第41章:次なる針路と星屑の誓い(エピローグ)
荒れ狂う潮風が、エトワール号の銀色の翼を激しく打ち据えていた。
暗雲の立ち込める海を切り裂いて進む船の甲板には、鉛のように重く、沈痛な空気が漂っている。
背後に遠ざかっていくギルダーの街は、もはやかつての原型を留めていなかった。四魔将とルシオンがもたらした黒い闇が、大陸の経済を支配していた巨大な商業都市を瓦礫の山へと変え、異様な赤黒い光が空を不吉に照らし出している。
ゼノリスは船尾の手すりに寄りかかり、遠ざかる滅びの光景を無言で見つめていた。
彼の右手のひらに刻まれた火傷の跡と『三つ目の星』の刻印が、チリチリと嫌な熱を帯びて疼いている。それは、あの化け物――ルシオンが放っていた、すべてを無に還す虚無の力に対する、身体の奥底からの本能的な警戒だった。
(……あれほどの脅威が、まだ不完全な状態だというのか)
自分たちの力が、次元の違う存在の前ではあまりにちっぽけに感じられる。悔しさと、隣にいたフィリーネを狙われた恐怖が入り混じり、ゼノリスは手すりを握る指に力を込めた。木材がミシリと悲鳴を上げる。
その時、彼の足元に伸びていた暗い影から、音もなく一人の少年が姿を現した。
「……ひどい顔をしてるな、リーダー」
南の砂漠の国、アル・ザハブ出身の情報屋、カシムだった。
彼はいつものように気配を消し、壁を背にして斜に構えていたが、その瞳の奥には、これまでにない真剣な光が宿っていた。
ゼノリスは少しだけ肩の力を抜き、乾いた苦笑を浮かべた。
「カシムか。……情けない姿を見せてしまったね」
「無理もねえさ。あんな規格外の化け物を見せられりゃ、誰だって足がすくむ。……ギルダーの豪商どもが束になっても、赤子扱いだったんだからな」
カシムはゼノリスの隣に立ち、同じように荒れる海を見つめた。
砂漠の過酷な環境で育ち、裏社会で情報屋として生きてきた彼は、これまで誰かを心から信じたことなどなかった。他人は利用するか、されるか。常に疑い、自分の背中は自分一人で守る。それが、彼の生きてきた世界のルールだった。学園の「鉛クラス」に集められた時も、彼にとってはただの都合の良い隠れ蓑に過ぎなかった。
連合星暦の暦が秋を告げようとしていた、少し前の八月八日。ギルダーの地下のアジトで十六歳の誕生日を祝ってもらった時も、彼は素直に喜べない自分に戸惑っていた。ナディアが甘い乾燥果実を差し出し、テオが傷薬をくれ、フィリーネが手編みの星の護符をくれた。その温かい言葉やプレゼントを受け取っても、心のどこかで「いつか裏切られるのではないか」「この関係は長続きしない」という恐れが拭いきれなかったのだ。
だが、陥落する商業都市からの決死の脱出劇は、彼のその頑なな心を内側から打ち砕いた。
テオが大盾で瓦礫を防ぎ、フィリーネが氷結魔法で道を作り、ナディアが羅針盤で活路を示す。そしてゼノリスが、先頭で剣を振るい続けた。
彼らは誰一人として、自分だけが助かろうとはしなかった。倒れそうになる仲間がいれば手を引き、自分の身を挺してでも守り抜こうとする。
そして何より、カシムの心を動かしたのは、ゼノリスの瞳だった。
ルシオンの底知れない闇を前にしても、ゼノリスの眼差しからは決して「諦め」の色が見えなかった。恐怖や悔しさに震えながらも、どうすれば仲間を生かして次へ繋げるかを、必死に模索していたのだ。
「……俺は、砂漠の路地裏で生きてきた。他人はいつか裏切るものだと、そう思って生きてきたんだ」
カシムが、ぽつりと呟くように語り始めた。
荒波の音が彼の言葉をさらうが、ゼノリスは黙って耳を傾けた。
「学園の地下で一緒に戦った時も、正直、半分は自分自身の居場所を確保するためだった。……でもな」
