第四話 弔花
翌日──。
まるで昨日の出来事など初めからなかったかのように、空気は澄みわたり、風は軽い。
現実がわざと明るく振る舞っているような、爽やかな日だった。
その爽やかさが、須崎にとっては不快だった。
昼休み。須崎は無心で、安価なカップ麺にお湯を注いでいた。
警備企画課のオフィスでは、昨夜のニュースについて談義が行われている。
最初に話題を出したのは、課内最年少の林湊だった。
華奢な身体に、くりっとした目。黙っていれば小動物のようにも見えるが、口を開くとだいたい余計なことを言う。
「ネットニュース見ました? 佐田製薬の社長、事故で亡くなったらしいですよ!?」
その雑な話題に、律儀に反応してやったのは佐藤大地だった。
彼はプロテインバーを齧りながら、目を丸くする。
「え、マジ?」
そんな佐藤と林を見て、ため息をつきながら箸を止めたのは、佐藤と同期である——岡田誠司だ。岡田は左手でメガネの位置を直した。
「中央道で単独事故。ガードレールに突っ込んだらしい。昨日ニュースでやってただろ。お前ら官僚なんだから、ニュースくらい見ろよ」
岡田の口から出る言葉は辛辣だが、常に正論である。
「社長自ら運転してたって、珍しいね」
岡田の言葉をやんわりとかわし、佐藤はプロテインバーが入っていた袋をゴミ箱に放り込み、ニュースアプリを開いて、事故の詳細を確認する。
林はコンビニで買ったシュークリームの包装をちぎりながら、深刻そうに呟く。
「製薬会社ってことは……薬漬けだったり?」
官僚にはあるまじき、不謹慎な一言であった。
岡田が弁当のシャケを、箸で突っつきながら鼻で笑う。
「陰謀論者かよ」
須崎は麺をすすりながら部下たちの雑談を聞き流していた。話題にあがっている事故は、須崎達の管轄でもなければ、社長と顔見知りというわけでもない。
──ただ、1人の大手社長が、事故という形でこの世から消えただけである。
「ただいま〜」
そんな中、香山が警備企画課のオフィスへと戻ってきた。確か、課長から話があるとかなんとかで、席を空けていた。
彼は、席へ戻っても書類整理をしている。昼食を摂る気配は無かった。
それに気がついた、林が尋ねる。
「あれ〜?香山さん、お昼食べないんすか?」
香山は持っていたペンを、柔らかそうな、形の良い唇に押し当てながら答える。
「ほら、昼食抜いたらコスパ良いでしょ? 時間もお金も浮くし」
岡田が鼻で笑った。
「部下には、睡眠と食事を削るなってよく言うのに、自分の健康には我関せずですよね、香山さん」
香山は軽く笑って言った。
「僕は燃費良いからね。あと、”養育費“がさ〜」
須崎は飲んでいたコーヒーでむせた。
香山の言葉に1番早く反応してしまった。いや、反応を返すつもりは無かった。ただ、その”養育費”という言葉を聞いた瞬間、コーヒーが気管へ流れ込んだのだ。
激しく咳き込む須崎に対して、林がまたもや馬鹿な事を言い出す。
「え!えっ!? その須崎さんの反応もしかして、須崎さんと香山さんの子!? 」
須崎が咄嗟に怒鳴る。
「馬鹿な事ばかり言うな! 大体、生物学上不可能だろ! 」
岡田が口を押さえて震える。噴き出さないように耐えているのである。彼は口を押さえたまま喋る
「......林。お前、そんなに馬鹿で、どうやってここに入庁したんだ......」
佐藤も、林の馬鹿な発言に耐えられず、大笑いしながら林の発言を修正する。
「林くん......。そこは相場──”前妻との子”とか、せめて”隠し子”でしょ」
林が不貞腐れながら、答える。
「えぇ、でも、須崎さんめちゃくちゃ動揺してたじゃないですかぁ」
