第36話 風の匂い
西へ向かっても、東へ向かっても、
なぜか迷ってしまう三人。
一度魔王城へ戻り、
作戦を練り直すことに。
そんな中、ノエルが思いついたのは、
方角でも地図でもない、もう一つの道しるべでした。
Le parfum du vent
三人は、
一度、魔王城へ戻った。
不機嫌なミュルラス。
疲れたノエル。
そして、
「ほっほー」
いつもと変わらないエルネ。
三人並んで、
大きな湯船に浸かっていた。
「ねえ」
ノエルは、
湯船の縁に頭を預けた。
「ミュルラスって、魔王なんだからさ」
「なんだ」
「魔界の道とか、何か知らないの?」
「知らん」
「……知らないの?」
「ああ」
ミュルラスは、
当然のように答えた。
「俺はいつも瞬間移動だからな」
「そうなの?」
「ああ」
「じゃあ、知らないところへ行く時は?」
「偵察隊が先に行く」
「うん」
「城へ戻ってきて、俺を連れていく」
「それで?」
「全部破壊して帰ってくる」
「……」
ノエルは、
ミュルラスを見る。
「それ、二千年もやってたの?」
「ああ」
「はぁ……」
「なんだ」
「いや……」
ノエルは、
少し考えた。
「でも、ほら」
身体を起こす。
「新しいマップって、自分で歩いて開いていくものだからさ」
「……」
「勇者ミュルラス!」
「おお」
少し機嫌が戻った。
「今は、三人で旅してるんだよ」
ノエルは、
指を折る。
「勇者、ミュルラス」
「踊り子、僕」
そして、
エルネを見る。
「魔法使い……かな」
「ほっほー」
「でも、バランスで言ったら賢者がいいな」
「そうか?」
「うん」
ノエルは、
頷いた。
「じゃあ、エルネは賢者ね!」
「……」
エルネは、
髭を撫でた。
「ほっほー」
「決まりだね」
ミュルラスは、
湯の中で腕を組む。
「勇者が一番強いな」
「そういうゲームじゃないよ」
「俺のパーティーだからいいんだ」
「はいはい」
*
その夜。
ノエルは、
人間界から持ってきた牛肉を使って、
カレーを作った。
「なんじゃ、これは」
エルネが、
皿を覗き込む。
「カレーライス」
一口。
「……!」
エルネの目が、
大きく開いた。
「辛い!」
「辛かった?」
「じゃが……」
もう一口。
「うまい」
「よかった」
「辛い! じゃが、コクがあるのう」
ふう。
ふう。
エルネは、
一口ごとに息を吹きかけながら食べている。
隣では、
ミュルラスが、
自分のカレーを食べていた。
こちらは、
少し色が違う。
りんごをすりおろし、
蜂蜜を加えた。
甘めのカレー。
「どう?」
「うまい」
「辛くない?」
「これくらいがいい」
「やっぱりね」
「なんだ」
「なんでもない」
ノエルは、
自分のカレーを食べた。
*
翌朝。
三人は、
再び旅に出た。
ミュルラスが二人の手首を掴む。
一瞬。
景色が変わる。
昨日、
地図の上で最も西まで進めた場所。
「さて」
ミュルラスは、
すぐに地図を広げた。
「昨日は、ここから南へ行った」
ノエルも覗き込む。
「だからって、逆に行けばいいわけでもなかったよね」
「ああ」
東へ向かえば西へ行き、
そのまま進めば南へ行った。
方角を頼りにするほど、
おかしくなる。
「方角にとらわれない……」
ノエルが呟いた。
「他に、何かないかな」
少し考えて。
「ねえ、エルネ」
「なんじゃ?」
「西の森って、どんなところ?」
「森しかない」
ミュルラスが、
地図を見ながら答えた。
「君には聞いてないよ」
「森だろ」
「いや」
エルネが言った。
「そうでもないぞ」
「何があるの?」
「湖じゃ」
「湖?」
「ああ。森の奥に、大きな湖がある」
エルネは、
杖を地面についた。
「その真ん中に、古い祠がある」
「湖の真ん中?」
「そうじゃ」
「どうやって行くの?」
「そこには、とても美しい花が咲いておっての」
「花?」
「葉が大きく、強い」
エルネは、
両手を広げる。
「その葉の上を渡っていく」
「へえ!」
「まあ、少し魔法を使えば簡単じゃ」
ノエルは、
何かを思い出した。
「人間界だと、池に蓮の花が咲くけど」
スマートフォンを取り出す。
保存していた写真を探した。
「こういうの?」
エルネが、
画面を覗き込む。
「ほっほー」
「似てる?」
「これは美しいのう」
「西の森の花は?」
「もっと小さい」
「小さいんだ」
「小さな花が、たくさん集まって、一つの花のようになっておる」
「へえ……」
「それなのに、香りがとても強い」
ノエルの顔が、
少し変わった。
「香り?」
「ああ」
「どのくらい?」
「遠くからでも香るぞ」
「……それだ!」
ノエルが、
立ち上がった。
「なんじゃ?」
「どんな匂い?」
「そうじゃなあ……」
エルネは、
ごそごそと荷物を探り始めた。
「何かなかったかの……」
一冊の古い本を取り出す。
ぱらぱらとめくる。
「あった」
