第94章:父の慟哭、受け継がれし星
枯れ果てて灰白色へと風化した大神木の広場に、微かな、しかし力強い足音が響いた。
地べたに伏し、身体の底から生きる活力そのものを吸い取られていたゼノリスは、血に濡れた顔を必死に持ち上げた。
霞む視界の先、圧倒的な「無」の気配を放つ魔王ルシオンの前へ、一歩一歩踏みしめるように歩み出る影があった。
手にした古びた樫の杖を突き、ゆっくりと進む老人――ガント。
歳月を重ねたその躯からは、三千年の刻を「忘却の聖域」の番人として静かに生き抜いてきた、老魔導師バアルガンドの凄絶な覚悟が漂っていた。
ルシオンは、歩み寄る老人の姿を一瞥すると、薄い唇の端をわずかに吊り上げた。
その瞳には感情の欠片もなく、ただ道端に転がる石ころを眺めるような冷酷さが宿っている。
「……何の真似だ、老いぼれ。我が気配に呑まれず、地に伏せなかったことだけは褒めてやるが、その朽ちかけた肉体で何ができるというのだ」
「ルシオン……」
バアルガンドの声は低く、地底の地鳴りのように重く響いた。
樫の杖を握りしめるその手には凄まじい力が込められ、古びた木肌の隙間から、蓄えられていた銀色の光芒が微かに脈打ち始める。
「三千年前、帝国の狂った実験の中で、ゼノスが突如として正気を失い、世界を焼き尽くす怪物……『初代魔王』へと落ちた。わしは我が子を救うこともできず、この手で『忘却の聖域』へ封じ込めざるを得なかった。……あの日から、わしの時間は止まったままだ」
バアルガンドの眼差しには、胸を抉られるような深痛な哀しみが宿っていた。
地べたで息を荒く吐き捨てるゼノリスは、その言葉に目を見開いた。自分の中に眠る『初代魔王』の魂。その起源を語る老人の背中から、溢れんばかりの情念が伝わってくる。
「だが……真実は違っていた」
バアルガンドは一歩踏み出し、深く、地面を杖で突いた。ゴツン、と乾いた音が広場に響く。
「ゼノスが狂ったのは、単なる実験の過剰な負荷などではない。……お前が、陰で密かに呪いのろ過装置へ細工を施し、過剰な怨念と絶望をゼノスの肉体へ流し込んだからだ! お前は自らの内に潜む虚無を満たすためだけに、実の兄を、わしの愛する息子を怪物へと仕立て上げたのだ!」
静まり返った広場に、痛恨の告白が叩きつけられた。
フィリーネも、エレナも、息を詰めてその言葉を聞いていた。
実の兄を怪物に変え、父親にその手で封印させたという、あまりにも惨酷な真実。
ルシオンは一切の悪びれもなく、喉の奥でくつくつと冷ややかに笑った。
「今さら気づいたか、不甲斐ない父親よ。ゼノスは甘かった。くだらない情や優しさを捨てきれず、器としてもあまりに脆かった。だからこそ、私が少しだけ背中を押してやったのだ。奴が流した血と絶望は、私にとって絶好の糧となったよ」
感情を欠いたその声は、実の兄を狂わせたことすら、自らの糧を得るための「無慈悲な実験」に過ぎなかったと告げていた。
バアルガンドの全身が、激しい憤怒によって微かに震えた。
「……ゼノスを狂わせ、この手で封印させられたそのおぞましい罠……。三千年間、わしが抱え続けてきた後悔のすべては、やはりお前が生み出した呪いだったのだな」
バアルガンドの全身から、それまでの老いた佇まいを一瞬で削ぎ落とすほどの気迫が解き放たれた。
古びた衣服が内側からの光によって大きく膨らみ、その足元から、透き通った純白色の光が放射状に駆け巡る。
「我が手で生み落とし、留めることの出来なかった罪……。ルシオンよ、お前のその歪んだ宿命、わしの残された命すべてを賭して、ここで断ち切る!」
「戯れ言を。完全体となった私に、衰え果てた貴様の手が届くと思うか」
ルシオンが右手をかざすと、彼の周囲の空気が不気味に揺らぎ、存在そのものを掻き消す「絶対の無」の気配が立ち昇った。
三千年の因縁を胸に、父と子が対峙する。
バアルガンドは樫の杖を両手で強く握りしめ、胸の前で垂直に立てた。
古びた木肌に刻まれた微小な傷から、白銀の粒子が溢れ出す。
それは歳月を重ねた肉体から絞り出される、彼の生命力そのものであった。
「『星環封印陣』――展開」
バアルガンドの静かな詠唱とともに、彼の背後に目も眩むような巨大な三つの光の輪が出現した。