カシムは振り返り、ゼノリスを真っ直ぐに見据えた。
その褐色の肌に刻まれた小さな傷跡が、彼がこれまで一人で潜り抜けてきた修羅場を物語っている。十六歳という年齢には似合わない、過酷な生の証明だった。
「今回のギルダーで、はっきりわかった。お前らは、俺が見てきたどの人間とも違う。……こんな絶望的な状況でも、お前たちとなら背中を預けられる」
カシムの言葉に、ゼノリスは目を丸くした。
常に斜に構え、一歩引いた立ち位置を崩さなかったカシムが、これほどストレートに自分の胸の内を明かすのは初めてのことだった。
「俺を、『星屑の軍団』の正式な一員として迎えてくれないか。……影から様子を見るだけの情報屋は、もう終わりだ。これからは、お前たちと共に最前線で泥をすする」
それは、裏社会で一人孤独に生きてきた十六歳の少年が、初めて自らの意志で「仲間」を選び取った瞬間だった。
ゼノリスの胸の奥で、冷え切っていた血が熱を帯びて流れ始めるのを感じた。
ルシオンの力に打ちのめされそうになっていた心が、カシムの真っ直ぐな言葉によって救い上げられていく。
ゼノリスは、火傷の痕が残る右手を、カシムに向けて差し出した。
「……ありがとう、カシム。君が背中を預けてくれるなら、僕たちはもう、どんな暗闇でも迷わない。……よろしく頼むよ」
カシムは不敵な笑みを浮かべ、その差し出された手を、自らの傷だらけの手で力強く握りしめた。
二人の手が交わった瞬間、冷たい海風が吹き荒れる甲板に、確かな熱が生まれた。
若き戦士たちが結んだ、決して揺らぐことのない誓いの熱だ。
「ちょっと、男同士で熱いじゃないの」
背後から、明るい声が響いた。
振り返ると、そこにはナディアが黄金の羅針盤を腰で揺らしながら立っていた。彼女の隣には、大きな木のお盆を持ったテオと、白銀の杖を胸に抱いたフィリーネの姿がある。
「テオが、温かいスープを作ってくれたの。船の揺れも少し落ち着いてきたし、みんなで少しお腹に入れない?」
ナディアの言葉に、テオが照れくさそうに笑いながらお盆を差し出す。
そこには、五人分の不揃いな木製カップから、薬草の優しい香りを漂わせる温かなスープの湯気が立ち上っていた。
「……うん。僕たちの身体、すっかり冷え切っちゃってるからね。少しでも温まらないと、次の戦いに響くよ」
「お兄様、お疲れ様です。……カシムも、怪我の手当てが必要なら言ってくださいね。少し前の誕生日に渡したお守り、ちゃんと持っていますか?」
フィリーネがゼノリスの隣にそっと寄り添い、カシムにも気遣いの言葉をかける。十三歳の彼女の気品と優しさに触れ、カシムは少しだけ顔を赤らめ、そっぽを向きながらスープのカップを受け取った。
「……持ってるよ。……スープ、悪くねえな。もらうぜ」
波に揺れるエトワール号の甲板。
頭上には分厚い暗雲が立ち込め、目指す先にはまだ見ぬ強敵と過酷な運命が待ち受けている。
しかし、五人で分け合うその小さなスープの温もりは、彼らが決して希望を捨てないという証明だった。
ゼノリスは、温かいカップを両手で包み込みながら、暗い海の彼方を見つめた。
ギルダーでの敗北は、決して終わりではない。
カシムという心強い仲間を正式に迎え入れた『星屑の軍団』は、ここから次なる針路へ向けて、確かな一歩を踏み出そうとしていた。
テオが作ってくれた温かな薬草スープは、冷え切っていた五人の身体と、凍りつきそうになっていた心に、確かな生気を呼び戻した。
揺れる船室のランプの下、彼らはエトワール号の円卓を囲んでいた。
卓上には、ナディアが広げた大陸全土の海図が置かれている。だが、五人の視線は海図のどこか特定の場所ではなく、つい先ほどまで自分たちが立っていたギルダー商業公国のあった方角――今はただの暗黒と化しているであろう東の空へと向けられていた。
