第35章:鉄の枷の亡霊
彼らの眼下に広がる大魔導炉の底。そこは、むせ返るような熱気と、鉄が焦げるような鋭い機械油の悪臭、そして青白い魔力の不規則な明滅が支配する、巨大な狂気のすり鉢だった。足元からは、大地の奥底から響くような重低音が絶え間なく這い上がり、五人の内臓を直接揺さぶってくる。
すり鉢状になった空間の上部をぐるりと取り囲む、分厚い防音ガラスの向こう側。そこには、スラム街で狩り集められた無数の市民や、他国から流れ着いた難民たちが、太い真鍮製のパイプと鎖で文字通り「機械の部品」として繋がれていた。生命力そのものである魔力を強制的に抽出され、彼らの身体は干からび、瞳からは完全に光が失われている。 ガラス越しに降り注ぐ絶望的なうめき声は、物理的な音としては遮断されているものの、空間を満たすおぞましい魔力の波長となって、ゼノリスたちの肌を直接、鋭い針のように突き刺してきていた。
人々の命を削り取って生まれた青白い魔力は、太い管をドクドクと脈打ちながら、生き血のようにこの大魔導炉の底へと吸い降ろされてきている。
ゼノリスの右手のひらに刻まれた火傷の跡と「三つ目の星」の刻印が、この悪辣なシステムに対する激しい怒りに呼応し、白銀の熱を帯びて鋭く瞬いた。
「……俺の故郷のオアシスを枯らした時と同じだ。あいつらは、人の命も、大地も、ただの便利な道具だとしか思ってないんだ……!」
テオが巨大な重盾を握る手をわななかせ、獣の耳を怒りに逆立てて低く唸った。彼が育ったアル・ザハブ南方太陽国の村も、かつて八ヵ国連合の「効率化」という名の下に魔力を吸い尽くされ、滅ぼされた過去を持つ。
「ふざけやがって……。こんな胸糞悪いゴミ掃除になるとはな」
カシムがいつもの皮肉めいた笑みを完全に消し、殺気立った真剣な表情で吐き捨てた。スラム街で泥水をすすって生きてきた彼にとって、頭上で使い潰されている名もなき人々の姿は、決して他人事ではなかった。彼は自らの影を周囲の暗がりへと円形に広げ、大魔導炉の床を底なしの沼のような漆黒の防衛線で染め上げる。彼の影魔法は、かつてより遥かに密度と粘度を増し、絶対的な防壁を形成していた。
「ナディア。この狂ったシステムの魔力供給を断ち切る『急所』はわかるか?」
ゼノリスが凄みのある声で問うと、ナディアが手にした黄金の羅針盤の盤面を覗き込んだ。針は大魔導炉の悲鳴に異常なブレを見せながらも、巨大な真鍮製のパイプ群が滝のように合流している、空間の中央の一点を正確に指し示している。
「……ええ。頭上の階層から吸い降ろされてきた魔力が、最も集中しているポイントがあるわ。あの中央の巨大なメインバルブ……あそこを重力ごと物理的に破壊すれば、強制抽出のプロセスを大元から停止できるはずよ!」
「よし、俺がやる。テオ、カシム、周囲の警戒を頼む。何が来ても、俺がバルブを斬るまでの時間を稼いでくれ」
ゼノリスが黒い剣の刀身に白銀の魔力を纏わせ、巨大なバルブへと力強く踏み込もうとした、その時だった。
パチン、パチン、パチン――。
耳障りなほど正確で、一切の感情の揺らぎを感じさせない冷酷な拍手の音が、広大な大魔導炉の空間に不気味に反響した。
「――相変わらず、非効率で感情的な動きだ。計算式の一つも組み立てられない、お前たちのその無駄だらけの青臭い足掻きには、本当に反吐が出るよ」
防音ガラスの向こう、上層の抽出室から大魔導炉の底へと続く、螺旋状の鉄の階段。
そこを、一人の男がゆっくりと、まるで自らが設計した庭園を散歩する主のように、悠然とした足取りで下りてきた。
仕立ての良い漆黒の燕尾服。髪は一分の乱れもなく油で撫でつけられ、その銀縁の片眼鏡の奥の瞳は、人間の命を帳簿の数字として精査する、冷徹な天秤のような光を宿している。 「お前は……マルクス……!」
ゼノリスが、搾り出すような憎悪を込めてその名を呼んだ。
かつてエーテルガード学園で副学園長を務め、ゼノリスたち鉛クラスを「不良債権」と断じて予算を凍結し、絶望的な特別任務という名の処刑宣告を下した男。だが、学園の古井戸から帝国の遺産を引き継いだゼノリスの圧倒的な「銀色の魔圧」の前に恐怖で這いつくばり、エレアノール学園長によって追放されたはずの彼が、なぜこのギルダー商業公国の、それも心臓部である大魔導炉に立っているのか。
