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星帝物語  作者: 藤堂 貴之
第6巻 星屑の帰還と蒼刃の守護者

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第54章:高原の休息と遠い日の記憶

 厚い雷雲に覆われた渓谷を抜け、エトワール号は東の空へと進路を取った。

雷獣との激戦をくぐり抜けた船体は、至る所に痛々しい傷跡を残していた。銀色の装甲はひび割れ、推進器の一つからは黒い煙がくすぶっている。早急な修理が必要だった。ゼノリスたちは次なる目的地へ向かう前に、ブレーゼ西方高原王国へと立ち寄ることを決めた。

数日の航海の末、エトワール号が着陸したのは、切り立った断崖の上に築かれた広大な街だった。標高の高いこの国は、一年を通して冷涼な風が吹き抜けている。見上げれば、風の魔法を動力とする飛行艇が何隻も空を巡り、連絡を担う鳥便の群れが白い翼を翻して飛び交っていた。石造りの家々は強風をやり過ごすための丸みを帯びた屋根を持ち、街全体が空の青さに溶け込むような美しい景観を作っている。


ルカスとナディアが船の修繕に付きっきりになる一方で、他の星屑の騎士たちは買い出しと休息を兼ねて、活気ある街の市場へと繰り出した。

 石畳が敷き詰められた市場は、高原の特産品を並べる商人たちと、それを品定めする客の熱気で溢れていた。色とりどりの果実や、冷たい風を凌ぐための厚手の手織り布が所狭しと並べられている。荷馬車が行き交い、人々の笑い声が風に乗って響く。

「風が気持ちいいね。息をするだけで、身体が軽くなる気がするよ」

テオが大きく深呼吸をし、獣の耳を嬉しそうに揺らした。

「本当ですね。学園の演習林で感じた風とは、匂いが違います。とても瑞々しい香りです」

 フィリーネが、並べられた果実を珍しそうに眺めながら微笑む。セレスティアも、賑わう人々の様子に目を細め、静かに頷いていた。

過酷な戦いを乗り越えた彼らにとって、このような普通の街の日常に触れることは、何よりの心の薬になっていた。ゼノリスもまた、仲間たちの穏やかな表情を見て、肩の力を抜いた。


 だが、そんな賑わいの片隅で、ガイルの足がふと止まった。

彼の視線の先、路地裏の木箱に腰を下ろす一人の若者がいた。年の頃はガイルたちと同じか、少し下くらいだろうか。すり切れた麻の服を着ており、厳しい生活をしていることは一目でわかった。

 市場のパン屋の主人が、彼に向かって小さな袋を投げてよこした。

「ほら、昨日の売れ残りだ。食いな。……お前さんも不憫だな。毎日毎日、同じ場所でぼんやり座ってるだけなんてよ」

若者は何も答えない。かすかに頭を下げると、袋から取り出した硬いパンを、無言のまま少しずつかじり始めた。その横顔からは、生きる気力や感情の起伏すらも感じられない。ただ焦点の定まらない目で、乾いた石畳を見つめている。活気あふれる市場の熱気の中で、彼だけが世界から切り離されたような、深い孤独の影を落としていた。

ガイルはその横顔から、どうしても目が離せなくなった。

右目の眼帯の下で、彼の解析眼が魔力波長を読み取ろうとする。だが、それよりも早く、彼自身の胸の奥が冷たい刃でえぐられるように痛んだ。若者へ一歩踏み出そうとした足が、目に見えない鎖に繋がれたように重く硬直する。

「……ガイル? どうかしたのか」

ゼノリスが隣から声をかける。

ガイルはハッとして視線を逸らし、乱暴に茶髪を掻き回した。

「……いや、なんでもない。ただの昔の知り合いに似てただけだ」

そう言って歩き出そうとするが、彼の足は鉛のように重かった。


 ガイルの心は、すでに過去の幻影に引き戻されていた。

あの少し跳ねた髪の癖。泥に汚れた頬の輪郭。それは、彼が何年も前に失ったはずの、幼い弟の面影そのものだった。


 ガイルの一族は、ドロモス中央山岳王国に代々続く名門の貴族だった。

屋敷の広大な庭には季節の花が咲き乱れ、白い石造りの噴水からは澄んだ水が溢れていた。ガイルが分厚い書物を抱えて歩けば、いつも背後から「兄さん、待ってよ」と舌足らずな声が追いかけてきた。振り返ると、小さな手足を懸命に動かして走ってくる五歳の弟、セトがいた。

