第79章:白亜の影、エレアノールの後悔
秋の夜風が、大理石で築かれた白亜の尖塔をがたがたと激しく揺らしていた。
学園長室の広い窓から差し込む月光は、部屋の隅々にある重厚な本棚や、かつて歴代の賢者たちが遺した魔導具の数々を青白く照らし出している。
エレアノール・フォン・アドラスは、窓辺に一人佇み、暗い夜空を静かに見つめていた。 彼女の視線の先には、星空に最も近い場所にある、古びた旧時計塔の尖塔が、激しく流れる低い雲の隙間からぽつりと浮かび上がっている。
「……誰もいない、お城ね」
彼女の薄い唇から、かすかな、ため息のような独白が零れ落ちた。
かつて、あそこには十人の若き星屑の騎士たちが集い、不揃いな木皿を囲んで、温かな薬草のスープを分け合っていた。彼らの賑やかな笑い声や、明日を信じて語り合っていたあの真っ直ぐな言葉は、今はこの冷え切った夜風にかき消され、残響となって彼女の胸に留まっている。
エレアノールは、窓辺からゆっくりと離れ、机へと戻った。
引き出しの最奥、魔導の鍵がかけられた小さな隠し木箱を開け、中から、使い古されて色褪せた金属のロケットを取り出す。
指先でそっと触れると、蓋がカチリと微かな音を立てて開き、中に収められた古びた肖像画が、静かにその面影をのぞかせた。
そこには、若き日の自分と、自分のすべてをかけて愛した一人娘のリリーが、穏やかな秋の陽だまりの中で、手を繋いで微笑んでいる姿が描かれていた。
「リリー……」
エレアノールは、娘の美しい顔を細い指先で愛おしそうになぞった。その瞬間、彼女の頭の奥深くで、キィ……と耳障りな摩擦音が響き、神経を逆撫でする不快なノイズが、ちりちりと音を立てて疼き始めた。
それは、彼女自身の血脈に刻まれた、逃れることのできない『契約』の痛みの予兆だった。
彼女の意識は、冷たい夜の静寂を通り抜け、数十年前という、はるか遠い幼い頃の記憶へと静かに吸い込まれていった。
三千年前、あの偉大なる大アドラスティア帝国が崩壊したあの日から、彼女の一族は世界を壊しかけた大罪人として、常に人々の凄惨な報復を恐れて生きてきた。
帝国の支配者であった正統なる血筋、本姓である『アドラスティア』の名を名乗ることは、この世界では即座に死を意味する。そのため、一族はそこから文字を削り落とした『アドラス』という、ありふれた貴族の名を騙り、世界の最果てでひっそりと息を潜めてきたのだ。
だが、エレアノールの厳格な両親は、帝国の誇りを片時も忘れてはいなかった。
「アドラスの血を引く者よ。お前がその身に宿すのは、この不浄な八つの国を従えるべき、真の皇帝の光なのだ」
防音の障壁を幾重にも張った、冷たく湿った暗い地下室。
幼いエレアノールは、日の光すら届かないその場所で、両親が手にする鞭の音が鳴り響くたびに、その厳しい言葉を背中に刻み込まれて育った。
そこで叩き込まれたのは、帝国の最悪なる大魔法、古代禁忌魔法『星天の調律』の術式だった。
『星天の調律』とは、世界を隔てるすべての魔法の防壁や、現在の因果の流れを強制的に分解する、理の書き換え魔法。
ひとたびこの魔法が発動すれば、現在ある八つの国を支える魔導の循環が一瞬にして強制終了されるため、現在の国家システムは土台からすべて崩壊する。
そして、その崩壊の瞬間。地底の奥深く、誰の記憶からも消え去った深淵の暗闇に埋もれていた、三千年前の巨大な魔導システムが強制的に再起動するのだ。
稼働したシステムは、かつての帝国の巨大な魔導文明を再び地上へと再興させる。
だが、その世界の書き換えを行うためには、現在の世界を分解する触媒として、帝国の直系である『星の種』の、純粋な魂の灯火を限界まで搾り出さなければならない。
それは、自分が最も愛する我が子のすべてを、帝国再興のための『生贄』として差し出すに等しい、悪魔の儀式。
「この魔法は、知識としてのみ受け継ぐのだ。決して、人前で披露してはならぬ」
両親の言葉を、エレアノールは幼いながらに、逃れることのできない心の枷として受け止めていた。
