第55章:空の騎士団と蠱惑(こわく)の血霧
エトワール号が傷を癒やすブレーゼの王都は、高地特有の澄み切った空気に包まれ、今日も行き交う人々の活気に満ちていた。
だが、ガイルの心は、峡谷を吹き抜ける清涼な風をもってしても晴れることはなかった。
市場で見かけた、虚ろな目をして硬いパンをかじっていた若者。彼が落としていた深い孤独の影が、どうしても頭から離れないのだ。
(……ただの他人の空似だ。あいつが生きているはずがない)
そう自分に言い聞かせるたびに、あの日、崩れゆく屋敷の炎の中で離れてしまった弟の、小さな手の感触が蘇る。
あの絶望の向こう側に消えた弟、セト。
(生きているはずがない。この戦乱の大陸で、過去を失った人間などいくらでもいる)
ガイルは深く息を吐き出し、胸の奥の雑念を振り払うように頭を振った。だが、彼の足は無意識のうちに、市場の商人から聞き出した若者の住処へと向かっていた。
王都の中心部から遠く離れた、断崖の際。風を遮るものすらない吹きさらしの荒地に、継ぎ接ぎの廃材と破れた布で作られた粗末な小屋がひっそりと建っていた。
ガイルが身を屈めてその薄暗い小屋の中に入ると、そこには薄い毛布に包まり、冷たい土の床で膝を抱えて座る若者の姿があった。
「……お前」
ガイルが短く声をかけると、若者はゆっくりと顔を上げた。市場で出会った時と同じ、感情の揺らぎが一切読み取れない焦点の定まらない瞳。
「……市場で、見ていた人」
若者の声は、長年まともに声を出していなかったかのように掠れ、砂を噛むように乾いていた。
「こんな場所で、何をしている」
「……ここが、私の場所だから」
淡々と答える若者に対し、ガイルは一歩踏み込んだ。右目の眼帯の下、解析眼が微かな魔力の波長を探ろうと疼く。だが、若者の深層には分厚い霧のようなものがかかり、過去への扉が固く閉ざされていることだけしか読み取れなかった。
「お前の名前は、なんだ。どこから来た」
ガイルの真っ直ぐな問いに、若者は視線を再び床へと落とした。
「……名前。……わからない」
「わからないだと? 自分の名前だぞ」
「……気づいた時には、この国の裏路地に倒れていた。自分が誰なのか、どこから来て、なぜ生きているのか、何も思い出せない。……覚えているのは、ただ……」
若者の声が微かに震え、自らの細い腕を無意識に強く掻きむしった。
「……熱い炎と、血の匂い。誰かが私の名前を叫んでいる声。それだけが、夜になるたびに頭の中で燃え上がるんだ」
ガイルの呼吸が止まった。
炎と血の匂い。そして、誰かが名前を叫ぶ声。
それは、ドロモスの屋敷が崩れ落ちたあの夜の記憶とあまりにも符合している。ガイルの胸の中で、強固に押さえ込んでいた期待と恐怖が入り混じり、激しく渦を巻いた。
(偶然だ。……そうに決まっている)
ガイルは自身に言い聞かせるように、深く息を吐き出した。だが、目の前で記憶の炎に怯え、小さく身を縮める若者の姿を、どうしても見捨てることはできなかった。
「……思い出せるまで、生き延びろ」
ガイルは持参した携帯食料と水筒を、若者の足元に無造作に置いた。
「こんなところで凍えて死ぬのが、お前の望みじゃないはずだ。……食え」
若者は置かれた食料を不思議そうに見つめ、やがてゆっくりと震える手を伸ばした。
その時だった。
空気が、異様な湿り気を帯びた。