三千年前の大アドラスティア帝国において、限られた高位魔導師のみに禁じられていた最高位の術式。
大地の理そのものを書き換え、対象の存在そのものを世界から切り離す無慈悲な檻。
樫の杖から放たれる純白の光芒が、静寂に包まれた大神木の根元へと浸透していく。
大地に眠る途方もない歳月の残照を引きずり出すように、広場全体の石畳に、緻密な幾何学模様の陣式が瞬く間に広がっていった。
ルシオンはそれを見下ろし、不快そうに眉をひそめた。
「命を煤に変えて火を焚くか、愚かな。どれほど足掻こうとも、広大な虚無の前ではすべてが等しく消失する」
ルシオンが細い指先をパチンと鳴らした瞬間、目の前の空気が激しく歪んだ。 触れたものすべてを消し去る漆黒の光線が、一直線にバアルガンドへ放たれる。 音もなく、漆黒の影が静かに迫っていた。
だが、バアルガンドは一歩も引かなかった。
深く踏み込み、樫の杖をさらに深く地面へ押し当てた。
「『第一の陣・星々の理』!」
バアルガンドの叫びとともに、幾何学陣式から光の壁が立ち昇り、黒い波動と正面から激しく衝突した。
ドォン、と凄まじい空響が霊樹の都全域を揺らす。
光と闇が互いを喰らい合い、弾け散る余波だけで石畳が波打ち、何重にも跳ね上がった破片が空中へ舞い上がった瞬間に粉じんへと風化していく。
天地を揺るがす魔法戦。
三千年の刻を生き抜いてきた老魔導師の執念と、世界のすべてを掻き消そうとする魔王の闇が、正面から激しく鬩ぎ合っていた。
「ぐうっ……ぬあぁぁぁっ!」
バアルガンドの口から、赤黒い血が叩きつけられた。
すべてを消し去るルシオンの波動は、あまりにも圧倒的だった。
光の結界には蜘蛛の巣のような亀裂が走り、漏れ出た黒炎がバアルガンドの古びた衣を焼き、その肉体を容赦なく削り取っていく。
視界が赤く染まり、肉体が霧へと解け落ちそうな激痛。
それでも、老魔導師の眼差しから輝きは失われなかった。
(ゼノリス……そして、若き星たちよ……)
倒れ伏す少年少女たちの姿が、かすむ視界の端に映る。
己の過ちと後悔が生み出してしまった三千年の残酷な運命。それをこれ以上、未来を生きる子供たちに背負わせるわけにはいかない。
(ここで……すべての呪いを終わらせる!)
バアルガンドは左手を己の胸元へと叩きつけた。
ドクン、と胸の奥で心臓が大きく脈打った。
彼は自らの魂を燃やし、封印陣の威力を限界を超えて引き上げた。
彼の白髪が眩い銀光を放ち、全身の毛穴から血の霧が噴き出す。
「『第二の陣・血脈の楔』……『第三の陣・神木の鎖』! 満ちよ、我が命の残響となって!」
広場全体を覆う幾何学模様が、黄金と白銀の混ざり合った苛烈な光芒を爆発させた。
地面から太い光の鎖が何十本と噴き出し、生き物のようにうねりながらルシオンの四肢へ、そして胸元へと巻きついていく。
「ぬ……!? これは……我の存在そのものを縛り付ける術式か……!」
ルシオンの顔から余裕の笑みが消えた。
巻きつく光の鎖は、彼の肉体に絡みつくだけにとどまらない。その体内を駆け巡る漆黒の魔力回路に直接喰い込み、莫大なマナの流れを強力に遮断し始めたのだ。
真の姿を取り戻したルシオンの猛威と魔力が、徐々に、しかし確実に抑え込まれていく。
「引き裂け! 虚無よ、すべてを呑み込め!」
ルシオンが苛立ちとともに全身から黒炎を吹き荒れさせ、鎖を強引に引きちぎろうとする。
その反動を受け、バアルガンドの肉体は皮膚が弾け飛び、大量の血が石畳を赤く染め上げた。
それでも、バアルガンドの膝が屈することはなかった。
節くれ立った指を砕け散った杖の破片に食い込ませ、己の存在すべてを世界とルシオンを繋ぐ『楔』として、魔王の動きを縛り続けていた。
「逃がさん……! お前のその禍々しい脈動を……我が命が潰えるまで、繋ぎ止めてみせる!」
バアルガンドが命懸けで放った三つの陣式は、ルシオンの膨大な魔力を確実に縫い留めていた。
「ぬぐ……っ! 我が魔力を遮断するか……!」
ルシオンが苛立ちを隠さず、全身から黒炎を吹き荒れさせて光の鎖を引きちぎろうとする。だが、地脈から噴き出した封印の鎖は力強く巻きつき、魔王の体をその場へ強く縛り付けていた。
「いま……だ……!」
