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星帝物語  作者: 藤堂 貴之
第7巻 黒炎の聖都と灰色の聖女

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第71章:真実の聖女と誓いのテラス

空へかえっていったイリスの光の粒子を見上げながら、星屑の騎士たちは、秋の柔らかな陽光が降り注ぐ大聖堂の跡地に立ち尽くしていた。

頭上には、吸い込まれるような澄み切った青がどこまでも高く広がっている。

セレスティアは、イリスの透き通った身体を必死に抱きしめていた両腕を自身の胸に押し当て、ただひたすらに天を仰いでいた。大きな青い瞳からとめどなく大粒の涙が頬を伝い落ち、足元の石畳に幾つもの染みを作っていく。

だが、彼女の唇から声が漏れることはもうなかった。彼女の胸の奥には、親友が最期に見せた、誇り高く満ち足りた微笑みが深く、そして鮮明に焼き付いている。

ずっと日陰を歩き続けてきた灰色の聖女が、最後にその命を燃やして切り開いてくれた明日。

二人が共に歩んできた灰色と黄金の軌跡は、決して消えることなく、この聖都の空に確かな希望の道筋として残されていた。


「……セレスティア」

フィリーネが傍らに歩み寄り、セレスティアの震える肩をそっと両手で包み込んだ。言葉はなくても、その小さな手から伝わる確かな温もりが、取り残された者たちの悲しみに優しく寄り添っていた。

テオは地面に大盾を置き、その横に胡座あぐらをかいて、両手で顔を覆って声を押し殺していた。彼がかつて振る舞った不揃いな木皿のスープを、誰よりも美味しいと笑ってくれた少女はもういない。泥だらけの指の隙間から、ぽたぽたと涙がこぼれ落ちる。

カシムは顔を背け、唇から血がにじむほど強く噛み締めながら、短い刃の柄を固く握りしめている。彼が放つ影すらも、今は主の悲しみに同調するように、床の上で小さく縮こまっていた。

ガイルは眼帯の下の右目を押さえて天を仰いだ。限界を超えて酷使した解析眼の痛みよりも、仲間をうしなった胸の痛みの方が遥かに彼をさいなんでいる。

リィンは吹き抜ける秋の風に吹かれながら、静かに目を閉じていた。彼女の頬を撫でる風の中に、今はもう幻惑の霧の気配はない。

エレナは、自らの銀色の長剣の柄にそっと手を添え、彼らの悲しみの輪を壊さぬよう、少し離れた場所でたたずんでいる。

ゼノリスは、大地に突き立てたままの黒い剣の柄からゆっくりと手を離した。彼の右手のひらの刻印は、熱を失い、穏やかな脈動だけを残している。

(イリス……。君が繋いでくれた明日を、僕たちは決して無駄にはしない)

彼は深く息を吸い込み、澄み切った秋の空気を肺の奥まで満たした。


 黒炎の呪縛が晴れた聖都では、異端審問の恐怖から逃れるために地下室や路地裏の木箱の陰に身を潜めていた人々が、恐る恐る外へと出てきていた。

彼らの目に映るのは、何年もの間空を覆っていた息の詰まるような暗雲でも、降り注ぐ死の灰でもない。どこまでも高く、澄み渡るような秋の青空だった。空気を支配していた焦げた匂いも、街の白亜の壁を汚していた汚れも、すべてがイリスの残した光の波紋と共に払拭されている。

「……空が、青い」

幼い子供を胸に抱きしめた母親が、震える声でつぶやいた。その一言を皮切りに、人々の間から、安堵あんど嗚咽おえつや互いの無事を喜び合う声が波のように広がり始める。

洗脳され、異端審問官として街を徘徊していた灰色の鎧の兵士たちも、その手から槍を取り落とし、自分たちが何を行っていたのかを悟ってその場に泣き崩れていた。

教皇の狂信と、灰の魔道士がもたらした恐怖の時代が、ついに終わりを告げたのだ。

街のあちこちで、人々が太陽の光を浴びて抱き合い、涙を流している。異端の烙印を恐れて下を向くことしか許されなかった彼らが、今は誰もが天を仰ぎ、差し込む陽光の温かさを全身で受け止めていた。

