第56章:重なる面影と届かない刃
上空で操縦者を失った飛竜や飛行艇の残骸が、次々と王都の美しい石畳へと墜落していく。凄惨な同士討ちがもたらした炎と黒煙が街を包み込む中、広場の端に向けて、火ダルマとなった中型の飛行艇が猛スピードで落下していった。
その軌道の先には、襲撃の直前にガイルが避難させた記憶喪失の若者――セトを匿っている古い小屋があった。
「しまっ……!」
地上で住民の避難を誘導していたガイルが叫ぶより早く、飛行艇の残骸が小屋へと激突する。
しかし、激しい爆発音とともに立ち上った黒煙を切り裂き、青白い魔力の光が強烈に瞬いた。ガイルが事前に幾重にも張り巡らせていた防護障壁が、墜落の衝撃を真正面から受け止め、残骸を見事に弾き飛ばしたのだ。
だが、その強固な魔力の閃光は、血の霧に覆われた暗い街の中で、あまりにも明確な「抵抗の証」として目立ちすぎていた。
「……あら?」
上空で騎士たちの狂宴を見下ろしていたヴィオラの視線が、その青白い光へと引き寄せられる。彼女が街全体に満たした霧をすべて弾き返し、拒絶するその防御魔法は、ヴィオラにとってひどく不快だった。
「私の美しい霧の中で、あんな目障りな光を放つネズミがいるなんて。……許せないわね。その生意気な殻ごと、真っ赤に塗り潰してあげる」
ヴィオラは不快げに目を細めると、赤い唇を歪めた。彼女の指先から、粘り気のある真紅の血が何本もの鋭い鞭となって地上へ放たれる。
血の鞭は空気を切り裂き、墜落の衝撃で魔力波長が乱れていたガイルの防護障壁へ正確に打ち込まれた。
ガラスが粉々に砕け散るような甲高い音が響き、青白い結界があっさりと崩壊する。
「なっ……俺の障壁が!」
ガイルが血相を変え、広場から駆け出す。
防壁を失った小屋は血の鞭の余波を受けて吹き飛び、中に匿われていた若者が、石壁の瓦礫と共に外へ放り出された。
「うわぁっ!」
若者は冷たい石畳を転がり、激しく咳き込む。
ヴィオラは冷酷に指を動かした。一本の血の刃が、倒れ込んで身動きの取れない若者の心臓を真っ直ぐに貫こうと迫る。
刃が迫る。
死の恐怖が、若者の全身を氷のように縛り付けた。呼吸が止まり、眼前に迫る真紅の刃が、ひどくゆっくりと引き伸ばされて見える。
その瞬間、彼の脳裏を厚く覆っていた記憶の霧が、ひび割れるように崩れ去った。
――赤い炎。
あの日も、視界はすべて真っ赤な炎に染まっていた。
ドロモス中央山岳王国に代々続く、名門貴族の美しい屋敷。
燃え落ちるタペストリー。煙が充満する廊下。そして、理不尽な陰謀によって差し向けられた追っ手の凶刃に倒れ伏した、父と母の姿。
『逃げろ! 振り返るな!』
血を吐きながら叫ぶ父の声。
自分を抱え、泥だらけの夜の森を必死に走る少年の背中。
冷たい雨が降り注ぎ、体温を容赦なく奪っていく中、私兵の放った火炎魔法が二人の足元で弾けた。
凄まじい爆風に吹き飛ばされ、地面に叩きつけられた自分が、雨に濡れた崖の縁から暗い谷底へと滑り落ちていく。
その最後の瞬間、自分だけを助けようと、泥だらけの崖の上から必死に腕を伸ばしてきた少年の顔。
ボサボサの茶髪。負傷して血を流す右目。涙でぐしゃぐしゃになりながら、自分の名前を絶叫していた顔。
互いの指先がわずかに触れ、しかし無情にもすり抜けて、谷底の深い闇へと落ちていく中で、自分は確かに彼を呼んだのだ。
『兄さん……!』
その悲痛な顔は、襲撃の直前に市場で自分を庇い、優しい手でこの小屋へ隠してくれた人物の顔と、重なり合った。
「……兄、さん?」
若者の目から、せき止めていたものが決壊したように大粒の涙が溢れ出した。