ページの間から、
小さな押し花が現れた。
「これじゃ」
ノエルは、
そっと受け取った。
小さな花。
よく見ると、
さらに小さな花がいくつも集まり、
一つになっている。
鼻を近づける。
すん。
すん。
「……あ」
まだ、
わずかに香る。
「知ってる匂い……」
「そうなのか?」
「日本にあった花に似てる」
もう一度嗅ぐ。
「なんだったかな……」
スマートフォンを取り出す。
検索しようとして、
「……あ」
電波がない。
「まあ、いいや」
押し花を、
もう一度嗅ぐ。
「これがそのまま咲いてるなら、確かにかなり強く香りそう」
「そうじゃろ」
「分かった」
ノエルは、
押し花をエルネへ返した。
そして、
目を閉じる。
「風さん、お願い」
ミュルラスが、
顔を上げる。
「この匂いを、教えて」
ノエルは、
小さく唱えた。
「ゼフ、リラン」
ふわり。
柔らかな風が、
三人の周りを通り過ぎた。
髪が、
静かに揺れる。
ノエルは、
目を閉じたまま。
「ほっほー」
エルネが、
感心したように頷く。
「風の魔法か」
「……」
「うまく使うものじゃのう」
「風なら」
ミュルラスが言った。
「俺もできるぞ」
ノエルが、
目を開ける。
「できるの?」
「ああ」
ミュルラスは、
手を上げる。
「だが、俺のは強すぎる」
エルネを見る。
「どうしたらいい。じじい」
「そうじゃのう」
エルネは、
少し考える。
「お主の風は、もともと破壊するためのものじゃ」
「そうだ」
「じゃが、使い方を変えればよい」
「どうやって?」
「風を、ここへ寄せてみるんじゃ」
エルネは、
三人のいる場所を杖で示す。
「ただし、少しずつじゃぞ」
「少しずつ……」
「全方向から、ゆっくりとな」
ミュルラスは、
手を広げた。
「こうか」
「もっと弱く」
「これでも弱い」
「もっとじゃ」
「……」
「もっと」
「じじい」
「なんじゃ」
「面倒だな」
「ノエルを吹き飛ばしたいなら好きにせい」
「それは駄目だ」
ミュルラスは、
もう一度集中した。
少しずつ。
少しずつ。
遠くの空気を、
自分たちの周りへ引き寄せる。
ふわ。
ふわ。
いくつもの方向から、
柔らかな風が集まってくる。
エルネが、
目を細めた。
「おお」
「どうだ」
「お主も、なかなかええぞ」
「当たり前だ」
「コントロールができるようになってきたのう」
「最初からできる」
「ほっほー」
「できる!」
ノエルは、
二人のやり取りを聞きながら、
風に意識を向けた。
けれど、
風が多い。
あちらから、
こちらから、
いくつもの匂いが、
一度に流れてくる。
「……」
少し考えて、
ノエルは、ミュルラスの手を握った。
「ん?」
「繋がってる方が、分かりやすいかも」
「そうか?」
「うん」
ミュルラスも、その手を握る。
「分かった」
もう一度。
ミュルラスが、
風を集める。
ノエルが、
その風を聞く。
二人の魔力が、
繋いだ手の間で触れる。
ミュルラスは、
ふとノエルを見る。
柔らかい。
風とも、
自分の魔法とも違う。
何かが、
掌から伝わってくる。
「……」
「ミュルラス?」
「なんでもない」
ノエルは、
また目を閉じた。
「風さん」
静かに尋ねる。
「教えて」
風が、
頬を撫でる。
「どこから来たの?」
ひとつ。
またひとつ。
遠くの空気が、
集まってくる。
その時、
「……あ」
ノエルの鼻先を、
かすかな香りが通った。
さっきの花。
乾いた押し花ではない。
もっと瑞々しく。
もっと濃い。
「ミュルラス」
「なんだ」
「もう少し」
「ああ」
風が集まる。
香りが、
もう一度通った。
ノエルは、
顔を向ける。
「……こっち」
「分かるのか?」
「うん」
ノエルは、
目を開けた。
「こっちから来てる」
ミュルラスは、
地図を見なかった。
「よし」
エルネが、
杖を持ち上げる。
「では、行くかの」
三人は、
歩き始めた。
*
方角は、
見なかった。
地図も、
開かなかった。
ただ、
風が運んでくる、
微かな香りを追った。
「こっち」
ノエルが言う。
三人が進む。
また、
風を集める。
「今度は、少し右」
歩く。
森が、
少しずつ深くなる。
そして、
「……匂いが強くなってる」
ノエルが言った。
さらに進む。
一歩。
また一歩。
香りは、
はっきりと濃くなっていく。
「近い」
木々の向こうが、
明るくなった。
「もう少し」
ノエルが、
枝を避ける。
森を抜ける。
その瞬間、
三人の前に、
大きな湖が広がった。
ノエルは、
立ち止まった。
風の中に、
あの花の香りが、
満ちていた。
à suivre…
破壊するための風と、香りを聞くための風。
繋いだ手から、
二人の魔力が静かに重なっていきます。
地図を閉じて、
風の匂いを追いかけて。
ようやく辿り着いた湖。
その先には、
何が待っているのでしょうか。