大笑いする部下達を前に、香山は肘をつきながら、不服そうに口を尖らせる。
「嫌だな。僕にそんな子がいるわけないでしょ。知人から預かった"飼い猫"の話だよ」
“飼い猫”その言葉に、須崎以外は納得した。
しかし、須崎はそれを聞いて、頭を強く殴られた気分になった。
香山は会議資料を印刷するため、席を外そうと立ち上がる。
ふいに、香山と須崎の目があった。香山の目は静かに須崎を見下ろしていた。
香山が去ると、残された空気に微妙な笑いが漂った。
何気なく、佐藤が口を開いた。
「香山さん、高そうなスーツ着てるのに金欠なんですかね」
岡田が弁当のゴミを片付けながら笑う。
「見栄張りたいタイプなんだろ。上に行く人間はだいたいそういうもんだ」
林は未だ能天気なことを言う。
「香山さん、犬派なんすかね? やっぱり猫派なんすかね? 」
須崎は無言のまま、コーヒーの水面を見つめた。
脳裏に、昨夜の少女の顔がよぎる。
黒い喪服、あの淀んだ瞳、年齢不相応な発言。
香山のすべてが不穏に見えた。
◯◯◯
午後9時ーー。この時間帯にもなると庁舎の明かりはまばらになっていた。
須崎は、少し前に起きた爆破テロ未遂の報告書を仕上げるため、警備企画課のオフィスに1人残り作業をしていた。
香山のデスクには、鞄とジャケットが置かれており、帰宅している様子は無かった。
須崎は強烈な眠気に襲われ、一度水で顔を洗おうと立ち上がる。
蛍光灯の灯りがまばらに残る廊下を歩いていると、香山が壁に寄りかかり、普段の柔和な表情からは考えられないほど硬い顔でスマホを見ていた。
歩いてきた須崎に気づき、香山は途端にいつもの軽薄な微笑みを浮かべる。
「お疲れ様。まだ残ってたんだ、須崎くん」
いつもと変わらないトーンだった。
だが今夜は、その笑みの奥がどこか疲れて見えた。
「お疲れ様です。香山さん」
「昨日は急にごめんね。あの子、少し事情があって......」
「……事情、ですか」
須崎は言い淀みながら視線を下げた。
口にすべきか迷い、それでも問わずにはいられなかった。
「香山さん、昨日の少女について、確認させてください」
「確認?」
香山は一瞬だけ目を瞬かせた。
須崎が続ける。
「身元も事情も説明せず、未成年者を第三者に送らせるのは、通常の対応ではありません」
香山は吹き出すと、わざとらしく後ろで腕を組み、須崎の顔を覗きこむ。
「須崎くん、僕を事情聴取する顔してる」
「必要なら、そうします」
「怖いなぁ。僕、悪い大人になっちゃう?」
「いえ、まだそうと決まった訳では......」
香山は笑いながら、須崎の前に立った。
一歩、距離を詰める。
「君ってさ、正義を語るときの顔が綺麗だね」
そのまま、香山は少し背伸びをして、須崎の頬に軽く触れた。
指先が熱を孕んでいる。
「その顔で僕を責めないで。……見惚れちゃうから」
彼の袖口から漂う香りが、須崎の鼻腔をくすぐる。百合の甘い残香に、サンダルウッドの乾いた香りが滲む。
須崎は、呼吸を忘れた。ほんの数秒の接触なのに、体が強張る。香山は手を離し、何事もなかったように背を向けた。
「やだなぁ。冗談だよ、須崎くん。……全部、冗談」
香山の香りだけが、夜の廊下に取り残された。
須崎は、彼の残渣に包まれながら、なぜか昔のことを思い出す。妹が中学生の時、彼女の同級生が亡くなったのだ。その際、妹が一本の百合を手にして言っていた。
「──百合の花言葉は純潔、──高貴な品性。1本だと......死者への追悼だったか」
どうして今そんなことを思い出したのか、須崎にも分からなかった。
ただ、香山の袖口に残った甘い匂いだけが、いつまでも鼻の奥に残っていた。




