第93章:沈黙の神木、魔王の再臨
静寂は、一瞬にして破れ去った。
エレナの身体が、地面を蹴る音すら残さずに弾け飛ぶ。父から託された白銀の長剣が、蒼白い光の軌跡を描きながら、ルシオンの喉元を目がけて一直線に疾走した。一切の迷いを削ぎ落とした秘剣の一閃――それは過酷な戦いの中で命を燃やした父の遺志そのものであり、鍛え上げられた剣士の限界を超える速度に達していた。
「――おおあああっ!」
それに連動し、ゼノリスもまた地を蹴った。全身の魔力を剣身に極限まで収束させ、正面から突進するエレナと同調して、その右側からルシオンを挟み撃つべく刃を振るう。さらには後方からリィンの放つ疾風の刃と、カシムの伸び上がる影魔法が重なり合い、死角を塞ぐ完全なる立体多重攻撃となってルシオンへ迫る。
仲間たちの絆と死力の全てが結実した、完璧な一撃のはずだった。
だが――ルシオンは、眉根一つ動かさなかった。
迫り来る鋭利な刃の群れと必殺の魔法に対し、魔王はただ冷ややかな双眸を向けただけだった。
突如、ルシオンの全身から目に見えない「世界の歪み」が波紋のように広がった。
直後、恐るべき現象が起きる。
エレナの放った白銀の刃が、ルシオンの肌に触れる直前でピタリと止まった。
ルシオンの周囲を覆う空間そのものが黒く歪み、あらゆる攻撃を呑み込む壁と化していたのだ。エレナの斬撃も、リィンの疾風も、カシムの伸ばした影すらも、その漆黒の領域に触れた瞬間に跡形もなく消え去っていく。
「なっ……!?」
エレナの瞳に激しい動揺が走った瞬間、ルシオンはまとわりつく塵でも払うかのように、ぞんざいに右手の指先をほんの僅か滑らせた。
それだけであった。
ドオンッ、と大気が爆破されたような凄まじい地鳴りが炸裂する
指先から放たれた衝撃波が、一瞬でエレナとゼノリスの胸元を直撃した。
「ガハッ……!?」
防具ごと骨が軋む音が響き渡り、二人の身体は紙切れのように軽々と宙へ吹き飛ばされた。激しい衝撃とともに神木の太い根へ叩きつけられ、口から鮮血を吐き出して地面を転がる。後方で援護していたリィンやカシムもまた、余波として吹き荒れた突風と魔圧の渦に呑み込まれ、叩きつけられて伏した。
完璧な連携も、圧倒的な能力の差の前には何の意味もなさなかった。
あまりにも理不尽な格の違い。ルシオンは一歩もその場から動いておらず、武器すら手にしていない。
煙塵が舞い散る広場で、ルシオンは足元に倒れ伏す者たちへ一瞥の価値すら与えなかった。彼の関心は最初から、彼らには向けられていないのだ。
カツン、カツンと、静かな足音が神木の根元を踏みしめる。
漆黒の衣を揺らしながらルシオンが歩みを進める先――そこには、血を流して意識を失ったザガンを庇い、恐怖に身を強ばらせながらも気丈に立ち塞がるフィリーネの姿があった。
「……来ないで……!」
立ち上がる脚の震えを必死に抑え、必死にザガンを守ろうとするフィリーネ。その青ざめた顔に、ルシオンの冷酷な影が覆いかぶさる。
「……身の程知らずどもだ。有象無象がどれほど集まろうと、天を仰ぐことすら叶わぬというのに」
まるで動かしようのない事実を語るかのような、冷徹な響き。
彼はフィリーネの前で立ち止まると、見下ろすように細められた双眸を彼女の胸元へと向けた。
そこには、服の隙間から溢れ出た青白く脈動する『星刻のペンダント』があった。神木を繋ぎ止める三千年の楔の鍵。
フィリーネは胸元を必死に庇おうとした。だが、ルシオンが静かに指先を向けた、それだけであった。
黒い魔力がフィリーネの手をすり抜けてペンダントを捉える。金属音とともに銀のチェーンがちぎれ飛び、ペンダントは宙を滑ってルシオンの手の中へ収まった。
「ああっ……!」
フィリーネの悲鳴が響く中、ペンダントはルシオンの手の中で光を放ち始めた。
手の中の輝きを見つめ、ルシオンの薄い唇が冷たく歪む。
「これだ……。三千年の長きにわたり、我らを拒んできた結界の鍵。これさえ手に入れば、神木の力は我がものとなる――」「
「や、やめろ……ルシオン……っ!」
血を吐きながら、地面に伏したゼノリスが必死に手を伸ばし、声を絞り出す。しかし、全身を縛りつけるようなルシオンの膨大な圧力に叩き伏せられ、立ち上がるどころか指一つ動かすことすら困難だった。