その平穏を取り戻すための代償は、若き戦士たちにとってあまりにも大きかった。だが、彼らが踏みしめる石畳には、イリスが命を懸けて繋いだ、未来への希望が力強く芽吹き始めていた。


 一方、その温かな光の届かない次元の底。

崩れかけた巨大な神殿の最奥に設えられた黒石の玉座で、虚無の王ルシオンの肉体が、突如として激しいノイズを走らせて大きくブレた。

「……チッ」

銀髪の男の口から、不快げな舌打ちが漏れる。彼を構成する魔力の輪郭が波打ち、空間がガラスを引っ掻くような耳障りな音を立ててゆがんだ。

「……第二のくさびが、ちりに還ったか」

ルシオンの低い声が、暗闇に響く。

玉座の階下に控えていたのは、古びた銀色の甲冑を纏う魔騎士ザガンと、かつての激戦の傷を癒やしきれていない巨体を隠すように立つ、狂戦士ガルヴァスであった。すでに鮮血の魔女ヴィオラと灰燼かいじんの魔道士ネビュロスは、この世に存在しない。

「ルシオン様、御身の具合は」

ザガンが深く首を垂れたまま、抑揚のない声で問う。

「……不快だ。現世のことわりが、私の存在を弾き出そうと絶え間なく圧力をかけてくる。楔を二つも失った今、この不完全な肉体を維持するだけでもひどく鬱陶うっとうしい」

ルシオンの漆黒の双眸が、苛立ちと怒りに染まる。次元の底から無理やり現世に這い出してきた彼にとって、大地の魔力を吸い上げて肉体を安定させるための『楔』は不可欠な命綱だった。それが二つも破壊されたことで、世界そのものが彼を異物として排除しようと猛烈な抵抗を始めているのだ。

「ネビュロスの奴め、たかが人間の集まりに足元をすくわれるとは」

ガルヴァスが、巨大な戦斧を床に突き立てて低くうなる。その衝撃で、周囲の空間がわずかにひび割れた。

「……あの者たちの中には、魔王の残響を宿す器がいる。彼らがこれ以上、私の世界を塗り替えるための計画を邪魔するのは許し難い」

ルシオンは玉座からゆっくりと立ち上がり、虚空をにらみつけた。彼が歩みを進めるたび、足元の石板がノイズに侵食されてボロボロと崩れ落ちる。

「星の種……。あの小娘の純粋な魔力と血肉さえあれば、このような脆弱ぜいじゃくな器に囚われることもなく、現世の理をすべて私の望むままに書き換えることができる。……何としても、あの娘を私の手元へ引きずり出せ。残る最後の楔が打ち込まれた地で、すべての決着をつける」

「御意のままに」

ガルヴァスが深く頭を下げる。

ザガンもまた無言で一礼したが、その兜の奥の瞳には、ルシオンの焦燥を観察するような、誰にも読めない光が宿っていた。

虚無の王の渇望が、次なる戦いの火種として、暗い次元の底で不気味に燃え上がっていた。



 イリスが光の粒子となって空へ還ってから、数日が過ぎていた。

大聖堂が崩壊した跡地では、国境から集まった職人たちや、異端審問の恐怖から解放された市民たちの手によって、少しずつ瓦礫の撤去が進められていた。白亜の石畳に散らばっていた黒い炎の煤や死の灰は、連日の秋風に払われ、今では大気そのものが洗い流されたように澄み渡っている。

人々が互いに声を掛け合い、崩れた石材を一丸となって運び出す姿が、そこかしこに見られた。かつて暗い影に閉ざされていた彼らの瞳には、差し込む陽光を真っ直ぐに見上げる力強さが戻っている。

「……随分と、街が落ち着いてきたね」

旧市街の宿『孤月亭』のテラスから、眼下に広がる聖都の様子を眺めながら、テオが呟いた。彼は背負っていた大盾を足元に置き、大きな手のひらで、陽光を浴びて温まった欄干をそっと撫でる。