さらに惨いことに、十歳の成人の儀の夜、エレアノールは己の魂の奥底に、両親の手によって一つの精神拘束の呪いを刻み込まれた。
それは『帝国への殉従の契約』。
もし、帝国の再興を拒み、さだめに背いて、普通の人としての穏やかな日々を望もうとすれば、気を失うほどの頭痛に見舞われ、自我を失って、感情を持たない帝国の道具にされてしまう、逃れる術のない非情な呪いだった。
彼女が時折、生徒たちを突き放すような、情の通わない判断を下すのは、自身の内に巣食う呪いの仕業に他ならなかった。
そして、その呪いこそが、一人娘であるリリーをも、追い詰めることになったのだ。
ロケットの蓋に指先を添えたまま、エレアノールは静かに目を閉じた。
開かれたわずかな隙間から零れ落ちるように、若き日のリリーの面影が、彼女の脳裏へと鮮やかに蘇ってくる。
娘がこの世界に産声をあげたあの日、生まれたばかりの柔らかな温もりを初めて抱き上げたときの腕の感触を、彼女は今でもはっきりと覚えている。それは、血も通わない一族の宿命と、自身の魂を縛り付ける呪縛の中で、エレアノールが生まれて初めて触れた、純粋な愛の光だった。
娘は、学園の庭に咲く白百合のように美しく、そして何よりも自由な心を愛して健やかに育った。エレアノールは、自身が両親から厳しく叩き込まれた帝国の禁忌の術式、古代禁忌魔法『星天の調律』のすべてを、いつか一族の宿命を果たすときのためにと、リリーへと受け継がせた。
だが、十歳を迎えた成人の儀の夜、エレアノールは愛する我が子を自分と同じ呪縛の暗闇へ突き落とすことに耐えかね、精神拘束の儀式を途中で断念してしまった。呪いを受けずに済んだことこそが、リリーが誰にも縛られない自由な心を持ち続けられた理由だった。
しかし、防音の障壁が張られた、あの冷たい地下室で行われた継承の儀式は、母娘の間に二度と埋まることのない深い溝を作るきっかけとなってしまったのだ。
「私は、帝国を再興するための部品じゃない。誰かの身代わりになって、その灯火を無理やり燃やし尽くされるなんて、決して真っ平よ」
リリーは、母の魂の奥底に巣食う『帝国への殉従の契約』という精神拘束の呪いを、激しく嫌悪していた。エレアノールの親心によって自身はその悍ましい呪縛から免れていたものの、血の繋がった我が子さえもいつか道具として消費しかねない一族の非情なさだめと、感情を失ったひややかな人形のように振る舞うエレアノールの姿に、リリーは耐えかねていた。彼女が向ける、悲しみと拒絶の混ざり合った瞳は、エレアノールの心をどのような鋭い刃物よりも深く切り裂いた。
二人の確執が決定的なものとなったのは、リリーが学園の教師として教壇に立つようになってからのことだった。
ある日、リリーは当時副学園長を務めていたヴァルガスたちが、学園の地下で自らの非道な野心のために進めていた忌まわしい計画を知ってしまう。それは、古代の機械兵器と人間の灯火を融合させ、道具として使い潰すという、非情な実験の証拠だった。
正義感の強いリリーは、その告発の証拠となる機密書類と、一族の正統な血筋の象徴である「星刻のペンダント」を奪い、まだ生まれて間もない我が子を抱いて、激しい大雨の降る夜に学園都市を脱出した。
ヴァルガスは、自らの企みが世に露見することを恐れ、焦りの表情を浮かべながらエレアノールの元へと駆け込んできた。
「エレアノール学園長、大変なことが起きました。リリー先生が、学園の大切な機密を持ち出して逃亡したのです」
ヴァルガスは、冷ややかな慇懃さを保ちながら、言葉巧みにエレアノールを惑わそうと語りかけてきた。その口調は、心配しているかのように装いながら、胸の奥に邪悪な企みを隠している。
「ですが、私はリリー先生を責めるつもりはありません。彼女はきっと、あの男、夫にそそのかされ、一時的に魔が差してしまったのでしょう。生まれたばかりの赤子を抱えたまま、この激しい雨の中を彷徨うなど、どれほど大変なことになるか。想像するだけで心が痛みます」