ガイルが立ち止まって手を差し伸べると、セトはその小さな手を嬉しそうに絡ませてきた。その柔らかな感触と、見上げてくる無邪気な笑顔は、ガイルにとって何よりも代えがたい日常だった。

しかし、ガイルの右目に宿る特異な力が、その平穏を狂わせた。

あらゆる魔力の波長を読み解く『解析眼』。幼いガイルにとってそれは、風の動きや植物の息吹を知るための不思議なレンズに過ぎなかった。だが、大人たちにとっては違った。その眼は、鉱脈に眠る不都合な真実や、隣国ヴェルンドとの軍事的な密約など、王家が隠蔽する黒い秘密さえも暴きかねない脅威として映ったのだ。権力者たちはガイルの力を恐れ、一族を排斥するための陰謀を巡らせた。

謂れのない罪を着せられ、彼らはすべてを奪われた。


記憶の中のあの日も、今日のように風の強い夜だった。

寝静まった屋敷の鉄門が乱暴に破られ、松明を持った私兵たちが雪崩れ込んできた。

放たれた火の手は吹き込む強風に煽られ、壁のタペストリーや調度品を次々と飲み込んでいく。

炎が廊下を舐め回し、焼け焦げた木材が天井から降り注ぐ。煙が充満し、息をするのも苦しい。怒号と剣戟の音が響き渡る中、ガイルの両親は子供たちを逃がすために追っ手の前に立ち塞がった。

『ガイル、セトを連れて逃げなさい! 振り返るな!』

血に染まった父の叫び。そして、母が凶刃に倒れ、床に崩れ落ちる光景。ガイルの右目は、目を逸らしたい悲劇でさえも、緻密な情報として網膜に焼き付けてしまった。

彼は泣き叫ぶセトの手を強く握りしめ、煙の立ち込める裏口から夢中で駆け出した。

夜の森は底知れぬ闇に包まれていた。鋭い木の枝がガイルの頬を切り裂き、ぬかるんだ泥が足を取る。冷たい雨が降り始め、体温を容赦なく奪っていく。肺が焼けるように痛んだ。

セトは何度も転びそうになったが、ガイルはその手を決して離さなかった。

背後からは、私兵たちの足音と、獲物を追う冷酷な声が迫っていた。呼吸は苦しく、足は鉛のように重い。それでも、ガイルの右手に残る弟の温もりだけが、彼を暗闇に繋ぎ止める希望だった。

だが、放たれた火炎魔法が二人の足元で弾けた。

凄まじい爆風がガイルの体を宙に投げ出す。

地面に叩きつけられ、視界が赤く染まる中で彼が見たのは、雨に濡れた崖の下へと滑り落ちていく弟の小さな背中だった。

ガイルは泥にまみれた手を必死に伸ばした。だが、指先からセトの小さな手がすり抜けていく。

『兄さん……!』

セトの泣き声が、谷底の闇へと消えていく。

ガイルは血を流したまま、崖の縁で泥を握りしめることしかできなかった。

どれほど手を伸ばしても届かない。自分がその手を離してしまったという罪悪感は、その後スラム街で一人孤独に生きる彼を、ずっとさいなみ続けてきたのだ。


 ガイルは市場の雑踏の中で、無意識のうちに拳を白くなるほど強く握りしめていた。

その強い視線に気づいたのか、若者がふと顔を上げた。虚ろな瞳がガイルを真っ直ぐに捉える。だが、そこには何の感情の揺らぎもなく、若者はすぐにまた視線を石畳へと落とした。