「ええ。教皇の歪んだ支配が消え、人々が自らの足で歩き始めようとしています」

フィリーネが、ゼノリスの隣で穏やかに微笑んだ。彼女の銀色の髪は秋の柔らかな光を吸い込んで透き通るように輝き、その佇まいには、過酷な死闘を潜り抜けてきた者だけが持つ誇りが満ちていた。

テラスには、星屑の騎士たちの姿が揃っていた。

ガイルは柱に背を預け、右目の眼帯の下を指先で軽く押さえながら、静かに街の流れを観測している。カシムは影に潜むのをやめ、実体として手すりに腰を掛け、退屈そうに短剣を回していた。リィンはセレスティアが握りしめる白銀の聖杖を見つめ、その周囲に満ちる微かな魔力のなぎを肌で感じ取りながら、自らの銀色の羽衣の端をそっと指先で整えた。エレナは一歩下がった柱の影で腕を組み、顔も名も知らぬ父親から受け継いだ銀の長剣の柄にそっと指先を滑らせながら、張り詰めた面持ちで佇むセレスティアの横顔を、一人の剣士の眼差しで見つめていた。

セレスティアは一人、大聖堂の跡地を見つめて佇んでいた。彼女が纏う白亜の法衣は、旅の汚れをきれいに落とされ、朝の光の中で神々しいまでの清らかさを放っている。


「みんな。……少し、私の話を聞いてくれるかしら」


セレスティアがゆっくりと振り返り、透き通るような青い瞳で仲間たちを一人ひとり見つめた。 全員の視線が、彼女の元へと集まる。ゼノリスもまた、黒い剣をテーブルに置き、彼女の真っ直ぐな眼差しを受け止めた。


ガイルは柱に背を預け、右目の眼帯の下を指先で軽く押さえながら、静かに街の流れを観測している。カシムは影に潜むのをやめ、実体として手すりに腰を掛け、退屈そうに短剣を回していた。リィンはセレスティアが握りしめる白銀の聖杖を見つめ、その周囲に満ちる微かな魔力のなぎを肌で感じ取りながら、自らの銀色の羽衣の端をそっと指先で整えた。エレナは一歩下がった柱の影で腕を組み、顔も名も知らぬ父親から受け継いだ銀の長剣の柄にそっと指先を滑らせながら、張り詰めた面持ちで佇むセレスティアの横顔を、一人の剣士の眼差しで見つめていた。


「私は、このサンクトゥス聖教国に残るわ」

その一言は、穏やかに、しかし戻ることのない矢のように、テラスの空気を震わせた。


「……残るって、セレスティア。僕たちと一緒に、次の場所へは行かないのかい?」

テオが耳をピクリと動かし、信じられないといった様子で声を上げる。


「ええ。私はここに残り、教会の新たな導き手となって、この国を正しく立て直す決意をしたの。……イリスがその命を懸けて、最後に繋ぎ止めてくれたこの故郷を、私はこのまま置いていくことはできないわ」

セレスティアは、白銀の聖杖を愛おしむようにそっとで、それから決意を込めるように強く握りしめた。

「歪んだ信仰に囚われた教皇は去ったわ。だけど、人々の心に残った傷や、教会の腐敗した仕組みそのものが消え去ったわけではないの。……誰かがここに残り、誰もが怯えずに、ただ純粋な想いで祈りを捧げられる、本当の光の都を取り戻さなければならないのよ」


彼女の決意は、衝動的なものではなかった。数日間の葛藤の末、自らのルーツと、亡き友への誓いの上に築き上げた、気高い答えだった。


「……セレスティア。本気なのね」

フィリーネが前に進み出た。フィリーネの瞳には、寂しさと、セレスティアの尊い決意に対する、深い敬意が宿っていた。


「ええ、フィリーネ。……イリスがその生き様をもって、私に教えてくれたの。自分の意志で立ち、大切なものを最後まで守り抜くことの本当の美しさを。……だから私は、私の戦場をこの場所に定めたのよ」


「そうね、セレスティア。私も……もうお兄様の背中に隠れて、ただ守られているだけの存在じゃないもの。あなたが決めたその気高い道を、寂しいけれど、心から誇りに思うわ」