「なぜ私がここにいるのか、という顔だな」
マルクスは階段の途中で立ち止まり、ゼノリスたちを見下ろして、その薄い唇を三日月のように歪めた。
「ここは私の故郷であり、私の思い描く理想の『効率』を体現する、この大陸で唯一の都市だからだよ。……あの忌まわしい学園での屈辱。甘く非合理的な規則に縛られ、お前たちのような不良債権を処分しきれなかった私の失敗。そして何より、この私が無力な平民の魔圧に屈したという忌まわしい記憶……。それを、私はこの地で、豪商連合議会に真の効率を提示することで、見事に清算したのだ」
マルクスは両手を広げ、頭上で魔力を吸い上げられ、干からびていく市民たちをまるで芸術品でも鑑賞するように仰ぎ見た。その表情には、狂気的なまでの自己陶酔が浮かんでいる。
「見ろ、この無駄を削ぎ落とした美しいシステムを!感情で動く非効率な人間の命を、純度の高い『燃料』へと変える究極の装置だ。……お前たちが掲げる青臭い正義や絆など、ここで生み出される莫大な富の前では、金貨一枚の価値もないのだよ」
「……彼らの命を……血の通った人間を、ただの『燃料』だと言うのか……!ふざけるな!」
マルクスの非道な言葉に、ゼノリスは激しい殺意を剥き出しにして吠えた。
その隣で、フィリーネ・ルーツもまた激しい怒りに声を震わせた。
帝国の正統継承者「星の種」である彼女は、自らの白銀の杖を静かに胸元へ引き寄せ、その透き通るような青い瞳に、底知れぬ氷刃のような殺意を宿した。
彼女の足元の鉄板が、漏れ出す冷気によってピキピキと白い霜を広げていく。
「お兄様。あのような外道と、これ以上言葉を交わす必要はありません。私が、あの男の狂った理想も、その穢れた命も……すべて、氷の屑に変えてみせます」
フィリーネの放つ冷徹な殺意と魔力に、マルクスは薄気味悪い笑みをさらに深めた。
「威勢がいいな、フィリーネ。君のその絶大な魔力こそ、私がこの装置のコアとして最も欲していたものだ。一般市民を何千人使い潰すよりも、君一人を『永久機関』としてこの炉に繋ぎ込めば、我がギルダーの富は永遠に約束される」
マルクスの言葉に、ゼノリスの目の色が明確な「殺意」へと変わった。
「だが、ここは甘いルールに守られた学園ではない。私が築き上げた圧倒的な物量がすべてを蹂躙する、残酷な現実だということを教えてやろう」
マルクスが、燕尾服の袖口から見せた指先を、パチンと鳴らす。
その高く乾いた音を合図に、大魔導炉の周囲の暗がりから一斉に赤黒いセンサーの光が点灯し、血の凍るような無機質な殺気が空間を埋め尽くしていった。
大魔導炉のすり鉢状の壁面。その暗闇に穿たれた無数の排熱口やメンテナンスゲートから、耳障りな金属の駆動音を響かせて這い出してきたのは、人間の形を模しながらも、その本質を極限まで殺戮と効率に特化させた『機械化兵団』であった。
彼らの装甲は、ギルダー商業公国が誇る強固な黒鋼で造られており、熱気の中でも艶のない鈍い光を放っている。右腕には分厚い鉄板すらもたやすく貫く回転式の重槍が取り付けられ、左腕には高圧の魔力光線を放つ砲門が備えられていた。その頭部には目や鼻、口といった人間らしい器官は一切存在せず、ただ一条の赤黒いスリット状のセンサーが、冷酷に獲物を捕捉するために不気味な明滅を繰り返しているのみだった。
一体、十体、五十体、百体――。
無機質な金属の足音は瞬く間に膨れ上がり、広大な大魔導炉の底をあっという間に黒い波となって埋め尽くしていく。
何よりもおぞましいのは、彼らの背中に接続された太いチューブだった。そこには、頭上の抽出室で今まさに使い潰されている名もなき市民たちの命そのものである、青白い魔力がドクドクと脈打ちながら流れ込んでいる。機械の冷たい駆動音の中に、まるで搾取された人々の怨嗟の悲鳴が混じって聞こえるかのようだった。
「……これが、お前の言う『圧倒的な物量』か。他人の命を吸い上げて作った操り人形で、自分が強くなったとでも錯覚しているのか?」
ゼノリスは黒い剣を正眼に構え、階段の上から見下ろすマルクスを鋭く睨み据えた。彼の中に宿る『魔王』の破壊の衝動と、『勇者』の守護の意志が、目の前の理不尽な光景に対してかつてないほど激しく共鳴し、右手のひらの『三つ目の星』の刻印を白銀の熱で激しく脈打たせている。
「錯覚? 否、これこそが真理だ」