(……馬鹿な。あいつは死んだはずだ。それに、もし奇跡的に生き延びていたとしても、俺の弟なら、俺を見てあんな無表情でいられるはずがない。俺の顔を忘れるわけがないんだ)

 彼は自分に言い聞かせるように、深く息を吐き出した。だが、何も語らずにパンをかじるあの若者の姿は、かつて彼がその手を離してしまった弟の面影とあまりにも重なっていた。

あの日、崖の下へと消えていった弟の叫び声が、耳の奥で蘇る。胸の奥で、重い蓋をして閉じ込めていた後悔が、どす黒い泥のように溢れ出してくる。

「……ガイル」

ゼノリスは多くを語らず、ただ静かにガイルの肩に手を置いた。

何も聞かない。ただ、ここにいるという事実だけを伝えるような、確かな温もり。その手から伝わる熱が、ガイルの荒れた心を少しだけ落ち着かせた。

「……悪い。少し歩き疲れたみたいだ。俺は先に船に戻って、ルカスの手伝いをしてくる」

 ガイルは背を向けると、逃げるように市場を後にした。足早に遠ざかるその背中は、いつもの不敵な参謀役のものではなく、ただの傷ついた若者のものだった。

残された星屑の騎士たちは、ただ無言で石畳を見つめる若者の姿と、ガイルの後ろ姿を交互に見つめ、静かに見送ることしかできなかった。



 エトワール号が高原の風に癒やされている頃、遠く離れた果ての地――光すらも吸い込まれる冷たい闇の底で、重苦しい沈黙が支配する空間があった。

かつて栄華を誇ったであろう巨大な神殿の廃墟。砕けた石柱が虚空に浮かび、床の至る所に底知れぬ亀裂が走っている。その最奥に設えられた黒石の玉座で、底知れぬ冷気を含む低い声が響いた。

「……現世の理とは、これほどまでにもろく、煩わしいものか」

玉座に深く腰を掛けるのは、雪のように色素の薄い銀髪と、底知れぬ漆黒の双眸を持つ男、ルシオン。かつて世界を焼き尽くそうとした魔王の弟であり、次元の底から這い出してきた虚無の王である。

彼の肉体は、時折古い映像が乱れるようにノイズを走らせてブレていた。次元の底から無理やり現世に姿を現した代償として、存在そのものがこの世界に深く根を下ろせていないのだ。肉体の輪郭がわずかに揺らぐたび、周囲の空間がガラスを引っ掻くような嫌な音を立てて軋む。

「私が打ち込んだ『第一の楔』が、塵に還された。おかげで、この身体を縛る不快なノイズがまた一つ増えてしまった」

声に激昂はない。だが、その静かな威圧感に呼応するように、玉座の周囲を漂う暗黒の魔力が大きく脈打つ。

その階下に、四つの異形がかしずいていた。

身の丈三メートルに迫る巨漢、狂戦士ガルヴァス。紫黒のドレスを纏い、指先から真紅の血を滴らせる魔女ヴィオラ。ボロボロの黒いローブで宙に浮遊し、黒い炎を揺らめかせる灰燼かいじんの魔道士ネビュロス。そして、古びた銀色の甲冑を纏い、兜で顔を隠した蒼刃の魔騎士ザガン。

「お許しください、ルシオン様」

ヴィオラはいつもの妖艶な笑みを消し去り、青ざめた顔で床に平伏した。

「あの小賢しいネズミども……我らが退いた隙を突くとは。ですが、ルシオン様を煩わせるほどの価値もありませんわ」

「……戯言を。現に私の計画が遅れを取ったのだ」

冷ややかな一瞥に、ヴィオラは凍りついたように背筋を震わせる。

「で、では、私に命じてくださいませ。あの者たちが逃げ込んだ高原の街に、私の『血の霧』を降らせて差し上げます。街ごと狂気で染め上げ、同士討ちの絶望に沈めてみせましょう」