高原の街を吹き抜けていた清涼な風がピタリと止み、代わりに甘くむせ返るような、濃密な血の匂いが鼻腔を突いた。
「……なんだ、この魔力は!」
ガイルが弾かれたように小屋の外へ飛び出す。
見上げた空は、先ほどまでの澄み切った青空が嘘のように、不気味な赤黒い色へと染まり始めていた。太陽の光を遮るように、空から細かい霧状の液体が降り注いでくる。
『血の霧』だ。
霧が枯れた草に触れると、シューッと音を立てて嫌な煙を上げる。
「ひっ……!」
若者が怯えた声を上げ、ガイルは即座に彼を背後へ庇った。
「外に出るな! この霧は異常だ!」
ガイルの解析眼が捉えた波長は、触れるだけで思考を濁らせるような、精神干渉の波長だった。この霧を吸い込めば、理性を溶かされ、幻覚と狂気に支配されて同士討ちを始める。
上空、赤く染まった雲の切れ間から、ゆっくりと降下してくる一つの影があった。
露出の多い紫黒のドレスを翻し、妖艶な笑みを浮かべる鮮血の魔女ヴィオラ。彼女の白い肌からは甘い香りが漂い、指先からは生き物のように蠢く真紅の血がポタポタと滴り落ちている。
「フフフ……。見つけたわ、忌まわしい星屑ども」
ヴィオラの声は、甘く囁くようでありながら、都市全体に響き渡る死の宣告として染み渡った。
「虚無の王の御心を煩わせた罪、この街ごと極上の絶望で染め上げて贖わせてあげるわ」
街の中心部では、異変を察知したゼノリスたちがすでに迎撃の態勢を整えていた。
「空が……血の色に染まっているわ!」
停泊中のエトワール号の甲板で、ナディアが羅針盤を構えて叫ぶ。針は狂ったように上空のヴィオラを指し示している。
「魔将ヴィオラだ! あの霧を吸い込んじゃダメだ、正気を奪われるぞ!」
カシムが影の中から飛び出し、周囲でパニックに陥り始めた住民たちに避難を呼びかける。
「テオ、カシム、住民の誘導を急いでくれ! リィン、セレスティア、イリスは僕と一緒に前線へ出る!」
ゼノリスは黒い剣を抜き放ち、白銀の閃刃を纏わせた。彼の指示に、星屑の騎士たちが素早く散開する。ルカスとフィリーネは、エトワール号の結界を最大出力まで引き上げ、周囲の広場を安全地帯として確保する。
「……空を血で染めようと、僕たちの光は濁らない。その悪意、ここで断ち切る」
ゼノリスが上空のヴィオラを真っ直ぐに睨み据えた。
同時刻、王宮の方角からは、街の防衛を告げるけたたましいサイレンが鳴り響いていた。
事態を重く見た風の王ゼフィールの命により、ブレーゼ西方高原王国が誇る『空中騎士団』が出撃の準備を整えている。無数の飛行艇のエンジン音が空を震わせ、上空の脅威を包囲すべく迎撃の陣形が組まれようとしていた。
だが、ヴィオラの蠱惑的な笑みは微塵も揺るがない。
「無駄な足掻きね。私のかわいい霧の中で、人間どもがどこまで自我を保てるかしら?」
ヴィオラが腕を振り下ろすと、血の霧はさらに濃度を増し、街全体を凄惨な狂気の渦へと引きずり込もうと拡散していく。
街の外れで、ガイルは若者を小屋の奥へと押し込み、入り口に解析の魔力を応用した簡易的な防護障壁を展開した。
「……ここでじっとしていろ。俺が戻るまで、何があっても外へ出るな」
ガイルが背を向けると、若者が震える手で彼の袖を掴んだ。
「あんたは……どこへ行くんだ」
「俺は、仲間が待つ場所へ行く。……必ず戻ってくるから、生き延びろ」