マルクスは燕尾服の襟を優雅に正し、狂気に満ちた薄い唇を歪めた。
「不確定で、裏切り、感情に振り回される愚かな人間共を、最も合理的で従順な兵器の『燃料』へと変換したのだ。この兵団は痛みも恐怖も知らず、ただ私の命令のみを完璧に実行する。……お前たちのように、絆だの正義だのという非論理的な幻想にすがる『不良債権』には、この無駄の一切ない美しい完成形など到底理解できないだろうがね」
マルクスの眼差しは、眼下の機械化兵団を自らの最高傑作として愛でるかのように陶酔していた。彼にとって、命とは管理されるべき数字であり、消費されるべき資源でしかなかった。
「痛みを知らないだと? ふざけんな」
テオが、巨大な漆黒の重盾をドンッと地面に叩きつけ、獣の耳を怒りにピリッと逆立てた。 「その鉄屑の中に押し込められてる人たちの悲鳴が、俺には嫌ってほど聞こえてるんだよ!痛いって、苦しいって泣いてる匂いが充満してる!お前のその薄汚い理屈ごと、俺の盾で全部叩き潰してやる!」
テオの全身の筋肉が爆発的に膨張し、鋼鉄のような硬度を帯びていく。彼の背中は、これから迫り来る圧倒的な物量の暴力を、仲間には指一本触れさせないという守護の意志を放っていた。
「テオの言う通りだ。こんな悪趣味な玩具、すぐにスクラップにしてやるぜ」
カシムが自らの影を大魔導炉の床一面に深く、濃く広げていく。彼の足元から這い出した漆黒の沼は、ゼノリスたち五人を囲む絶対的な防衛線となり、そこに踏み入る機械の足首を拘束すべく、無数の黒い刃を波立たせていた。
「ナディア。この包囲網、抜け道はあるか?」
ゼノリスが背後へ声をかけると、ナディアは黄金の羅針盤を胸元で掲げ、盤面を高速で回転する光の針を鋭い航海士の瞳で読み取った。
「……三百六十度、完全に塞がれているわ。どのルートを計算しても、必ずあの鉄屑どもの波に飲まれる。……でも、完全に均等なわけじゃない!奴らの動力パイプが集中している右翼側の陣形に、市民から吸い上げた魔力が供給されるタイミングの、ほんのわずかな『遅れ』が生じている箇所があるわ。そこを起点にすれば、陣形を切り崩せる!」
「上等だ。道がないなら、僕たちで切り拓くだけだ」
マルクスが、銀縁の片眼鏡の奥で冷酷な光を瞬かせ、高く手を振り上げた。
「無駄な足掻きを。……私の計算式に、お前たちの生存ルートなど一ミリも存在しない。全機、あの『星の種』の少女以外はプロトコル・デルタを適用。原型を留めぬまで粉砕しろ!」
冷徹な命令が下された瞬間、数百体の機械化兵団が一斉に駆動音を跳ね上げ、ゼノリスたちへ向かって雪崩れ込んできた。
ガシャガシャガシャッという無機質な金属の足音が、大地の底から響く不協和音となって四方八方から迫り来る。赤黒いセンサーの光が乱舞し、無数の重槍が回転を始め、魔力砲が青白い致死の光を収束させていく。
あまりにも暴力的で、感情の入り込む余地のない殺戮の波。大魔導炉の底という逃げ場のないすり鉢の中で、その圧力は通常の戦場とは比較にならないほどの密度を持っていた。
だが、ゼノリスたち五人の瞳に、恐怖の色は微塵もなかった。
「フィリー!」
「はい、お兄様!」
ゼノリスの呼びかけに、フィリーネは白銀の杖を優雅に構え、彼女の周囲の空気だけが、一切の慈悲を切り捨てたような冷たさを帯びて澄み渡った。
「……尊い命を穢す搾取など、私がすべて凍らせて砕きます!凍てつけ――『氷結の絶界』!」
彼女の足元から、絶対零度の冷気が爆発的に広がり、迫り来る機械化兵団の最前列の足元を一瞬にして分厚い氷で大地に縫い留めた。
「俺に合わせろ!一歩も退かねえぞ!」
テオが獣の咆哮を上げ、盾を構えたまま氷で動きの鈍った機械の波へと真正面から突進する。
「乱れ咲け、影の刃!」
カシムの影が生き物のように躍動し、氷を逃れた機体の関節を次々と正確に貫いていく。 「俺たちの命は、お前の帳簿の数字じゃない。……計算式では測れない、俺たちの意地を見せてやる!」
ゼノリスは黒い剣の刀身に白銀の魔力を纏わせ、右翼のわずかな陣形の綻びへ向かって、地を蹴った。
すべてを蹂躙しようと迫る圧倒的な機械の波と、それに抗う五人の若き星屑たち。
冷酷な金属の刃と、彼らが放つ極限の魔力が、大魔導炉の底で激突する――その瞬間、世界を揺るがすような轟音が、機械都市の深淵に鳴り響いた。




