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公安のファムファタールは暴かれたい  作者: 篠川織絵
第一章 麗しい官僚の隠し子

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3/10

14歳の”隠し子”

庁舎を出た須崎透(すざきとおる)は、夜気に触れて、ようやく上司の軽口から解放された。


スーツの内ポケットで震えたスマートフォンを取り出すと、ニュースアプリの通知が目に飛び込む。


──「昨夜、大手製薬グループ社長・佐田頼仁(さたよりひと)氏、都内で自損事故死」


スクロールすると、硬い文面が並んでいた。


──国内でも有数の規模を誇る製薬グループ。その現社長が中央道で運転中、ガードレールに激突し死亡。警視庁は運転操作の誤りとみて調べを進めている──


須崎は眉をひそめた。


この会社なら誰でも知っている。病院の棚に必ず並ぶ薬の数々。

それでも、そんな企業のトップさえ、事故ひとつで終わるのだ。


「……人の命なんて、そんなものか」


小さく呟き、画面を閉じる。

そのとき、背後から軽やかな声がした。


「須崎くん」


振り返ると、須崎の顔が少しひきつった。

香山慎之介(かやましんのすけ)——。警備企画課の上司であり、軽口の多い彼は、須崎にとって苦手な相手だった。


香山は須崎の顔を見ると、少し首をかしげて柔らかく笑った。

その姿は、少年にも女にも見える。


顔の線は細く、光の加減で柔らかくも鋭くも見えた。

白磁のような肌。淡い光を宿した瞳。


髪は風に揺れ、輪郭がかすむ。


まるで絵画から、人間を(たぶら)かしに飛び出してきたような、美しさだった。


その美貌を持ちながら、彼も須崎と同じ”現代の官僚”だった。


「須崎くんって、驚いてもあまり表情変わらないんだね」


香山は須崎の顔を覗きこみ、鈴のような声で笑う。


冗談が通じない須崎とは対照的に、香山は軽口の多い人間だ。

だが、この顔で笑われると、怒ることすら億劫になる。

だから誰も彼を咎めない。


「……香山課長補佐(かちょうほさ)