「……信じられない。あの巨大な商業都市が、あんなにもあっけなく崩れ去るなんて」
テオが、空になった木製のカップを両手で包み込んだまま、微かに震える声で沈黙を破った。彼の分厚い胸板や腕の筋肉には、魔将ガルヴァスの重力波を強引に盾で防いだ際の内出血が、どす黒い痣となって無数に浮かび上がっている。
「奴らの力は、これまでの敵とは次元が違ったわ。……特に、あの銀髪の男、ルシオン。彼が放っていたのは、街を『壊す』魔法じゃない。空間そのものを削り取り、存在を『無かったこと』にするような、底知れない虚無の渦だった」
ナディアが、黄金の羅針盤の蓋をパチンと閉じながら険しい表情で語る。羅針盤の針は、ギルダーの方角を指すことを本能的に拒絶するかのように、微かな摩擦音を立てて小刻みに震え続けていた。
「ナディアの言う通りだ。……俺の影すら、奴の足元から広がる闇には近づけなかった。底なし沼に石を投げ込むようなもんで、手応えすら吸い込まれちまう」
カシムが腕を組み、忌々(いまいま)しげに舌打ちをする。スラムの裏社会で数多の死線を潜り抜けてきた彼の生存本能が、ルシオンという存在の異質さを誰よりも正確に警報として鳴らしていた。
ゼノリスは、火傷の痕が残る右手を静かに見つめた。
ルシオンと対峙した瞬間、この掌に刻まれた『三つ目の星』の刻印が、狂ったように熱を放ち、心臓を内側から叩き割るような激しい共鳴を起こした。それは、相手が自分の中に宿る『魔王の魂』と血を分けた存在であり、かつて世界を火の海に変えた『魔王』の弟であるという残酷な真実を、魂の共鳴をもって証明していた。
「……ルシオンは、現世の法則に肉体が耐えきれず、ノイズのように姿がブレていた。次元の底から這い出してきたばかりで、まだ本来の力を取り戻していない状態だったんだ」
ゼノリスの地を這うような低い声に、船室の空気が一段と張り詰める。
「あれだけの途方もない力を見せつけておきながら、まだ不完全な状態だと言うの……? もし、あの化け物が真の力を取り戻したら……」
フィリーネが顔を青ざめさせ、白銀の杖を握る手に力を込めた。
「大陸中のすべての命が、抗う術もなく消し去られるだろうね。……奴は、その足りない魔力と肉体を現世に定着させるために、帝国の正統な血脈である『星の種』……つまり、フィリーの命を狙っている」
ゼノリスの黄金と闇の双眸が、揺るぎない守護の意志を帯びてフィリーネを見据える。 彼女の命が狙われている。その事実だけで、ゼノリスの内側に眠る力が、世界を焼き尽くしてでも彼女を守れと囁きかけてくる。だが、ゼノリスは深く息を吐き、そのどす黒い衝動を静かな理性の海へと沈め込んだ。
ただ逃げ隠れするだけでは、いずれ世界ごと削り取られて終わる。ルシオンという規格外の虚無を打ち倒すための、明確な「対抗策」が必要だった。
「……どうすればいい。物理的な攻撃も魔法も吸い込まれるような相手に、僕たちの『音』を届かせる方法なんて、あるのか?」
テオの苦悩に満ちた問いに、円卓は重い沈黙に包まれた。
その沈黙の中、ゼノリスの脳裏に、ある人物の顔が鮮明に浮かび上がった。
銀色の仮面で顔の半分を覆い、枯れ木のような樫の杖をつく老魔導師。帝国魔導院学園の最底辺である「鉛クラス」に集められた彼らに、泥の中から立ち上がる術を教え、導いてくれた恩師の姿。
「……一人だけ、いる」
ゼノリスの言葉に、四人の視線が一斉に集まる。
「あの化け物を止める手がかりを知っているかもしれない人間が、この大陸に一人だけいるんだ。……ガンド先生だ」
「ガンド先生……!」
フィリーネがハッと息を呑んだ。