二人の視線が交差する。そこには、言葉を超えた強い絆が結ばれていた。イリスの死という深い悲しみを乗り越え、彼女の死を無駄にしないために、自らの人生をこの国に捧げる。その過酷な道を、セレスティアは自ら進んで選んだのだ。


「……フン。相変わらず、お堅い聖女様だな」

ガイルが、視線を窓の外へ向けたまま、不敵に口角を上げた。

「お前がいなくなれば、俺たちのパーティーの防御陣形は、著しく計算が狂う。……だが、お前が決めたことだ。俺の解析眼をもってしても、その頑固な決意を覆す計算式は弾き出せそうにないな」


「ありがとう、ガイル。貴方のその捻くれた祝福、大切に受け取っておくわ」

セレスティアが、クスリと柔らかく微笑む。


「……俺も、お前のそのお節介な光には、何度も助けられたからな」

カシムが短剣を鞘に収め、ぽつりと漏らした。

「影の中にまで届く、鬱陶しいほどに真っ直ぐな光だった。……だが、この暗い街を照らすには、それくらい眩しい方がお似合いだぜ」


「ええ、セレスティア。あなたの行く先に、いつも精霊の風が味方してくれることを祈っているわ」

リィンもまた、小さく頷き、風に遊ばれる銀色の羽衣をそっと撫でた。


別れの寂しさは、テラスを埋め尽くしていた。しかし、そこには悲壮感は微塵もなかった。それぞれが自らの戦いを経て、一人の戦士として成長したからこそ、彼女の気高い旅立ちを、全員が誇らしげに見送ろうとしていたのだ。


ゼノリスは、一歩前に歩み出て、セレスティアの前に立った。

「……セレスティア。君が決めた道なら、僕はそれを全力で応援する。君の光は、僕たち『星屑の軍団ステラ・レギオン』にとっても、かけがえのない希望だった。……ここで君が奏でる新しい音を、僕は世界のどこにいても、ずっと聴き続けているよ」


「ゼノリス君……」

セレスティアは、ゼノリスの黄金と闇の双眸を、その大きな瞳で見つめ返した。彼女の指先が、聖杖の表面を愛おしそうになぞる。

「……ありがとう。貴方のその言葉が、私のこれからの歩みを支える、最高の魔法になるわ」


彼女の選んだ道は、決して平坦なものではない。教会の再建、八ヵ国連合との対峙、そして人々の心の復興。だが、彼女の瞳には、どんな不協和音にも呑まれない、真実の光が灯っていた。


窓から差し込む、少し傾き始めた午後の陽光が、食堂にたたずむ彼らの姿を、長く、美しく石畳に描き出していく。

「ステラ・レギオン」の調律者と、聖教国の新たな聖女。彼らの軌跡はここで一度分かれるが、彼らが心に灯した「消えない炎」は、世界がどれほど深い闇に沈もうとも、静かに燃え続ける。別離の時は、彼らがそれぞれの戦場で自らの音を刻み、いつか再び大きな共鳴を奏でる日を信じるための、厳かで尊いプロローグの終わりを告げていた。



セレスティアの旅立ちを誇らしく見送る言葉が静かに風に溶け、テラスには若者たちの晴れやかな笑顔だけが残されていた。それぞれが過酷な戦いを経て、一人の戦士として成長したからこそ、彼女の尊い決意を、誰もが迷いなく受け入れることができたのだ。


その穏やかな余韻の中に、壁の影で静かに佇んでいたエレナが、一歩を真っ直ぐに踏み出した。彼女は腰に提げた装飾のない長剣の柄にそっと手を添え、ゆっくりとゼノリスたちの前へ歩み出た。

「ゼノリス。……私も、あなたたちの仲間に加えてほしい」

唐突な申し出に、カシムは無言で腰を落とし、ガイルは眼帯の端へそっと指先をあてた。しかし、エレナは彼らの警戒を受け止めるように、声を震わせることなく、胸の奥に秘めていた切実な真実を語り始めた。