バアルガンドの掠れた声が広場に響いた瞬間、彼の手の中で三千年ともに歩んできた樫の杖が、乾いた音を立てて木ごとなごりなく砕け散った。
老魔導師の膝が折れ、赤く染まった石畳へと倒れ込む。
「ガンド先生……!」
「先生!」
束縛から解放されたゼノリスとフィリーネ、そして仲間たちが一斉に駆け寄った。
ゼノリスは倒れたバアルガンドの上半身をそっと抱き起こし、フィリーネは膝をついて、震える両手から温かな治癒の光を注ぎ込もうとした。しかし、バアルガンドは血に濡れた手でそっとそれを制し、力なく首を振った。
「無駄だ、フィリーネ……。わしの生命は、もう尽きようとしている……」
「そんな……! 嫌です、ガンド先生……! お願いですから、諦めないで……!」
フィリーネの瞳から、大粒の涙が幾筋も零れ落ちる。バアルガンドは柔らかな目元で彼女を見つめ、それから自分を支えるゼノリスの顔を見上げた。
「ゼノリス……すまなかったな。お前にばかり、余計な苦難と重荷を背負わせてしまった……」
「先生……喋らないでください! 今、傷を……!」
「いや、聴いてくれ……。わしは真実も知らぬまま、この手で我が子を閉ざしてしまった……。だが、これでいい。わしの過ちと三千年の因縁は、わしがここで断ち切る……」
バアルガンドの瞳に、三千年の長きにわたる痛恨と、父親としての悔しさが揺らめいた。
老魔導師は深く息を吐き出し、ゼノリスの右手に巻かれた包帯へと視線を落とした。
「ゼノリス……お前の力は、世界を壊すためのものではない。お前はもう、一人ではないのだ……。前を見ろ。ともに立つ仲間が、すぐそばにいる……」
ゼノリスは溢れ出る涙を拭おうともせず、恩師の手を強く握り返した。
「はい……! 僕には、みんながいます! 先生が教えてくれたから、ここまで歩んでこられました!」
「そうだ……。仲間とともに、新しい未来を創るのだ……。フィリーネ、ゼノリスを頼むぞ……」
バアルガンドの手からゆっくりと力が抜け、白銀の光がその全身を包み込んでいく。三千年の長きにわたる孤独と凄惨な戦いを終え、彼の表情には穏やかな安らぎが宿っていた。
「ゼノス……待たせたな……」
最期に愛しい息子の名を呟くと、老魔導師の肉体は眩い光の粒子となって弾け、霊樹の都を吹き抜ける風に乗って、空の彼方へと溶けていった。
「ガンド先生……っ!」
ゼノリスの悲痛な叫びが、静まり返った広場に虚しく響き渡る。
仲間たちはみな叩きつけるような悲しみに耐え、静かに頭を下げた。テオは言葉を失い、分厚い胸を揺らして激しい悔しさに唇を噛みしめている。リィンは静かに瞳を閉じ、愛刀の柄を指先が白くなるほど強く握りしめた。ナディアやフィリーネの瞳からは涙が止めどなく溢れ、ガイルやルカス、カシムもまた深くうつむき、エレナも静かに剣の柄に手を添えて、老魔導師の最期を見届けていた。
だが、彼らに悲しみに浸る時間すら与えられなかった。
「フハハ……ハハハハハっ!」
光の鎖に縛られたルシオンが、狂ったような嘲笑を上げた。
「愚かな父よ。己の命を捨てて稼いだ時間が、ほんの束の間の足止めに過ぎぬと知りながら散っていくとはな!」
ルシオンの体から黒い炎が再び激しく吹き荒れ、光の鎖に幾筋もの亀裂が走り始める。バアルガンドが命を懸けて遺した封印の鎖も、徐々にその威力を削られ始めていた。
ゼノリスは立ち上がり、袖で乱暴に涙を拭った。
腰から黒い剣を引き抜き、まっすぐに魔王ルシオンを見据える。その瞳には、悲しみを越えた、静かで折れることのない情熱が宿っていた。
「先生が命を懸けて遺してくれた想いを……お前に踏みにじらせはしない!」
ゼノリスの叫び声に呼応するように、フィリーネが白銀の杖を強く握り直して前へ出た。テオが漆黒の重盾を前に突き出し、ガイルが右目の解析の光を輝かせる。ルカスが魔導具を構え、カシムが影の中に短剣を滑り込ませた。ナディアが黄金の羅針盤を胸に掲げ、リィンが風を纏った愛刀を構え、エレナが銀の長剣を力強く引き抜く。
仲間たちが、迷いのない足取りでゼノリスの隣へと並び立った。
「行くぞ、みんな! 僕たちの手で、この戦いを終わらせるんだ!」
「「「おおおっ!!」」」
星屑の騎士たちの誓いの声が、霊樹の都の夜空をどこまでも高く貫いていった。




