずっとその格好だった。
「部屋着、買おう。」
「部屋着。」
「家で着る服。」
「なぜ分ける。」
「楽だから。」
「これは楽だ。」
「……行こう。」
説明するより、
連れていった方が早い。
二人は家を出た。
十二月二十六日のパリは、昼前でも空気が冷たい。
昨夜までの雪が、
建物の影に少しだけ残っている。
雲の切れ間から淡い光が落ち、
古い石の壁を白く照らしていた。
街には、まだクリスマスの名残がある。
ショーウィンドウの小さな灯り。
金色の星。
赤いリボン。
魔王は歩きながら、何度も店の中を覗いた。
「ノエル。」
「なに?」
「あれはなんだ。」
ショーウィンドウの中に、革の手袋が並んでいる。
「手袋。」
「それは知っている。」
魔王は少し眉を寄せた。
「なぜ、あんなに種類がある。」
「色とか、革とか、形とか。」
「手を覆うだけだろう。」
「そうだね。」
「一種類でいいではないか。」
「好きなのを選ぶんだよ。」
「……好きなのを。」
魔王は、もう一度ショーウィンドウを見る。
少し歩く。
また止まる。
「これは?」
「帽子。」
「頭を守るには薄すぎる。」
「守るためじゃないよ。」
「では何のためだ。」
「寒いから。」
「魔法で――」
「行くよ。」
ノエルは歩き出した。
魔王もついてくる。
けれど、またすぐに別の店を見ていた。
自分の服を買いに来たはずなのに、
どうやら本人は、それどころではないらしい。
やがて二人は、
ノエルが時々立ち寄る店に入った。
木と白を基調にした店内に、
黒、灰色、生成りの服が静かに並んでいる。
外の冷たい空気とは違う、乾いた暖かさがあった。
魔王は店に入るなり、棚を眺めていた。
服そのものより、
これほど多くの服が並んでいることの方が、気になるらしい。
ノエルは、ラックの奥へ行った。
柔らかな黒いニットを一枚。
それから、チャコールグレーのスウェットパンツ。
部屋着にしては、少しだけ形が綺麗なものを選ぶ。
「これでいいんじゃない?」
魔王が振り返った。
「二つだけか。」
「部屋着だから。」
「なるほど。」
納得したのかどうかは、分からない。
店員が近づいてきた。
「ご試着なさいますか?」
魔王がノエルを見る。
「着てみたら?」
「ああ。分かった。」
次の瞬間だった。
黒いスーツが消えた。
代わりに、
黒いニットとチャコールのパンツを着た魔王が立っている。
カラン。
何かが床に落ちた。
店員が持っていたハンガーだった。
「……。」
「……。」
ノエルも固まった。
魔王だけが、何事もなかったように袖口を見ている。
腕を曲げる。
肩を動かす。
「軽いな。」
「……君。」
「なんだ。」
店員が、目を見開いたまま立っている。
「あ……。」
ノエルは慌てて笑った。
「気にしないでください。彼、マジシャンなんです。」
「……マジシャン?」
「はい。」
店員は魔王を見る。
ノエルは少し考えて、付け足した。
「かなり有名な。」
「俺は魔――」
「黙って。」
小声で止めた。
魔王は口を閉じた。
店員はしばらく二人を見ていたが、
やがて床のハンガーを拾った。
「……とても、お似合いです。」
「ありがとうございます。」
なぜか、ノエルが答えた。
魔王は鏡の前に立った。
黒いニットは、
大きな身体にすっきりと馴染んでいる。
チャコールのパンツも、長い脚にちょうどよかった。
スーツを着ているときとは、ずいぶん違って見える。
肩の力が抜けたせいかもしれない。
少しだけ、年齢が下がったように見えた。
二千歳には、とても見えない。
「どうだ。」
ノエルは、鏡越しに彼を見る。
「サイズ、大丈夫そうだね。」
「動きやすい。」
「じゃあ、それにしよう。」
「ああ」
店員が微笑んだ。
「では、お包みしますね」
「このままでいい」
魔王が言った。
ノエルは魔王を見て、
「着て帰るの?」
「ああ」
「スーツは?」
「城に戻した」
「……いつ?」
「さっき」
ノエルは少し黙った。
「そう」
もう驚かないことにした。
会計を済ませ、
二人は店を出た。
冷たい空気が、頬に触れた。
魔王はそのまま歩き出す。
黒いニット。
チャコールのパンツ。
オフホワイトのスニーカー。
さっきまでの、全身を黒で固めた男とは、
どこか別人のようだった。
ずっと若く見える。
ノエルはその後ろ姿を見て、
ふと足を止めた。
「待って。」
魔王が振り返る。
「今度はなんだ。」
「それだけじゃ寒いよ。」
「寒くない。」
「君はね。」
ノエルは、自分の首に巻いていたマフラーを外した。
オフホワイトの、柔らかなマフラー。
魔王の前に立つ。
「少しかがんで。」
「なぜだ。」
「いいから。」
魔王は不思議そうにノエルを見下ろしたあと、
ほんの少し、頭を下げた。
ノエルはその首に、
マフラーをそっと巻いた。
一度。
もう一度。
形を整える。
黒い服の上に、白い布が残った。
「うん。これでいい。」
魔王は、何も言わなかった。
首元を見る。
それから、ノエルを見る。
「なに?」
「……いや。」
さっき、エティエンヌから白い靴をもらった。
今度は、ノエルのマフラーが首にある。
プレゼント。
昨日まで、その言葉すら知らなかった。
魔王は、白い布に少しだけ触れた。
二人は、また歩き出した。
街にはまだ、
クリスマスの灯りが残っている。
何の役に立つのか分からなかった光も、
今日はもう、結界には見えなかった。
黒い服の上で、
オフホワイトのマフラーが、
冬の風に静かに揺れていた。
à suivre…
服が変わって、
少しだけ見える景色も変わったようです。
クリスマスの灯りは、
まだ街に残っています。