ガイルは若者の手をそっと外し、解析眼を限界まで光らせて、血の霧が立ち込める戦場へと地を蹴った。エトワール号の仲間たちと合流し、この街を飲み込もうとする魔将を打ち倒すために。
ルシオンの尖兵たる鮮血の魔女との、死を賭した迎撃戦が、今まさに始まろうとしていた。
空を赤黒く染め上げる血の霧の中、ブレーゼ西方高原王国の誇る『空中騎士団』が展開を終えていた。
峡谷の風を魔力で操る彼らは、白い帆を張った数十隻の軽快な戦闘用飛行艇と、風の加護を受けた飛竜に跨る騎士たちによって構成されている。彼らは王都の上空で流麗な陣形を組み、赤いドレスを翻す鮮血の魔女ヴィオラを包囲した。
「上空の魔族を狙え!この街の空を汚す魔族に、高原の風の裁きを下せ! 撃て!」
騎士団長の号令が風に乗って響き渡ると同時、飛行艇の側面に備えられた魔導砲が一斉に青白い光を放った。飛竜の騎士たちも風の魔力を刃に変え、四方八方からヴィオラへ向けて嵐のような集中砲火を浴びせる。
空気が激しく震え、連続する爆発の閃光が血の霧を一時的に吹き飛ばした。
だが、その光が収まった後、騎士たちの顔に浮かんだのは戦果への確信ではなく、理解し難い光景に対する恐怖だった。
「……こんなものかしら? 人間の風なんて、心地よいそよ風にもならないわね」
ヴィオラは無傷だった。彼女の周囲には、指先から滴り落ちた真紅の血が薄いガラスのような球状の障壁を形成し、すべての攻撃を音もなく吸収していたのだ。彼女は紫黒のドレスの裾を優雅に持ち上げ、蠱惑的な笑みを深める。
「さて、次は私の番ね。この空をお互いの血で染め上げてあげる」
ヴィオラが両手を空高く掲げると、障壁を構成していた血が細かい霧状に弾け、一気に膨張した。赤黒い『血の霧』は、生き物のように蠢きながら上空の気流を逆流させ、空中騎士団の陣形を瞬く間に飲み込んでいく。
「陣形を崩すな! 結界を張り、霧を吸い込むな!」
騎士団長が叫ぶが、その声はすでに手遅れだった。
血の霧には、触れるだけで思考を濁らせる、粘り気のある精神干渉の波長が込められている。霧に包まれた飛行艇の甲板で、結界の展開を試みていた魔導師たちの動きがピタリと止まった。飛竜を操る騎士たちの腕から力が抜け、彼らの瞳から理性の光が急速に失われていく。
静寂は、ほんの一瞬だった。
「……あ、ああ……敵だ……敵がいるぞ!」
一人の騎士が、突如として隣で剣を構えていた戦友の胸に刃を突き立てた。
「なにをする! ……いや、お前も魔族の手先か!」
刃を向けられた側の騎士もまた、幻覚に支配された虚ろな瞳で反撃に転じる。
ヴィオラの魔法は、心を蝕む毒だった。彼らの視界を歪め、一番信頼する仲間の顔を、憎き敵へとすり替えてしまうのだ。
上空のあちこちで、凄惨な同士討ちが始まった。
飛行艇の上では、騎士たちが獣のような叫び声を上げながら互いに剣を交え、鮮血を散らして甲板に倒れ込んでいく。操縦士を失った飛行艇は制御を失い、隣の機体へと激しく衝突した。火薬と魔導機関が引火し、空中で巨大な火柱が上がる。
飛竜たちも例外ではなかった。血の匂いと狂気に当てられた竜たちは、乗っていた騎士を振り落とし、互いの喉笛に牙を立てて空中で激しく絡み合う。
「素晴らしいわ。その絶望の顔、裏切りの叫び……たまらないわね」
ヴィオラは、燃え上がりながら空から墜ちていく飛行艇を見下ろし、恍惚とした表情で赤い唇を舐めた。
上空の惨劇は、たちまち地上の街に破壊をもたらした。