失われていた過去が、鮮明な色彩と痛みを伴って蘇る。
自分は、一人ではなかった。名前すら忘れて市場を彷徨っていた自分の本当の名前は「セト」。そして、自分には帰るべき場所と、命を懸けて自分を愛してくれた兄がいたのだ。
「……セトォォォッ!!」
広場の空気を切り裂くような、悲痛な絶叫が響いた。
ガイルだった。彼は右目を覆う眼帯の下から青白い火花を散らしながら、常人を遥かに超える踏み込みで石畳を砕き、迫り来る血の刃の前に自らの身を投げ出していた。
あの日、暗い崖の縁で繋ぐことのできなかった弟の手。
自分の指先から弟がすり抜けていったあの瞬間の映像が、彼をずっと苛み続けてきた。もう二度と、あんな後悔はしない。その執念が、彼に限界を超えた速度を与えていた。
「ガイル!」
広場に降り注ぐ瓦礫や、正気を失って襲いかかってくる騎士たちを最前線で食い止めていたゼノリスが、血相を変えて手を伸ばす。だが、彼とガイルの間には十数メートルの空間が空いており、その凶刃に割って入るには遠すぎた
血の刃が、セトを庇うように飛び込んだガイルの背中を、無慈悲に、そして深く切り裂く。
「がはっ……!」
ガイルが大量の血を吐き、セトの上に崩れ落ちる。
「兄さん! 兄さん!」
セトは、自分を庇って倒れたガイルの身体にすがりつき、泣き叫んだ。記憶を取り戻したばかりの彼にとって、ようやく再会できた兄を再び自分の目の前で失う恐怖は、何よりも大きかった。
「……無事、か……セト」
ガイルは背中の激痛に顔を歪めながらも、震える手で弟の涙に濡れた頬をそっと拭った。ガイルの目にも、安堵の涙が浮かんでいた。
あの日、深い闇の中へ消えていった小さな身体を、今度こそこの腕に抱きしめることができたのだ。
「……よかった、本当に……」
ガイルの言葉は弱々しかったが、そこには長年の呪縛から解放されたような、静かな温もりがあった。
「感動の再会ね。でも、二人まとめて消えなさい」
上空のヴィオラが冷酷な視線を落とし、彼らを確実に葬るためのさらなる血の刃の雨を降らせようとする。
「……やらせるか!」
ゼノリスが二人の前に立ち塞がり、黒い剣に白銀の閃刃を纏わせた。
カシムが即座に駆け寄って広範囲の影を展開し、リィンが愛刀を抜いて鋭い風の壁を作る。フィリーネとイリスもまた、ガイルたちの傷を癒やすべく魔力を練り上げる。
凄惨な同士討ちによって空中騎士団が壊滅状態に陥る中、星屑の騎士たちの闘志は決して濁ることはなかった。
理不尽な悪意を前に、彼らは一歩も退かずに武器を構える。
「ゼノリス、お前は二人を守れ! ここは俺たちが押し通る!」
背後から地を蹴る鋭い音が響き、三つの影がゼノリスを追い抜いて広場を駆け抜けた。
漆黒の大盾を構えたテオ、足元の影に溶け込むカシム、そして愛刀を構えたリィンだ。
星屑の騎士たちの前衛を担う三人は、上空で冷酷に微笑むヴィオラに向けて迷いなく肉薄していく。
彼らはこれまで数々の死線を乗り越えてきた。骨を軋ませた『忘却の監獄』の重力罠、人の命を燃料としたギルダーの機械化兵団、そして霧の回廊の魔獣たち。その過酷な経験が彼らの動きに一切の無駄をなくし、呼吸を合わせた無言の連携を生み出していた。
「まずは俺の盾を越えてみろ!」
テオが獣の咆哮を上げ、大地を力強く踏み砕いた。彼の太い腕は獣化に伴う剛力を宿し、ヴィオラの攻撃を一身に引き受けるように、巨大な盾を構えて突き進む。ギルダーの機械化兵団の猛攻すら弾き返したこの盾なら、どんな攻撃でも受け止められるはずだった。
だが、ヴィオラは赤い唇を妖艶に釣り上げたまま、細い指先を優雅に振るった。