「そうだ。……ガンド先生の本当の名は『バアルガンド』。三百年前に魔王が反乱を起こした時、勇者の魂を礎にして魔王を封印した張本人だ。……そして何より、彼は魔王の父親でもある。つまり、魔王の弟であるルシオンにとっても、血の繋がった父親ということになる」
ゼノリスの口から語られた真実に、カシムが目を見開いた。
「……実の父親、だと? じゃあ、先生は自分の息子を二人とも、あの次元の底に封じ込めていたってことかよ……」
「おそらくね。……三百年前、どうやってあの強大な虚無を封じ込めたのか。ルシオンの持つ力の本質と、その綻びを、ガンド先生なら必ず知っているはずだ。僕たちが次に向かうべき場所は、決まっている」
ゼノリスが海図の一点を指差した。
それは、この大陸の中央に位置する中立地帯――『学園都市エーテルガード』。
かつて彼らが不適合者として集められ、そして自らの意志で飛び出した、始まりの場所である。
「学園都市……。でも、お兄様。学園の表舞台には、八ヵ国連合の監視の目がまだ光っています。私たちが堂々と戻れば、すぐに捕縛されてしまいます」
「表からは入らないよ。僕たちには、誰にも見つからずに学園の心臓部へ潜り込める『自分たちの城』があるじゃないか」
ゼノリスの口角が、わずかに吊り上がった。
「三千年前の帝国の遺産が眠る、学園地下の『地下動力室』。……今頃あそこでは、ルカスとガイルが、ギルダーの異変を通信傍受して、血眼になって分析を進めているはずだ」
その名前が出た瞬間、船室の空気がふっと温かく、そして力強いものへと変わった。
連合星暦三百五年の秋。少し前の九月九日に、一足先に十七歳の誕生日を迎えたルカスは、きっと今も埃まみれの地下室で、より一層偏屈に眼鏡を光らせながら魔導デバイスの改造に没頭しているだろう。そして、ガイルは、その傍らで右目の『解析眼』を酷使し、大陸中の魔力波長を睨みつけているはずだ。彼らがこのギルダーでの激震を見逃しているはずがない。
「そうだな。あの機械オタクと解析マニアなら、俺たちが帰る頃には、すでにルシオンの魔力波長の解析データくらい用意して待ってるかもしれないぜ」
カシムが不敵な笑みを浮かべ、短剣の柄を指先でリズミカルに弾いた。
「ええ。セレスティアやイリス、リィンたちにも、ルカス経由で学園地下への招集をかけられるわ。……ようやく、またみんなで集まれるのね」
ナディアが、安堵と期待の入り混じった声で海図の上に身を乗り出した。
バラバラに散っていた「鉛の騎士団」の十人が、再び一つの目的のために結集する。その想像だけで、ギルダーで負った身体の痛みや絶望感が、嘘のように拭い去られていくのを誰もが感じていた。
「……ナディア。エトワール号の針路を、大陸中央の学園都市へ設定してくれ」
ゼノリスが静かに、だが確かな熱を帯びた声で命じた。
「了解よ、船長。……風の機嫌と潮の香りを読めば、八ヵ国連合の監視網の死角を突いて、数日で学園都市の隠し港まで送り届けてみせるわ。私の黄金の羅針盤に狂いはないからね!」
ナディアが元気よく立ち上がり、操舵室へと向かう。
テオが、自らの大きな両手で膝を力強く叩いた。
「よし! 次にあの化け物と会う時までに、僕も盾の出力をもう一段階引き上げる特訓をしておくよ。みんなのことは、絶対に僕が守り抜くから!」
「ええ。私も、道中に作れる限りの霊薬を調合しておきます。……お兄様、今度は一人で無茶をしてはだめですよ。私たちが、必ずお兄様の背中を支えますから」
フィリーネが、ゼノリスの右手に自らの白く細い手をそっと重ね、その青い瞳に凛とした覚悟の光を宿して微笑んだ。
ゼノリスは、その手の温もりと、円卓を囲む仲間たちの頼もしい顔を交互に見つめ、深く頷いた。
連合星暦三百五年の秋。ゼノリスの十七歳の誕生日が目前に迫るこの時期に、彼らは再び、始まりの地へと帰還する。
