第3話 公安
雨が容赦なく降り注ぐ中、須崎は葬儀会場の駐車場で上司である香山を待っていた。
警察庁での仕事を終え、彼を車に乗せて帰路につこうとした矢先、香山は自身のスマートフォンを一瞥すると、まるで経文を唱えるような抑揚のない声で、「近くの紳士服店まで、今すぐ連れて行ってくれ」と呟いた。
紳士服店から戻った香山は、仕立ての良い紺色のスーツを脱ぎ捨て、吊るしの喪服に着替えていた。
傘も差さず、焦るように助手席に滑り込むと、ビジネスバッグから伊達眼鏡を取り出し装着する。さらに、ワックスで整えられた髪を無造作に崩した。
「誰か亡くなったんですね……。ご愁傷様です……」
須崎は香山の行動からある推測が浮かんだ。彼が変装をするということは、この葬儀に集う人々の中に、公安に配属される以前の彼の素性を知る者がいるのだろう。
事実、香典袋には、彼の本名である「香山」ではなく、筆ペンで「佐藤」と偽名が記されていた。
「ああ。昔お世話になった親戚が亡くなったんだ。本来なら、こんな簡易な変装しかできないくらいなら行かない方がいいと思うんだけど、色々事情があってね」
彼はそう言いながら、私の返事を待たず、カーナビに行き先を入力した。25キロ先の葬儀場だ。
「少しだけ待っていてくれ」
曇り空の下、彼はそう言い残して葬儀場の中へと消えた。上司である香山は、仕事柄か、あるいは性格か、自身のことを直属の部下である須崎にすら詳しく語らない。
だが今回の行動は、あまりにも不自然だった。親戚の葬儀だというのに香典袋に偽名を使うのは、自分の正体を隠したいからだろう。
しかし、あれほど簡素な変装では、彼をよく知る親族の目を欺くのは難しいはずだ。それに、公安に所属していようと、親族の葬儀なら本人として参列するのが自然ではないか。
だとすれば、この会場にいる親族や参列者は、彼の顔や姿をそれほど知らない人々であり、こんな簡単な変装でも誤魔化せる程度の関係性なのだろう。
そして、香山慎之介として姿を現すと何らかの不利益が生じるが、特別な事情があって、偽名を使っても出席せざるを得なかったのだ。
そんなことを考え巡らせていると、香山が戻ってきた。その背後、数歩遅れて中学生ほどの少女が歩いてくるのが見えた。
「佐藤さん、その後ろの女性は?」
須崎は運転席の窓を下げて尋ねた。香山は彼のの耳元に口を寄せ、囁く。
「隠し子」
思わず奇妙な声が漏れそうになったが、なんとか飲み込んだ。あり得ない。香山は28歳だ。少し離れてついてくる少女は、傘も差さず雨に濡れていた。中学生くらいに見える。
「冗談です……よね?」
「さあ?」
香山はにこりと笑うが、目は笑っていない。どちらなんだ、と固まる須崎を気にも留めず、少女を後部座席に促した。
「ごめんね。この顔の怖い運転手は田中っていう僕の友達なんだ」
柔和な笑みを浮かべながら、彼はさらりと嘘をつく。上司の適当さには慣れているが、今回は特に酷いと感じた。
「ご迷惑をおかけして申し訳ありません」
後部座席の少女は、葬儀場の一点を見つめたまま、形だけの謝罪を口にする。
「いやいや、構わないよ」
状況が掴めない須崎は、失言を避けるため、定型文のような返事しかできなかった。
「田中。悪いけど、この子を明神町のこのマンションまで送ってくれ」
香山は車に乗らず、助手席から身を乗り入れてカーナビに行き先を設定する。
「ああ、分かった。佐藤は?」
28歳とは思えないほど若々しく美しい彼は、一瞬だけ須崎を睨み、「聞くな」と牽制するように笑った。
「喪服をクリーニングに出さないと。方向も違うし、僕は後からタクシーで寄るよ」
そう言い残し、上司は私に私用を押し付けて去っていった。彼に、俺この中学生と二人きりですか?と問いたかったが、上司である香山の命令はどんな内容であれ須崎が退けられるものではない。
車を発進させ、バックミラーで後ろを窺うと、制服姿の少女が静かに座っていた。肩に届かない長さの黒髪、どこか冷ややかな印象を与える整った顔立ち。だが、整った容貌ではあるが香山には似ていない。
「今日は大変だったね」
気まずい沈黙に耐えかねて声をかけると、詩織は静かに答えた。
「私の父と母のお通夜だったんです」
同時に亡くなったということは事故か。詩織は須崎の内心を見透かしたように続けた。
「母は病気で。父は事故で。親族は大騒ぎで」
中学生くらいの年齢で両親を亡くした彼女に、どう声をかければいいのか分からない。
「それで叔父が、彼を呼んだんです」
叔父が香山のプライベート用の電話に連絡したなら、彼の素性を知った上で偽名を容認しているのか、あるいは偽名でも来てもらわねば困る状況だったのか。
「あ……ここだね」
香山が指定したマンションに着いた。
小綺麗だが外観から見るに1LDKほどの独身者用のマンションだった。
(中学生を1人で住ませる気なのか...)