「フン、女の陰湿な遊びだな。俺の重力で街ごと押し潰してやる方が早い」

ガルヴァスが地鳴りのような声で笑う。

「……灰ニ……スベテ……」

ネビュロスも虚ろな声で同調した。

ルシオンは玉座の肘掛けに静かに指を滑らせ、漆黒の瞳をヴィオラへ向けた。

「よいだろう、ヴィオラ。お前に任せる。……『星の種』であるあの小娘だけは生かして連れてこい。残りは街ごと引き裂け。私の身体を安定させるための、悲鳴をかき集めてくるのだ」

「御意のままに。極上の赤で、ルシオン様を満たして差し上げますわ」

ヴィオラは深く一礼し、闇の中へ溶けていった。ガルヴァスとネビュロスも無言で姿を消す。


 静寂が戻った玉座の間に、ザガンだけが残っていた。

彼は銀色の甲冑を微かに鳴らし、深く首を垂れたまま微動だにしない。

ルシオンは玉座に深く背を預けたまま、その沈黙する騎士を、ただじっと見下ろした。言葉はない。だが、その漆黒の双眸は、ザガンの兜の奥の奥まで探ろうとするかのように、不気味なほど長く据えられていた。

「……ザガン」

ややあって、ルシオンが静かに呼んだ。

「はっ」

「お前は、あの者たちと剣を交えたな。……お前の空間切断をもってしても、奴らの息の根を止めるには至らなかったか」

それは単なる確認の言葉だった。だが、ルシオンの声には、針の先で撫でるような、ひどく冷たく、静かな響きが混じっていた。

「……ええ。存外にしぶとい者たちでした」

ザガンの声は兜の下で低く響き、一切の感情を読み取らせない。

ルシオンはしばらくザガンから目を離さず、やがて静かに目を伏せた。

「そうか。……ならば次は、その自慢の刃が鈍らないことを期待しているぞ」

「御意。事態を監視し、ヴィオラが後れを取るようならば、今度こそこの剣で空間ごと切り裂いてご覧に入れましょう」

「行け。私をこれ以上、待たせるな」

ルシオンの言葉を合図に、ザガンもまた玉座の間から姿を消した。


 深い闇の回廊を歩きながら、ザガンは兜の下で誰にも聞こえない息を吐いた。

(……白銀の刃、よく研がれている。さあ真の主君よ、次はどう出る? あの女の血の霧の中で仲間を守り抜けるか、この俺が影から見極めてやる)

彼の心にあるのは、あの雷鳴の谷で見たゼノリスの確かな成長への期待だった。

ザガンの脳裏に、ふと、ずっと昔の光景が蘇る。

まだ空が青かった頃。かつて彼が無二の忠誠を誓った男――初代魔王との、平時の酒の席での何気ないやり取りだ。


『……ザガン。どうやら我の命運も、そろそろ尽きるやもしれぬな。次の戦いが、我の死に場所となるかもしれん』

杯を傾けながら、魔王はふと自嘲するように笑みをこぼした。

『縁起でもないことを。貴方様が倒れる姿など、到底想像もつきません』

『フッ、相変わらず真面目な男だ。だが、もし我がいなくなり……遙か未来に、我の魂を継ぐ不器用な者が現れたなら。お前が影から、そっと手を貸してやってくれ』

『……承知いたしました。貴方様とのお約束は、必ず』

 二人はともに笑った。あの時の冗談めかした魔王の顔が、今も鮮明に焼き付いている。まさか本当に、このような形でその約束を果たす日が来るとは、当時のザガンには知る由もなかった。

(……お約束は守っておりますぞ、魔王様。あの不器用な若者がどこまでやれるか、最後までしっかりと見届けさせていただきます)

ザガンは心の中の熱を仮面の下に隠し、闇の中へとその身を溶かしていった。


残された玉座の間。

ルシオンは、ノイズに揺れる自身の掌を、感情の抜け落ちた瞳で見つめた。

「……逃がしはしない。星の種の血肉を喰らい、この不完全な肉体を満たした時こそが、八ヵ国連合もろとも、この世界を白紙に戻す時だ」

虚無の王の静かな宣告が、光の届かない神殿の奥底に、冷たい呪いのように染み渡っていった。

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