ヴァルガスは、エレアノールの顔色を窺いながら、さらに甘い言葉を重ねた。
「リリー先生はまだお若い。あのような男にそそのかされ、すべてを投げ出すのはあまりにもお労しい。今ならまだ、教師としての輝かしい未来へ連れ戻せます。何よりも彼女の将来のため、一刻も早く保護すべきです。学園長、彼女の行方に心当たりはありませんか?」
その言葉を聞いているエレアノールの頭の中で、あの精神拘束の呪いが狂暴に疼き始めた。
キィ……と耳障りな摩擦音が響き、頭を激しく挟み込むような激痛が走り抜ける。思考が白く濁り、正常な判断力が失われていく。
それは、彼女の魂の奥底に刻み込まれた、非情な宿命の鎖。もし帝国の再興を拒み、普通の人としての穏やかな日々を望もうとすれば、脳を締め付けるようなはげしい頭痛に見舞われ、自身を見失ってしまう。
ヴァルガスの「連れ戻すのが彼女のため」という言葉が、自身を見失いかけたエレアノールの思考をさらに濁らせていく。頭を直接焼かれるような激痛のなかで、彼女のなかの「帝国の亡霊」が、娘をふたたび鳥籠へと戻すための最善の道を叫んでいた。
彼女は、疼く頭を両手で押さえながら、荒い呼吸とともに、自身の言葉を制御できず、つい口にしてしまったのだ。
「リリーなら……かつて一族に仕え、今は最果ての地へ引退した書架騎士、ロランの元に逃げ込むはずよ。あそこには、黄金の麦畑が広がっている……」
ヴァルガスはその言葉を聞いた瞬間、その狡猾な本性を覆い隠すように、満足げに一礼した。
「ありがとうございます、学園長。すぐに彼女を保護するための追手を向かわせます」
その言葉とともにヴァルガスは部屋を去った。だが、その追手はリリーを連れ戻すための救いの手などではなかった。エレアノールの「一言」は、追手を最果ての村へと確実に誘導する、非情な道標となってしまったのだ。
逃亡の果て、リリーは二度と戻らぬ人となった。自身が放った不用意な一言が、愛する娘を奈落の底へと導いてしまったという真実。それは、エレアノールが生涯抱え続ける、消えることのない後悔となった。
娘も、その幼い孫も、自身のせいで失ってしまったと、絶望の中で泣き崩れていた嵐の夜から数日後。
彼女の元に、極秘裏に一通の手紙が届けられた。それは、かつて書架騎士として仕え、今は逃亡者となったロランとミリアからのものだった。
便りには、あの激しい嵐の山道で、冷たくなったリリーの胸に抱かれながら、奇跡的に生き延びていた赤ん坊を救い出したことが記されていた。
ロランたちは、その子を「フィリーネ」と名付け、ただの農家の娘として、自分たちのすべてをかけて守り育てる決意を伝えてきたのだ。
「フィリーネ……」
孫が生きていた。その名前を初めて知らされた夜、エレアノールは白亜の学園長室で、声を上げて涙を流した。自身の犯した罪の深さを自覚しながらも、そのかすかな希望の灯火に、彼女は救われる思いがした。自身が近づけば、再び帝国の呪いがその子を巻き込んでしまう。だからこそ、エレアノールは孫の未来をロラン夫妻に託し、遠い最果ての地で静かに育つことを、ただ祈るしかなかった。
リリーが帰らぬ人となり、赤ん坊だったフィリーネがロランに救われてから、八年の歳月が流れた春、学園の白い門を、一人の幼い少女がくぐった。
学園の規定では、八歳というあまりにも幼い年齢での入学は、どのような例外をもってしても認められないはずだった。
だが、エレアノールは、その少女が纏う白銀の糸のような髪と、そこに宿る、かつての娘に重なる面影を見た瞬間、胸の鼓動が激しくなるのを感じた。
それは、かつてロラン夫妻がすべてをなげうってまもり抜いた、我が娘リリーの忘れ形見――フィリーネに他ならなかった。
学園長としての特例を用い、周囲の猛反対を退けて彼女を受け入れたのは、孫を自分の手元で見守りたいという、祖母としての純粋な愛情ゆえだった。
そして、その少女に付き添うようにして入学してきた、もう一人の若者がいた。
傷だらけの右手に包帯を巻き、自らの魔量をわずか「5」と偽って、最底辺のクラスへと身を沈めた、ゼノリス。