と須崎は呆れた。バックミラーを確認すると少女はスマホを確認して少し顔をしかめている。
「ありがとうございます。私はエントランスで待ってます」
彼女は手早く荷物をまとめて車からおりる。中学生にしては、随分としっかりしている。
そんな事を考えていると、こちらの到着を察したかのように上司からの着信が入った。
〇〇〇
佐藤の皮を被った慎之介は詩織を部下の須崎に預けた後、葬儀会場に戻り優一に連れられて、掃除されていなそうな埃っぽい薄暗い部屋に入る。
優一はパイプ椅子に腰掛け穏やかに微笑みつつも、どこか威圧的な雰囲気を漂わせていた。
普段は冷静な慎之介だが、彼の前では苛立ちを隠せなかった。
「いやあ、佐藤君。ずいぶんと手際が良いんだね。詩織君を連れて帰ってくれる部下まで用意しているとは。慎之介らしい。」
優一はどこで知ったのか、親族の中で唯一、彼が公安だと知っている。
慎之介は優一の嫌味に心底煩わしそうに顔をしかめて答えた。
「おじさんには関係ないでしょう。そもそもなぜ今更私に詩織さんを預けるんです。赤子ならまだしも14歳なら引きとってくれる身内がたくさんいると思いますが」
優一は立ち上がり慎之介と対峙する。1枚しかない窓から差し込む雷の閃光が2人の影を濃くする。
「おや、随分と他人行儀な言いようだね。詩織君は自分の子だというのに。彼女が可哀想だ。」
慎之介は長机越しに優一に掴みかかろうとするが、優一は自身に近づいてきた慎之介のネクタイを掴み、彼の体勢を崩した。
古そうな机が軋み、ネクタイが首に食い込む。優一は慎之介の顔を近くまで引き寄せて、苦しむ彼に呟いた。
「そんな短略的でよく国家の犬務まるな。仕事が忙しくて育てられないなら香山家に戻って来れば良い」
慎之介は身を引こうとするが、優一は彼の頸動脈を絞めている物を離さない。
「お前のその顔と頭はいかようにでも使い道がある。国家の犬も香山家の傀儡もそう変わらないだろう。なぜそうまでして拒むんだ。」
「そもそも詩織さんは私の事を知らないでしょう。いくら養父母が亡くなったといえ良家の中学生の女の子を面識のない独身の男にあてがうなんてどうかしてるんじゃないですか。」
慎之介は冷静を装うが、自身の拍動と頭が焦げていくような感覚に思考がまとまらなくなる。
そんな彼を横目に優一が畳みかける。
「ああそういえば、14年前の鑑定ではお前と詩織くんには血縁関係が認められなかったな。詩織君が本当は誰の子で、お前がなぜ自分の子だと私に言ってきたのか教えてもらおうか」
慎之介は、こいつご丁寧にDNA鑑定までしていたのか。と思ったが、思考力の落ちた頭では言い返すのも難しく、預かることを承諾した。
「分かりました。私が面倒を見ます」
そう答えると優一は面白くなさそうに鼻を鳴らしてネクタイから手を離す。
慎之介がネクタイを直し立ち去ろうとしたら、優一は彼を流し見て言う。
「詩織君は聡い上に鋭い。お前も気をつけた方がいいぞ」
その言葉を聞き終わる前に慎之介はさっさと部屋を出ていった。
1人薄暗い部屋に残された優一は片方の口角をあげて呟いた。
「誰に似たんだか」
慎之介が部屋を出ると、ドアが重たく閉まる音が響いた。外の雨が強まって、雷の低い唸りが遠くで聞こえる。
優一は埃だらけの椅子に座り直し、静かに笑った。