ルシオンは眼前に聳え立つ大神木――「第三の楔」の巨大な幹へと歩み寄った。
太い樹皮に覆われた神木は、いまなお悠久の時を生きる穏やかな緑のマナを漂わせている。だが、その静けさに微かな歪みが生まれ始めていた。
ルシオンは右手に握り締めた『星刻のペンダント』を掲げると、躊躇なく、その鋭利な尖端を神木の太い幹へと深く突き立てた。
メリメリッ、と樹木が悲鳴を上げるような破壊音が周囲に響き渡る。
「……『星の刻印』の輝きよ、世界の理を翻し、虚無を呼び覚ませ。封印の門を穿ち、真実の姿を解き放つ糧となれ」
突き刺されたペンダントから放たれていた澄んだ青白い光が、急速に濁り出し、ドス黒い不気味な黒炎へと変色していく。ペンダントを通じて、ルシオンの体内から溢れ出る無尽蔵の漆黒の魔力が、直接大神木の深層脈動へと流し込まれていく。
バリバリと空間が裂けるような激しい放電現象が起き、神木の幹に幾筋もの黒い亀裂が走り始めた。
三千年の間、世界を支え続けてきた不滅の封印が、内側から破砕され、解き放たれていく――。
ルシオンの放つ最後の呪言が空気を震わせた瞬間、大神木の太い幹へと深く突き立てられた『星刻のペンダント』が、禍々しい紫黒の光を激しく放ち始めた。
三千年の歳月、この世界を護り続けてきた盤石の結界が、内側から容赦なく打ち砕かれ、解き放たれていく――。メリメリ、バリバリと、世界そのものが悲鳴を上げるような凄惨な亀裂音が響き渡り、神木の表面に無数の黒い脈動が走った。
その直後、都全体を温かく包み込んでいた生命の旋律が、プツリと糸が切れたように断絶した。
何千年もの時を生き抜き、豊かな緑のマナを漂わせいていた巨木の大枝から、みるみるうちに輝きが失われていく。天を突くほど高く広がる枝葉の先々まで、青々としていた鮮やかな色彩が一瞬にして退色し、乾いた死の灰白色へと塗り替えられていった。
生命の源流そのものであった樹木は、その瑞々しい水分と熱を刻一刻と奪われていく。
木漏れ日を浴びてキラキラと輝いていた幾千、幾万の葉は、生命を失った乾いた灰となり、音もなく舞い散っていった。都の上空から、まるで死の灰のように舞い散る葉の破片が大量に降り注ぎ、緑豊かな街並みと小道を灰色に染め上げていく。生命の歌声を完全に失い、静まり返っていく神木の姿は、あまりにも残酷な「沈黙」そのものであった。
そして、その惨劇の波は、大神木と魂の奥底で生命力を深く共有してきた東の国の民たちへと、逃れようのない苦痛となって襲いかかった。
「ぐっ……あ、あぁぁぁ……っ!」
霊樹の都のあちこちから、耐えがたい悲鳴と苦悶の呻きが重なり合って沸き起こる。
「風読みの一族」のハルカ老族長をはじめ、神木の恵みと共に生きてきた長老たち、そして都で平和に暮らしていた民や子供たちまでもが、突如として全身を刺し貫くような激痛と、魂を芯から干からびかせる猛烈な「渇き」に襲われた。人々は自らの喉や胸元を必死に掻きむしり、次々と膝から崩れ落ちて石畳へと倒れ伏していく。
武術の誉れ高き「剣聖カゲトラ」でさえ例外ではなかった。彼は激痛に顔を歪め、愛用の大剣を地面に深く突き立ててどうにか身体を支えようとしたが、体内の奥底から強引に搾り取られていく生命の奔流に抗う術はなく、屈辱に歯を食いしばりながら泥の上に膝をついた。
「神木……様が……生命を……失っていく……」
ハルカ老族長は、霞む視界の中で乾ききっていく神木を仰ぎ見、乾いた喉から擦り切れた声を絞り出した。
神木の息吹とともに生きてきた人々が、一様に苦悶の息を吐き、膝から崩れ落ちていくその様は、まさに地獄の様相であった。
地面に倒れ伏したままのゼノリスは、荒い息を吐きながら必死に顔を上げ、その凄惨な光景を目に焼き付けていた。右手のひらに刻まれた『第三の星』が、人々の苦痛と世界の崩壊に呼応して、焼けるような熱を放つ。だが、疲弊しきった身体は思うように動かず、目の前で繰り広げられる惨状を前に、ゼノリスは己の無力さに悔し涙を流し、激しい怒りに奥歯を強く噛みしめることしかできなかった。
大神木の最深部、大地の奥深くにまで根を伸ばしていた三千年分の莫大な生命のマナは、ペンダントを媒介として強引に吸い上げられていた。
あふれ出た緑のマナの奔流は、ルシオンの解き放つ黒魔力と混ざり合い、大気をけたたましく引き裂く漆黒の竜巻となって地上へ吹き荒れた。暴風が都の建物を揺らし、立ち枯れた枝をへし折っていく。