「元気な盾ね。でも、そんながむしゃらな足取りで、どこまで歩けるかしら?」
彼女の指先から、真紅の血が何十本もの鋭い鞭となって、テオの行く手を阻むように降り注ぐ。テオは盾を斜めに構え、降り注ぐ血の鞭を次々と弾き飛ばした。
しかし、弾かれた血の鞭は消えることなく、まるで意志を持った蛇のように盾の裏側へと回り込み、テオの腕や足に深く絡みついていく。
「がっ……! なんだ、この重さは……!」
テオの顔が苦痛に歪む。血の鞭は、ただ身体を縛り付けるだけでなく、彼の体力を直接奪っていくような、ねっとりとした気味の悪い冷たさを持っていた。獣化の力で強引に引き剥がそうとするが、鞭はどこまでも粘り強く、彼をその場に縫い留めてしまう。
「テオ、無理をするな! 影縫い!」
テオが足止めされた死角から、カシムが音もなく飛び出した。
彼は自らの影を広場の石畳に這わせ、ヴィオラの足元へと真っ直ぐに伸ばした。音もなく這い寄るその影は、命を刈り取る暗殺者の刃のように冷たく研ぎ澄まされていた。忘却の監獄の闇すら操ったその黒い刃が、ヴィオラのドレスの裾を狙い、その動きを縛り付けようと迫る。
「あら、ネズミの悪戯かしら」
ヴィオラは冷ややかな声で呟くと、自らの足元に真紅の血の沼を展開した。
カシムの放った影の刃が、その沼に触れた瞬間。
ジュッ、という不快な音とともに、影が音もなく溶かされていく。
「俺の影が……溶かされただと!?」
カシムが血相を変える。光さえも沈み込ませるはずの彼の影が、ヴィオラの操る血の魔力の前では、薄い氷のように脆く崩れ去った。ヴィオラから放たれる魔力の波長が、この世界の法則そのものを根本から捻じ曲げているのだ。影を伝って不気味な冷気がカシムの足元まで逆流し、彼は舌打ちをして慌てて影を切り離した。
「風よ、断ち切れ!」
カシムの影が消えゆく隙を突き、リィンが上空のヴィオラへと跳躍した。
彼女の背中には、東方の遺産である銀色の羽衣が淡い光を帯びて揺らいでいる。霧の回廊で一族の誇りを取り戻したその手で、愛刀の折れた刃からエメラルド色の風の刀身を作り出し、空間そのものを斬り裂くような神速の一撃、「秘剣・疾風」を放つ。
風の刃が空気を切り裂き、ヴィオラの細い首元へと迫る。その軌道は寸分の狂いもなく、鋭く研ぎ澄まされていた。
だが……。
ガィィィンッ!
高い金属音が響き渡り、リィンの風の刃は、ヴィオラの目の前でピタリと停止した。
ヴィオラの周囲に、薄く、しかし強固な血の障壁が展開されていたのだ。
「……そんな」
リィンの瞳が驚愕に見開かれる。彼女の全霊を込めた一撃は、ヴィオラの張った血の障壁の表面にわずかな波紋を起こしただけで、傷一つ付けることができなかった。
「綺麗な風ね。でも、冷たすぎるわ。私の血で温めてあげる」
ヴィオラが甘く囁くように微笑むと、障壁から無数の血の針がリィンに向けて放たれた。
「くっ!」
リィンは咄嗟に羽衣で身を包み、風の力で後方へと大きく跳び退く。だが、避けきれなかった針が彼女の肩や頬を掠め、赤い血が空中に散る。石畳に降り立ったリィンは、肩の痛みに顔をしかめながら、信じられないというようにヴィオラを睨みつけた。
「これが……魔将の力」
カシムが息を荒くし、震える拳を握りしめる。
彼らはこれまで、数々の試練を乗り越え、自分たちの力に確かな手応えを感じていた。学園の地下で古代の防衛機構を突破し、ギルダーの狂った抽出システムを打ち砕いた。死線を越えて掴み取った自分たちの力は、この世界を縛る鎖を断ち切れると信じていた。
しかし、目の前の女は違う。
