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第9話 懐かしい匂い


ワインとチーズ。


話は少しずつ、

遠い場所のことへ。


Un parfum d’autrefois


古いワインは、少しずつ瓶の底へ近づいていた。


バゲットをちぎる音。

ナイフが、チーズの皮を切る音。


窓の向こうには、冬の夜がある。


エティエンヌが、

バゲットをひとつちぎった。


「それで。」


チーズを取りながら、

何でもないことのように訊いた。


「魔王って、普段は何をしてるの?」


魔王は少し考えた。


「普段……。」


グラスの中のワインを見つめる。


「戦いだ。」


「……。」


エティエンヌが、チーズを持ったまま止まった。


「魔界で?」


「そうだ。」


魔王は、ワインを一口飲んだ。


「魔界は広い。」


「どのくらい?」


「瞬間移動しても、百年かかることがある。」


「それ、瞬間移動なの?」


ノエルが笑った。


「ああ。もちろんだ。」


魔王は真顔だった。


「俺が百年なら、右腕のラザンですら六百八十年はかかる。」


ノエルは、フォークを置いた。


「じゃあ、僕なら何千年だね。」


「お前なら――」


魔王はノエルを見る。


少し考える。


「分からん。」


「分からないんだ。」


「ああ。途中で死ぬかもしれん。」


「……行くのやめる。」


エティエンヌが笑った。


少しの間、三人は黙って食べていた。


「それで。」


エティエンヌが訊いた。


「君はずっと戦っていたのか?」


「そうだな。」


「魔族と?」


「ああ。」


「いつまで続くんだ?」


魔王は答えなかった。


しばらく、グラスの赤を見ていた。


「今はもう、俺より強い奴がいない。」


「そうか。」


「だから……。」


魔王は少し考える。


「そう。本を……読もうと……。」


「本?」


「ああ。」


「魔界にも本があるのか?」


魔王が顔を上げた。


「もちろんだ。」


少し不服そうだった。


「城の塔に図書館がある。そこで調べ物をしようとしたんだ。」


「何を?」


魔王は答えず、ワインを飲んだ。


「そしたら、ちょうど境界を渡れた。」


「境界?」


「境界樹だ。」


「木?」


「ああ。根の向こうが、こっちに繋がっている。」


エティエンヌは、

少し考えた。


「じゃあ、僕たち人間も行けるのか?」


「ああ。」


「現に――」


魔王が言った。


そして、ノエルを指した。


「こいつは来てるはずだ。」


ノエルの笑いが止まった。


「え?」


魔王はノエルを見る。


「僕?」


「ああ。」


部屋が、少し静かになった。


魔王は、グラスを置いた。


「俺は、お前の匂いを追ってこっちへ来た。」


「匂い……?」


「ああ。」


魔王は、ゆっくり瞬きをした。


「お前の匂いが、ずっと……残っていた。」


ノエルは何も言わなかった。


瞼が、またゆっくり落ちる。


「懐かしい……匂い……。」


「え?」


返事はなかった。

魔王はそのまま、テーブルに伏せた。


「……寝たね。」


ノエルが言う。


返事がない。


「パパ?」


エティエンヌも、椅子にもたれたまま眠っていた。


「……二人とも?」


テーブルには、

空になりかけたワインの瓶。


食べかけのチーズ。

ちぎられたバゲット。


二つのグラスには、

まだ少しだけ赤が残っている。


ノエルは、父に肩を貸した。


「パパ、起きて。」


「……。」


返事はない。


なんとかソファまで連れていき、横にする。

それから、テーブルに伏せた魔王を見る。


「……。」


大きい。


ノエルはしばらく考えて、運ぶのを諦めた。


毛布を持ってきて、そっと背中にかける。

魔王は、何事もなかったように眠っている。


ノエルはしばらく、その寝顔を見ていた。


――僕が、魔界に?


――懐かしい匂い。


何のことだろう。


ふと、窓の外が白く見えた。

ノエルは、窓辺へ歩いていく。


夜空から、小さな雪が落ちていた。


一つ。

また一つ。


今年最初の雪だった。


à suivre…



クリスマスの夜に、

ほんの少しだけ、遠い記憶が揺れました。


そして、今年最初の雪です。

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