「私の探している父親は、おそらく……敵側の騎士だ」

若者たちの間に、動揺が走る。だが、エレナは真っ直ぐにゼノリスを見つめ続けた。

「けれど、私はあの人のためにこの剣を振るうわけじゃない。私は私自身の意志で、大切なものを守るためにこの力を手に入れた。母がその歩みを終える最期の瞬間まで信じ、私に託してくれた、この銀の刃の誇りを、これ以上あの底知れぬ闇に汚させはしない」

彼女の瞳に宿る、一人の気高き戦士としての光。

ゼノリスは彼女の前に立ち、迷いなく右手を差し出した。

「歓迎するよ、エレナ。君が背中を預けてくれるなら、僕たちはもう、どんな暗闇でも迷わない。僕たちの本当の仲間として、一緒に行こう」

エレナは微かに唇を綻ばせ、差し出されたゼノリスの手を、自らの傷だらけの手で力強く握りしめた。若き戦士たちが交わした新たな誓いの熱が、吹き抜ける秋風の厳しさを和らげていった。



ルサルカ海洋公国の西端に位置する王立造船ドックでは、激しい金属を打つ音が連日のように響き渡っていた。ここは、国中のあらゆる海の技術が集まる場所だ。

ルカスは、煤と機械油で汚れた作業用の革手袋をはめ、巨大な魔導回路の調整に没頭していた。その隣では、ナディアが黄金の羅針盤の動きを確認しながら、船の心臓部となる計器の数値を注意深く精査している。


「ルカス、ナディア。二人宛に手紙が届いたよ」

造船所の職人が、一通の少し擦り切れた封筒を持ってきた。

「手紙?」

「ゼノリスからだ。通信機を持たせてあるのになぁ」

 ルカスは苦笑しながら、テーブルの上でその手紙を広げた。ナディアものぞき込む。


手紙を読み始めてすぐに、二人の表情は固まった。

そこに書かれていたのは、聖教国での激しい戦いの記録。そして、彼らの大切な仲間イリスが、自らの存在のすべてを燃やし尽くして光の粒子となって消え去ってしまったという、あまりにも悲しい真実だった。


「……嘘……」

ナディアは手紙を握りしめ、その青い瞳から大粒の涙をぼろぼろとこぼした。

学園の屋根裏部屋で、不器用ながらも一緒にスープを囲み、同じ時間を過ごした仲間。誰よりも優しい心を持っていた少女が、仲間たちを救うために自らの命を差し出して逝ってしまった。その事実が、彼女の胸を激しく掻きむしった。


ルカスは、分厚い眼鏡の位置を指先で何度も押し上げながら、言葉を失って俯いていた。

「……僕の、技術不足だ。あの時、僕がもっと頑丈な防衛システムを組めていれば、船が墜ちることもなく、イリスがそんな無茶な魔法を使う必要もなかったんだ……」

ルカスの声は、激しい悔しさと、自らの無力さへの怒りで小刻みに震えていた。


だが、彼はそのまま涙に沈むことはしなかった。

ルカスは、機械油に汚れた手で、テーブルの上の新しい船の設計図を強く叩きつけた。

「ナディア。泣いている暇はない。イリスがその身を投げ出して繋ぎ止めてくれた道を、僕たちがここで途切れさせるわけにはいかない」

ルカスは、涙で曇った眼鏡を強く押し上げ、その瞳の奥に、悔しさを力へと変える確かな覚悟を宿した。

「造り上げるんだ。あの虚無の王の力にも、決して壊されない、沈まない最高の船を!」

「……ええ。ルカスの言う通りよ」

ナディアは涙を強く拭い、腰の黄金の羅針盤を胸元で握りしめた。

「どんなに深い暗闇が海を覆い尽くそうとも、私たちのこの船が、必ずみんなを正しい道へと導いてみせるわ。イリスの祈りを乗せて、どこまでも飛んでいく最高の船を、私たちの手で完成させるのよ!」


ドックの奥で、再び激しい金属を打つ音が、世界を包む不協和音をかき消すように高らかに響き渡った。

火花が散り、新しい船の巨大な竜骨りゅうこつが、朝陽を浴びて鈍色の輝きを放ち始める。

それは、旅立っていった友への哀悼と、それでも未来を諦めない若者たちの、決して消えることのない不滅の『残響エコー』であった。

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