黒い竜巻は、地鳴りのような猛威を振るいながら集束し、狂い咲く禍々(まがまが)しい旋律となって、神木の前に佇むルシオンの肉体へと怒涛の勢いで注ぎ込まれていった。
神木の生命力を吸い上げるにつれ、天空の様相すらも一変していく。
つい先刻まで東の都を爽やかに照らしていた秋の澄んだ青空は、みるみるうちに黒炎と紫黒の暗雲によって塗り潰されていった。一筋の陽光すら地上へ届かぬよう、ことごとく遮られ、都から光が失われていく。
まだ昼であるはずの時間は失われ、都全体が、静寂な暗闇へと沈み込んでいった。
神木の最深部から吸い上げられた三千年分の莫大な生命のマナは、大気を引き裂く漆黒の竜巻となって吹き荒れ、やがてその狂暴なエネルギーが一点へと集中していった。地上を打ち叩いていた黒炎と竜巻が吸い寄せられるように収束すると、あふれ出たマナの奔流が収まるとともに、都を包んでいた激しい風はピタリと止んだ。
しかし、訪れたのは穏やかな安らぎなどではない。空を覆い尽くした暗雲の下、生き物の息吹すら凍りつかせるような不気味な沈黙が、絶望の影となって世界を覆い尽くしていた。
その静寂の暗闇の中心、色彩を失って枯れ落ち、灰白色へと沈黙した大神木の根元に、一人の男が静かに佇んでいた。
魔王ルシオン。
彼の姿を苛んでいた存在の揺らぎは、跡形もなく消え去っている。ペンダントを媒介にして大神木のマナを吸い上げたことで、影のように不確かだったその身体は、確かな実体となって現世に定着していた。
全身から溢れ出すのは、光すら吸い寄せる冷酷な虚無の気配。美しい銀髪と漆黒の双眸を湛えたその整った容貌は、まるで精巧な彫像のように無機質な冷たさを湛えていた。
ルシオンが、静かに一歩を踏み出す。
ド、ン……。
重々しい足音が地に響いた瞬間、周囲の空間そのものが歪み、大気が悲鳴を上げた。
足元から、漆黒の波紋が放射状に伝播していく。神木の根元に敷き詰められた古い石畳に、巨大な爪で引き裂かれたかのように無数の亀裂が奔り、破片が重力を失ったかのように一瞬浮き上がり、次の瞬間には細かな砂となって崩れ落ちていった。
「……くっ……ガハッ……!」
ゼノリスは必死に石畳へ指を立て、踏みとどまろうとした。
だが、全身からみるみる力が抜け落ちていく。生きる活力そのものが吸い取られていくのだ。指先ひとつまともに動かせない。
すぐ傍らでは、父ザガンの秘剣を受け継いだエレナが、血を吐きながら長剣の柄を握りしめていた。その瞳には悔しさと怒りが燃えている。しかし、声すら出せないまま、氷のように冷え切った床の上に崩れ落ちるしかなかった。
フィリーネも、テオも、リィンも――「星屑の軍団」の誰もが、全身の感覚を奪われ、打ち捨てられた人形のように倒れ伏していた。
立ち上がるどころか、息を吸うことすら儘ならない。
本来の力を取り戻したルシオンの前では、抗うことすら許されなかった。
ルシオンは、血を吐きながら自分を睨みつけるゼノリスたちを、冷たく見下ろした。
「指一本動かせぬ身体で地べたを舐めながら、これ以上何を足掻くというのだ」
ルシオンの声が、静まり返った都に冷ややかに響く。
「三千年の刻を経て、世界はついに終わる。お前たちが守ろうとしたこの世界は、最初から滅びる運命だったのだ」
ルシオンは絶望に沈む街並みへと視線を向けた。
「争い、奪い合い続ける愚かな世界……。光を誇りながら闇を排除し、偽りの平和に浸る人間ども。この醜い世界に幕を引き、すべてを無へ還す。それが我が宿命だ」
その言葉には一切の迷いも感情もなかった。
「この地に残された命も、お前たちが紡いできた絆とやらも、すべては虚無の中に消える。静寂こそが、この世界への救済だ」
冷酷な宣告を残し、魔王は振り返りもせず歩み始める。彼が一歩を踏み出すたび、空間が歪み、世界の終わりを告げるカウントダウンが聞こえるかのようだった。
ゼノリスは遠ざかるルシオンの背中を睨みつけ、血に濡れた拳を床に叩きつけた。
(終わらせてたまるか……こんなところで……すべてを奪われてたまるものか……!)
絶望的な恐怖の中で、胸の奥にある「変革の星」の種火が、静かに、そして激しく燃え上がり始めていた。