ルシオンという底知れぬ力に仕える幹部。その力は、彼らがこれまで相手にしてきたどの敵とも、次元が異なっていた。どれほど鋭い刃を放とうと、どれほど巧妙に影を操ろうと、彼女の展開する血の霧と障壁の前では、手も足も出ない。
「俺たちの攻撃が、まるで通じない……。どうすればいいんだ」
テオが盾を構えたまま、悔しげに唇を噛む。
圧倒的な力の差。己の力不足。
星屑の騎士たちの心に、どうすることもできない悔しさが重くのしかかる。
「ふふっ。いい顔になってきたわね。自分の弱さを思い知る時の、その絶望の顔……とても美しいわ」
ヴィオラは恍惚とした表情で赤い唇を舐めた。彼女の視線が、膝をつくカシムやテオ、そして肩を押さえるリィンを舐め回す。
だが、その視線はすぐに彼らから外れ、広場の奥へと向けられた。
「でも、少し退屈してきたわ。貴方たちを壊す前に、もっと面白いものを見せてあげる」
ヴィオラの視線の先。
そこには、ブレーゼ西方高原王国の広場の一角で、修理のために停泊していた銀色の魔導船、エトワール号の姿があった。
ルサルカで託され、彼らの旅の拠点として共に空を駆けてきた大切な船だ。ルカスが学園の地下動力室から持ち出した純度の高い魔石を用いて修繕し、ナディアが羅針盤で導いてきた、彼らの冒険を支える希望の象徴。
「あの目障りな船……。貴方たちの希望ごと、私の血の海へ沈めてあげるわ」
「やめろ!」
ゼノリスが叫び、黒い剣を構えて駆け出す。
テオも盾を放り捨て、カシムも影を限界まで伸ばしてエトワール号を守ろうとする。リィンも痛む肩を押して風の刃を放つ。
だが、彼らの動きよりも、ヴィオラの魔法の方が遥かに速かった。
彼女が両手を天に掲げると、空を覆っていた血の霧が急速に渦を巻き、頭上に巨大な真紅の槍を形成していく。それは、彼らがこれまで見てきたどんな魔法とも違う、すべてを消し去る力だった。
「さようなら、ネズミのおもちゃ」
ヴィオラが指先を振り下ろす。
真紅の槍が、空気を切り裂くような甲高い音を立てて、一直線にエトワール号へと放たれた。
「私たちの船が……っ!」
ナディアの悲痛な叫びが広場に響く。
ルカスも信じられないものを見るように目を見開いた。
星屑の騎士たちが伸ばした手は、誰一人として間に合わなかった。
巨大な血の槍が、エトワール号の銀色の船体に真正面から突き刺さる。
ドゴォォォォンッ!!
腹の底を揺さぶるような爆発音が轟き、強烈な衝撃波が広場全体を吹き荒れた。
血の槍はエトワール号の強固な魔導装甲を容赦なく貫き、船の心臓部である魔導機関を内部から破壊した。船体の中央から、激しい炎と黒煙が立ち上がる。
銀色の帆は引き裂かれ、美しかった船体は無残に歪み、石畳の上に重々しい音を立てて崩れ落ちた。
「嘘……私たちの、船が……」
フィリーネが杖を取り落とし、両手で口元を覆う。
幾多の嵐を乗り越え、彼らの家でもあったエトワール号。
それが今、目の前で修復困難なほどの深刻なダメージを負い、ただの鉄屑となって燃え上がっていた。
「……あぁ……」
テオがその場に膝をつき、燃え盛る船を呆然と見つめた。
カシムも、リィンも、言葉を失い、ただ立ち尽くすことしかできない。
己の刃が届かない無力感。
そして、帰るべき場所を目の前で奪われた、胸が張り裂けるような喪失感。
焦燥と無力感が、呼吸を奪うように彼らの心を締め付けていく。
「フフフ……アハハハハッ! 素晴らしいわ! その顔、その響き!」
ヴィオラの狂気じみた笑い声が、炎の爆ぜる音とともに広場に響き渡る。
星屑の騎士たちは、ただ地に膝をつき、為す術もなく燃えゆく自分たちの船を見つめることしかできなかった。




