第17話 ママンの香り
今日は、
ママンに会いにベルサイユへ帰ります。
Le parfum de maman
秋が過ぎ、
冬が過ぎ、
また春がやってきた。
森の緑は少しずつ濃くなり、
気がつけば、ノエルは十歳になっていた。
朝の学校の前。
今日も古木の穴へ入る。
「シュル。」
「はい、ぼっちゃま。」
胸ポケットから、小さな執事が顔を出す。
ノエルは絵本をそっと撫でた。
「二週間だけ、ママンに会いに行ってくるね。」
「ベルサイユ。」
「ノートは持っていくから、修行はちゃんと続けるよ。」
「でも、絵本は持って行けないから。」
「ちょっと、お留守番しててね。」
シュルは静かに一礼した。
「かしこまりました。」
「境界樹は、いつでもぼっちゃまのお帰りをお待ちしております。」
ノエルは古木にそっと手を添える。
「行ってきます。」
翌日。
飛行機は雲の上を静かに飛んでいた。
窓の外には、白い雲の海がどこまでも続いている。
ノエルは膝の上でノートを開いた。
そこには、
シャル、シャラン。
ゼフ、リラン。
イフ、リラン。
丁寧に書き写した文字が並んでいる。
指でそっとなぞり、
小さく微笑む。
(ベルサイユでも、頑張ろう。)
ノートを閉じると、
父が優しく笑った。
「眠くなった?」
「ううん。」
ノエルはもう一度、窓の外を見つめた。
ベルサイユ。
石畳を歩く音が懐かしかった。
母が暮らしていた家。
そして、母が毎日仕事をしていたアトリエ。
扉を開けると、
たくさんの香りが迎えてくれた。
花。
木。
柑橘。
土。
ガラス瓶が陽の光を受けて静かに輝いている。
ノエルは目を閉じた。
「……ママン。」
そこに姿はない。
でも、
たしかに母がいるような気がした。
ゆっくりと部屋を歩く。
棚を眺め、
机に触れ、
椅子へ手を添える。
その時だった。
「パパ。」
「ん?」
「僕ね。」
少し言いにくそうに俯く。
「ずっと、不思議だったことがあるの。」
父は静かに耳を傾けた。
「ママン。」
「あの日の朝だけ。」
「匂いが違った。」
父は黙ったまま聞いている。
静かな時間が流れる。
その時だった。
父が、小さく息をのむ。
「……ノエル。」
「え?」
「もしかして……。」
「だからだったのか。」
ノエルは首を傾げる。
父は少し笑おうとしたが、笑えなかった。
「ママンが亡くなってから。」
「毎朝、パパのところへ来ては。」
「何も言わずに、すんすんって匂いを嗅いでいただろう。」
ノエルは少し考えてから、
「あ……。」
「うん。」
「してた。」
「そうだったのか……。」
父は目を伏せる。
そして、ノエルを抱きしめた。
「でも。」
「どうして違ったのか、分からない。」
「怖い匂いじゃなかった。」
「いつものママンとも違った。」
「でも、ちゃんとママンだった。」
言葉にできない。
それ以上は、
まだ分からなかった。
父はノエルの肩へ、そっと手を置く。
「きっと。」
「ママンなら、その答えを知っているね。」
ノエルはアトリエを見渡した。
瓶が並ぶ棚。
乾いた花びら。
光の差し込む窓。
母が見ていた景色。
その全部を胸にしまい込むように見つめる。
「パパ。」
「僕。」
少し照れくさそうに笑う。
「ママンみたいな仕事がしたい。」
父は優しく微笑む。
「香りを作る人?」
ノエルは首を横に振った。
「ううん。」
少し考えてから、
静かに答えた。
「匂いを知る人。」
「あの日のこと。」
「いつか、分かるようになりたい。」
父は何も言わなかった。
ただ、
ノエルの頭をそっと撫でた。
窓から、
ベルサイユの柔らかな風が吹き抜ける。
ノエルは、
もう一度だけ目を閉じた。
つづく
また、
香りの続きを探しに来てください。