火ダルマとなった機体や、息絶えた飛竜の巨体が、王都の美しい石造りの建物へと次々に降り注ぐ。屋根が砕け、石壁が崩れ落ち、街の至る所で黒煙と炎が立ち上がり始めた。
「きゃあああっ!」
「逃げろ! 空から降ってくるぞ!」
避難を急いでいた住民たちの頭上に燃え盛る破片が迫り、パニックが街を飲み込んでいく。
広場では、ルカスとフィリーネが展開する防護結界が、降り注ぐ瓦礫を必死に弾き返していた。
「くそっ、結界の魔力消費が激しすぎる! 上空の連中、完全に理性を失ってやがる!」
ルカスが額に汗をにじませながら、魔導デバイスのレバーを操作して結界の出力を上げる。
フィリーネも白銀の杖を高く掲げ、祈るように魔力を注ぎ込み続けていた。
「……同士討ちなんて、ひどすぎます。彼らの心を弄ぶなんて……!」
ゼノリスは黒い剣を握りしめ、空を見上げて強く歯を噛み締めた。
「……ああ。彼らの誇りを、これ以上その狂気で汚させはしない」
彼は白銀の閃刃を剣に纏わせ、上空のヴィオラへ向けて斬撃を放とうと構える。しかし、彼とヴィオラの間には、同士討ちを続ける機体と分厚い血の霧が立ち塞がっている。剣を届かせる隙間は、どこにもなかった。
「ゼノリス、無闇に攻撃しては駄目よ! 狂っているとはいえ、上にいるのはこの国の騎士たちだわ。巻き添えにしてしまう!」
セレスティアが悲痛な声を上げる。彼女の治癒の光も、上空の広範囲に拡散する霧をすべて浄化するには至らない。
「……厄介な霧ね。私の風でも、この粘り気のある魔力は容易には吹き飛ばせない」
リィンが愛刀を構えながら、周囲に迫る赤い霧を鋭い風の刃で切り払い続ける。イリスも灰色の霧を展開して住民を誘導しているが、空から無差別に降ってくる燃え盛る瓦礫のすべてには対応しきれていなかった。
「――ゼノリス!」
その時、広場の端から息を切らして駆け込んでくる人影があった。ガイルだ。
「ガイル! 若者の保護は終わったのか?」
「ああ、あの小屋の周囲に防護障壁を張ってきた。簡単には破られないはずだ」
ガイルは乱れた茶髪を掻き上げながら、上空の凄惨な光景に右目の眼帯の下を歪ませた。
彼の解析眼は、空を覆う血の霧の波長を捉え、その恐るべき性質を数値化していく。
「……最悪だ。あの魔女の霧は、恐怖や絶望を吸い込んでさらに濃度を増す性質を持っている。騎士たちが殺し合い、街の人間が怯えれば怯えるほど、霧は広がり続けるんだ」
「なんだって……じゃあ、このままじゃ街全体が狂気に飲み込まれるってことか!」
カシムが影の中から現れ、舌打ちをした。
ヴィオラの真の狙いは、単なる破壊ではなかった。恐怖と悲鳴を増幅させることで、ルシオンの肉体を安定させるための悲鳴を効率よく集めようとしているのだ。
「フフフ……。さあ、次は地上のネズミたちの番よ」
上空のヴィオラが、まるで指揮者のように優雅に指先を振るった。
血の霧が意思を持ったようにうねり、今度は地上で逃げ惑う人々や、ゼノリスたちの方へと向かって降下を始めた。霧の先端は鋭い刃のように研ぎ澄まされ、容赦なく街を切り刻んでいく。
防衛網が崩壊し、空から絶望が降り注ぐ中、エトワール号の仲間たちは街と人々を守るため、血塗られた空へ向けてそれぞれの武器を構え直した。だが、真の悲劇はまだ、彼らの手の届かない街の片隅で、密かに口を開けようとしていたのである。




