14歳の”隠し子”
庁舎を出た須崎透は、夜気に触れて、ようやく上司の軽口から解放された。
スーツの内ポケットで震えたスマートフォンを取り出すと、ニュースアプリの通知が目に飛び込む。
──「昨夜、大手製薬グループ社長・佐田頼仁氏、都内で自損事故死」
スクロールすると、硬い文面が並んでいた。
──国内でも有数の規模を誇る製薬グループ。その現社長が中央道で運転中、ガードレールに激突し死亡。警視庁は運転操作の誤りとみて調べを進めている──
須崎は眉をひそめた。
この会社なら誰でも知っている。病院の棚に必ず並ぶ薬の数々。
それでも、そんな企業のトップさえ、事故ひとつで終わるのだ。
「……人の命なんて、そんなものか」
小さく呟き、画面を閉じる。
そのとき、背後から軽やかな声がした。
「須崎くん」
振り返ると、須崎の顔が少しひきつった。
香山慎之介——。警備企画課の上司であり、軽口の多い彼は、須崎にとって苦手な相手だった。
香山は須崎の顔を見ると、少し首をかしげて柔らかく笑った。
その姿は、少年にも女にも見える。
顔の線は細く、光の加減で柔らかくも鋭くも見えた。
白磁のような肌。淡い光を宿した瞳。
髪は風に揺れ、輪郭がかすむ。
まるで絵画から、人間を誑かしに飛び出してきたような、美しさだった。
その美貌を持ちながら、彼も須崎と同じ”現代の官僚”だった。
「須崎くんって、驚いてもあまり表情変わらないんだね」
香山は須崎の顔を覗きこみ、鈴のような声で笑う。
冗談が通じない須崎とは対照的に、香山は軽口の多い人間だ。
だが、この顔で笑われると、怒ることすら億劫になる。
だから誰も彼を咎めない。
「……香山課長補佐」
無意識に姿勢を正し、須崎は堅い声で呼んだ。
香山は口角を上げ、柔らかな声音で言う。
「いやだなぁ。君も今年から課長補佐じゃないか。それに君は歳上だし。かしこまられると僕が緊張するよ」
そう言って、声を立てて笑う。
その表情は、絵に描いたように穏やかだった。
「いえ、そういうわけには……」
須崎が言いかけると、香山は目を細めて話を進めた。
「ねぇ、須崎くんって今日車? 送っていってほしい場所があるんだ」
上司の頼みを断る理由は思いつかない。
須崎は頷き、ハンドルを握った。
香山は助手席へ座る前に、スーツの裾を軽く整えた。
その拍子に、手の甲がシートとドアの隙間をかすめた。
しかし、須崎は気にも留めなかった。香山の身だしなみは常に綺麗だ。軽薄ではあるが、几帳面なのだろう。
「君の車、いい匂いだね」
何気ない調子でそう言い、香山は腰を下ろした。
◯◯◯
夜の都心を走る車内は、静まり返っていた。
香山は助手席で窓の外を眺めたまま、ほとんど口を開かない。
普段よく喋る彼を知る須崎は、少し居心地悪そうにする。
香山を見ることすら疲れてしまったのか、須崎は街を行き交う人々に視線を向けた。
それでも、視界の端に映る横顔を完全に無視することはできない。
この国で最も人が集まるこの場所ですら、彼ほど美しい人間はいない。
そんなはずはないと、須崎は小さく笑いそうになった。
「……どちらまで?」
耐えきれず尋ねると、香山は視線を動かさぬまま答える。
「すぐそこだよ」
ナビの指示どおりに曲がると、白い花輪の並ぶ建物が見えた。
葬儀場――。
須崎は思わずハンドルを握る手に力を込めた。
なぜ、こんな場所に自分を連れてきたのか。
車を止めると、香山はシートベルトに手を掛け、穏やかに微笑んだ。
「数分だけ」
カチッ、と金具の外れる音が響いた。
その音と、香山の笑い声だけが車内に残る。
須崎は、現実の輪郭が少し溶けていくのを感じた。
やがて数分後、香山が戻ってきた。
その後ろには、一人の少女。
黒い喪服に包まれた華奢な体。
手入れされた髪は艶やかだが、瞳は年齢に似つかわしくないほど澱んでいる。
背丈からして、中学生くらいだろうか。
香山は何も言わず、少女を置き去りにして運転席へと向かった。
須崎は思わず窓を開ける。
「……香山さん、あの女性は?」
声が驚くほど上擦った。
香山は首を傾げ、窓越しに顔を寄せる。
睫毛の影が落ち、吐息が夜気に混ざる。
「——隠し子?」
軽く息を吐くように呟く。冗談のような口調。だが、その瞳は笑っていなかった。
「か、くし……ご?」
須崎が復唱した瞬間、言葉が現実の重みを帯びた。
完璧な人間に見えていた。経歴も、容姿も、笑い方さえも。
それが音を立てて崩れていく。
香山は二十八歳。
中学生の隠し子など——現実であっていいはずがない。
いや、違う。
そんな香山は、あり得ない。
彼は完璧で、冷静で、誰よりも正しかった。
そうでなければ、世界の均衡が崩れてしまう気さえした。
須崎の喉の奥で、乾いた息が笑いのように漏れる。
冗談なのか、本気なのかは、もうどうでもよかった。
香山はそんな須崎に目もくれず、葬儀場の灯りに背を向けて歩き出した。
『この子を送って行って欲しい』
それだけを残して。
後部座席には、さきほどの少女が座っていた。
黒いワンピースに身を包み、無表情のまま窓の外を眺めている。
香山と同じ影をまとっているようで、その存在自体が不穏に見えた。
「ねえ」
唐突な声に、須崎はハンドルを握る手を強めた。
ルームミラー越しに少女を見る。
年齢にそぐわぬ冷たい瞳が、真っすぐにこちらを射抜いてくる。
「……あなた、誰?——首輪の持ち主?」
意味を測りかねた須崎は、無意識に訂正する。
「私は、警察庁警備企画課の須崎です」
少女は鼻で笑い、肩をすくめた。
「ただの仕事仲間ね。……まあ、“飼い主”よりはマシかもしれないわ」
皮肉を含んだ声が、車内の空気を冷たく震わせた。
「──君、彼をなんだと思ってるんだ」
須崎が恐る恐る尋ねる。
「そうね。本来、男性に使う言葉じゃないけど……“魔性の男”ってところかしら」
「魔性の男って……」
ナビの指示に従い、車を停める。
目の前には、香山が指定した高層マンションがそびえていた。
少女はシートベルトを外し、後部座席から身を乗り出す。
髪がふわりと揺れ、須崎の耳元をかすめる。
「私、あの人と暮らすくらいなら、あなたの……」
囁きを区切り、いたずらめいた笑みを浮かべる。
「“飼い犬”になった方が、まだマシだわ」
須崎は短く息を吐き、低く返した。
「あまり大人をからかうな。傷は、自分に返ってくる」
少女は首を傾げ、穏やかに笑った。
「……優しいのね、お兄さん。あの男と正反対」
須崎はバックミラーから視線を外し、沈黙した。
少女が車を降りる。
ドアの閉まる音が、夜に溶けた。
その瞬間、スマートフォンが震える。
香山慎之介からのメッセージだった。
《”今日のこと、誰にも言わないでね”》
画面を見つめたまま、須崎は硬直した。
——地獄への入り口は、いつだって穏やかな声で叩かれる。
須崎はハンドルを強く握り、額を手の甲に押し付ける。
「……適当な理由をつけて、帰れば良かった」
いまさら後悔しても——遅かった。