波に揺れるエトワール号は、暗黒に飲み込まれたギルダーを背に、銀色の翼を大きく広げて、夜明け前の海を真っ直ぐに切り裂いていく。
待ち受けるのは、三千年の歴史を飲み込む虚無の王との、本当の死闘。
だが、彼らの胸の奥で燃える『運命の種火』は、もはやどんな暗闇の中にあっても、決して揺らぐことはなかった。
大陸の中央に位置する中立地帯、学園都市エーテルガード。
白亜の巨塔のさらに奥深く、三千年前の遺構である『地下動力室』は、青白い魔導ランプの光と、低く唸るような機械の駆動音に満たされていた。
埃とオイルの匂いが立ち込める室内で、無数に並べられたモニターの前に座る二人の少年の顔には、尋常ではない緊迫感が走っていた。
「……おい、ルカス。これを見ろ。東の商業都市ギルダーの魔力波長が……跡形もなく消し飛んだぞ」
ボサボサの茶髪を乱暴に掻き回しながら、ガイルが声を荒げた。彼の右目を覆う眼帯の下、空間の魔力構造を数値化する『解析眼』が、あり得ないデータを弾き出してはエラーを繰り返している。彼の額には、冷や汗が滲んでいた。
「都市の魔力炉が停止しただけじゃない。……空間そのものが、何か途方もない『虚無』に削り取られている。こんなデタラメな現象、僕の計算式にも存在しないよ」
ルカスが、青ざめた顔で眼鏡のブリッジを押し上げ、機械技師としての冷静さを総動員し、震える指先で魔導キーボードを叩き続けた。
モニターに映し出されるギルダーの惨状は、彼らの想像を遥かに超えていた。大陸の経済を支配していた欲望の街が、豪商たちが金でかき集めた私兵部隊や最新鋭の魔導装甲車もろとも、文字通り無へと還されていく。
「ゼノリスたちが遭遇したのは、ただの魔族や古代兵器じゃない。……歴史の底に封じられていた、本物の規格外だ」
ルカスの言葉に、ガイルは忌々(いまいま)しげに舌打ちをした。
「あいつら……あんな化け物を相手に、無事なんだろうな」
「……ナディアの羅針盤の微弱な波長が、海上に逃れているのを捉えている。彼らは生きているよ。ゼノリスとナディアの航路選定、テオの盾、そしてフィリーネの魔法がある。必ず死線を潜り抜けて活路を見出しているはずだ」
ルカスは迷いのない瞳で断言し、メインコンソールのレバーを力強く引いた。
「来るべき時に備えよう、ガイル。あいつらは、対抗策を求めて必ずここへ帰ってくる。八ヵ国連合の監視網を欺き、彼らを迎え入れるための地下ルートを構築するんだ。防衛システムのリミッターも、すべて解除する」
「ああ、やってやるさ。俺たちの『城』に、化け物どもを指一本触れさせやしない」
学園の地下で、二人の若き技術者は、迫り来る世界規模の脅威に立ち向かうべく、静かに、だが確かな熱量で迎撃の準備を進めていた。
時を同じくして、大陸の東方に位置するシルフィード東方霊樹国。
数千年の時を生きる巨木の枝葉が天を覆い、常に深い霧に守られたこの国で、一人の少女が神木の下に佇んでいた。
三千年前の遺産である『風読みの衣』を纏う無口な女剣士、リィンである。彼女の黒髪が、突如として吹いた冷たい突風に激しく揺さぶられた。
「……風が、泣いている」
リィンは、東の空から流れてくる気流に混じる、生気を欠いた冷たい虚無の気配を敏感に感じ取っていた。それは、彼女がかつて『忘却の監獄』で対峙した死の空気よりも、さらに深く、暗い滅びの光景を予感させるものだった。
彼女は腰に帯びた愛刀の柄に手をかけ、ゆっくりと引き抜いた。折れた刃の先から、澄み切ったエメラルド色の風の刀身が形成される。
「ゼノリス、フィリーネ……。あなたたちが、あんな恐ろしいものと戦っているのね」