無意識に姿勢を正し、須崎は堅い声で呼んだ。


香山は口角を上げ、柔らかな声音で言う。


「いやだなぁ。君も今年から課長補佐じゃないか。それに君は歳上だし。かしこまられると僕が緊張するよ」


そう言って、声を立てて笑う。

その表情は、絵に描いたように穏やかだった。


「いえ、そういうわけには……」


須崎が言いかけると、香山は目を細めて話を進めた。


「ねぇ、須崎くんって今日車? 送っていってほしい場所があるんだ」


上司の頼みを断る理由は思いつかない。

須崎は頷き、ハンドルを握った。


香山は助手席へ座る前に、スーツの裾を軽く整えた。

その拍子に、手の甲がシートとドアの隙間をかすめた。


しかし、須崎は気にも留めなかった。香山の身だしなみは常に綺麗だ。軽薄ではあるが、几帳面なのだろう。


「君の車、いい匂いだね」


 何気ない調子でそう言い、香山は腰を下ろした。




◯◯◯





夜の都心を走る車内は、静まり返っていた。


香山は助手席で窓の外を眺めたまま、ほとんど口を開かない。


普段よく喋る彼を知る須崎は、少し居心地悪そうにする。


香山を見ることすら疲れてしまったのか、須崎は街を行き交う人々に視線を向けた。


それでも、視界の端に映る横顔を完全に無視することはできない。



この国で最も人が集まるこの場所ですら、彼ほど美しい人間はいない。

そんなはずはないと、須崎は小さく笑いそうになった。


「……どちらまで?」


耐えきれず尋ねると、香山は視線を動かさぬまま答える。


「すぐそこだよ」


ナビの指示どおりに曲がると、白い花輪の並ぶ建物が見えた。

葬儀場――。


須崎は思わずハンドルを握る手に力を込めた。

なぜ、こんな場所に自分を連れてきたのか。


車を止めると、香山はシートベルトに手を掛け、穏やかに微笑んだ。


「数分だけ」


カチッ、と金具の外れる音が響いた。

その音と、香山の笑い声だけが車内に残る。


須崎は、現実の輪郭が少し溶けていくのを感じた。



やがて数分後、香山が戻ってきた。

その後ろには、一人の少女。


黒い喪服に包まれた華奢な体。


手入れされた髪は艶やかだが、瞳は年齢に似つかわしくないほど(よど)んでいる。


背丈からして、中学生くらいだろうか。


香山は何も言わず、少女を置き去りにして運転席へと向かった。

須崎は思わず窓を開ける。


「……香山さん、あの女性は?」


声が驚くほど上擦った。


香山は首を傾げ、窓越しに顔を寄せる。

睫毛の影が落ち、吐息が夜気に混ざる。


「——隠し子?」


軽く息を吐くように呟く。冗談のような口調。だが、その瞳は笑っていなかった。


「か、くし……ご?」


須崎が復唱した瞬間、言葉が現実の重みを帯びた。

完璧な人間に見えていた。経歴も、容姿も、笑い方さえも。

それが音を立てて崩れていく。


香山は二十八歳。

中学生の隠し子など——現実であっていいはずがない。


いや、違う。

そんな香山は、あり得ない。


彼は完璧で、冷静で、誰よりも正しかった。

そうでなければ、世界の均衡(きんこう)が崩れてしまう気さえした。


須崎の喉の奥で、乾いた息が笑いのように漏れる。

冗談なのか、本気なのかは、もうどうでもよかった。


香山はそんな須崎に目もくれず、葬儀場の灯りに背を向けて歩き出した。


『この子を送って行って欲しい』


それだけを残して。




後部座席には、さきほどの少女が座っていた。


黒いワンピースに身を包み、無表情のまま窓の外を眺めている。


香山と同じ影をまとっているようで、その存在自体が不穏に見えた。


「ねえ」


唐突な声に、須崎はハンドルを握る手を強めた。

ルームミラー越しに少女を見る。


年齢にそぐわぬ冷たい瞳が、真っすぐにこちらを射抜いてくる。


「……あなた、誰?——首輪の持ち主?」


意味を測りかねた須崎は、無意識に訂正する。


「私は、警察庁(けいさつちょう)警備企画課(けいびきかくか)の須崎です」


少女は鼻で笑い、肩をすくめた。


「ただの仕事仲間ね。……まあ、“飼い主”よりはマシかもしれないわ」


皮肉を含んだ声が、車内の空気を冷たく震わせた。


「──君、彼をなんだと思ってるんだ」


須崎が恐る恐る尋ねる。


「そうね。本来、男性に使う言葉じゃないけど……“魔性の男”ってところかしら」


「魔性の男って……」


ナビの指示に従い、車を停める。

目の前には、香山が指定した高層マンションがそびえていた。


少女はシートベルトを外し、後部座席から身を乗り出す。

髪がふわりと揺れ、須崎の耳元をかすめる。


「私、あの人と暮らすくらいなら、あなたの……」


囁きを区切り、いたずらめいた笑みを浮かべる。


「“飼い犬”になった方が、まだマシだわ」


須崎は短く息を吐き、低く返した。


「あまり大人をからかうな。傷は、自分に返ってくる」


少女は首を傾げ、穏やかに笑った。


「……優しいのね、お兄さん。あの男と正反対」


須崎はバックミラーから視線を外し、沈黙した。


少女が車を降りる。

ドアの閉まる音が、夜に溶けた。




その瞬間、スマートフォンが震える。

香山慎之介からのメッセージだった。



《”今日のこと、誰にも言わないでね”》



画面を見つめたまま、須崎は硬直した。


——地獄への入り口は、いつだって穏やかな声で叩かれる。


須崎はハンドルを強く握り、額を手の甲に押し付ける。


「……適当な理由をつけて、帰れば良かった」


いまさら後悔しても——遅かった。


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