エレアノールは、かつて禁書の書庫で触れた古い術式の記述から、彼の中に眠る二つの相反する脈動――すべてを無にする破壊の力と、それをなだめるような守護の力について、誰よりもよく知っていた。
それらは、一つの器の中で激しく衝突し、いつ破裂してもおかしくない危うさを秘めている。だが同時に、その銀色の残響こそが、フィリーネの持つ強すぎる力の暴走を抑え込む、世界で唯一の手綱になることも見抜いていた。
だからこそ、エレアノールは二人を地下の暗い部屋から救い出し、太陽に一番近く、誰にも邪魔されないあの「旧時計塔」へと移したのだ。
二人をあの高い塔に囲い、お互いの存在を唯一の拠り所とさせること。
それこそが、最愛の孫をおぞましいさだめから遠ざけ、穏やかな日々を過ごさせるための、エレアノールが注いだ精一杯の愛情であり、同時に、いつか訪れるであろう終わりの時を先延ばしにするための、悲しい「鳥籠」でもあった。
しかし、おのれの用意したささやかな箱庭さえも、ルシオンという存在の目覚めによって、一瞬にして踏みにじられることになる。
ゼノリスたちが十六歳となり、学園を一度旅立ったのち、再び混乱の中で戻ってきたあの嵐の夜。
学園の防壁が粉々に打ち砕かれ、黒い霧が舞い、生徒たちの悲鳴が広場に響き渡る中、なぜ強力な魔導を誇る学園長は、その場に出てこなかったのか。
誰もが抱いていたその疑問の答えは、あの夜、白亜の学園長室の床で激しく悶え苦しんでいたエレアノールの姿そのものにあった。
ルシオンの目覚め、四魔将の放つ禍々しい気配が学園に接近したことで、エレアノールの魂の奥底に眠っていた精神拘束の呪い『帝国への殉従の契約』が、狂暴に活性化してしまったのだ。
脳を直接、錆びた針でかき乱されるような激痛。それは、彼女の意識を強引に引き裂き、容赦のない帝国の亡霊のささやきとなって脳裏に響き、彼女の身体を支配しようとした。
「星の種を時計塔から逃がすな。ルシオンの現世定着のため、いつか彼女の力を触媒にして、地底の巨大な魔導システムを稼働させよ。邪魔をする者は、四魔将に処分させるのだ」
絶え間なく繰り返される悪魔のささやき。
フィリーネを心から愛する「優しい祖母」としての想いと、己の肉体を無理やり動かそうとする「呪いに侵された帝国の亡霊」としての意思が、激しくせめぎ合う。
その引き裂かれるような激しいせめぎ合いは、彼女の魔力回路を内側から焼き切り、一歩を踏み出そうとするたびに、脳がちぎれるほどの苦痛を与えた。
彼女は、助けを求める彼らの元へ駆けつけるどころか、学園長室の床に両手をつき、ただ血を吐くような思いで耐えることしかできなかった。
見て見ぬふりをしたのではない。
内に巣食う二つの顔に苛まれ、ただ動くことすら叶わなかったのだ。
嵐が去り、あの日の喧騒が消え去った今も、その呪いの枷は、彼女の心を容赦なく締め付け続けている。エレアノールは、手元にある古いロケットを、指先が白くなるほど強く、強く握りしめた。
窓の向こう、夜霧に半分隠れた旧時計塔の輪郭を、じっと見つめる。
遥か南、熱砂の国で、運命の交差点に立ち向おうとしている若者たち。
瓦礫と化した鉄都市や、澱んだ大聖堂の地下を潜り抜けた彼らの歩みは、かつてよりも遥かに逞しく、その心音は澄んだ白銀の響きを湛えていた。
いずれ彼らがこの始まりの地へと戻り、新しい『音』を奏でるその時を、エレアノールの研ぎ澄まされた感覚は予感していた。
エレアノールは、ロケットを胸に抱き、静かに瞳を閉じた。
「進みなさい、ゼノリス。フィリーネ。……私は、愛する孫を慈しむ祖母として、そして二人を導いてきた師として、邪魔をせず道を譲るのか。それとも、帝国の亡霊として、あなたたちの前に立ち塞がるのか」
彼女の小さな呟きは、秋の夜風に吸い込まれ、静かに闇の中へと溶けていった。
白亜の学園を包む夜は、エンドロールが流れるように静かだった。
だがその静寂の奥では、世界を二分する最後の選択の時が、その歩みを進めていた。