リィンは、故郷の長老たちへ迫り来る危機を伝え、一族の意思を固めるための役目を終えようとしていた。彼女の瞳には、かつて一族の汚名に苦しんでいた頃の迷いはない。東方の精霊たちが、彼女の背中を力強く押しているのを感じる。
「待っていて。私も、すぐにそちらへ向かうわ」
風の剣士は、背中を預けた仲間たちの元へ駆けつけるため、東方の森を背にして、新たな一歩を踏み出した。
東方の森を揺らした冷たい気流は、大陸の南西へと流れ込み、光の教えを重んじるサンクトゥス聖教国にも見えざる波紋を広げていた。
巨大な大聖堂の地下に隠された、冷たく静かな祈祷室。そこには、ステンドグラスから差し込むわずかな月光の下で、祈りを捧げる二人の少女の姿があった。
没落貴族の令嬢であり『真の聖女』であるセレスティアと、灰色の修道服を纏う『灰色の聖女』イリスである。
祈りを捧げていたセレスティアが、ふと顔を上げ、その真実を映す青い瞳を虚空へと向けた。
「イリス……。大きな星が、一つ消えたわ。……東の商業都市が、底知れぬ闇に沈んでしまった」
彼女の声には、遠く離れた地で苦闘する仲間たちへの痛切な思いが滲んでいた。 イリスは静かに立ち上がり、自身の周囲に幻惑の霧を薄く漂わせながら、セレスティアの肩にそっと手を置いた。
「教会の枢機卿たちも、ギルダーの通信途絶に慌てふためいているわ。八ヵ国連合の根幹が揺らぎ始めている。……いよいよね、セレスティア。私たちも、本格的に動く時が来たようね」
「ええ。ゼノリス君たちが持ち帰る真実を、正しく世界へ届けるために。……偽りの光で民を盲目にしている場合じゃないわ。私たちが、この国の淀んだ教えを内側から払い除けなければ」
二人の聖女は、互いの手を取り合い、聖教国の深い闇を切り裂くための静かなる反旗を翻そうとしていた。
そして、夜明け前の海。
厚く垂れ込めていた暗雲の隙間から、東の空を薄紫に染める夜明けの光が差し込み始めていた。
荒波を切り裂いて進む銀色の魔導船『エトワール号』の甲板で、ゼノリスは潮風を全身に受けながら、遠くの水平線を見つめていた。
傍らには、黄金の羅針盤で確かな航路を示すナディア、大盾を足元に置いて波の行方を睨むテオ、そして、兄の隣に寄り添うように立つフィリーネと、影に溶け込むカシムがいる。
ギルダーでの敗北。ルシオンという規格外の存在を前に、彼らは撤退という苦渋の決断を強いられた。
「逃げ帰るってのは性に合わねえが……次会う時は、あの銀髪の化け物の足元に、必ず俺の影を突き立ててやる」
カシムが短剣の柄を指で弾きながら、低く唸るように言った。彼の言葉に、誰もが同意するように無言で頷く。誰の瞳にも諦めの色は宿っていない。
ゼノリスは、自身の右手のひらに刻まれた『三つ目の星』の火傷跡を、左手でそっと包み込んだ。
「……あの化け物を止める手がかりは、ガンド先生が握っている。僕たちは、学園都市の地下動力室へ戻り、次の一手を打つ」
彼の声は、朝の冷たい海風に負けないほどの、確かな熱を帯びていた。
「お兄様。私たちはもう、何も恐れません。どんな暗闇でも、みんながいれば光を作り出せます」
フィリーネがゼノリスの右手にそっと自分の手を重ね、微笑みかける。彼女の青い瞳には、揺るぎない信頼が宿っていた。
「ああ。僕たちの戦いは、これからだ。世界がどんなに深い暗闇に飲み込まれようとしても、僕たちが必ず、あるべき世界を取り戻す」
夜明けの黄金色の光が、雲の切れ間から降り注ぎ、エトワール号の銀色の翼を眩しく照らし出す。
待ち受けるのは、三千年の歴史を飲み込む虚無の王との、真の死闘。そして、八ヵ国連合すべてを巻き込む、巨大な戦乱の嵐。
若き『星屑の軍団』を乗せた船は、次なる目的地である始まりの地へ向けて、夜明けの海を真っ直ぐに切り裂いていく。




