第二話 佐田製薬社長死亡
「お疲れ様です」「お先に失礼します」
須崎は何度も頭を下げながら、ようやく庁舎の出入口にたどり着いた。
自動ドアを抜けて、春の夜気を浴びる。
須崎は足を止め、深く息を吸い込んだ。
冷えた空気が鼻腔から肺に流れていく。頭が冴えた気がした。
香山が課に来てから、妙に視線が気になるようになった。
正しく言えば、香山が視線を集め、その余波で自分まで見られている──そんな感覚だ。
気づけば、須崎の足は駐車場とは真逆の方向へ向かっていた。
横断歩道の向こう側、多色の電飾、白く灯った店内、官僚と思しき人間が小さな袋を下げて自動ドアから出てきていた。
コンビニまであともう少しの距離だった。点滅する青信号。急いで渡ろうとした時──胸ポケットに入ったスマホが小さく震え、足を止めた。信号は赤に変わる。
彼は溜息をついた。
ジャケットとシャツの間に手を入れて胸あたりを探り、スマホを取り出す。
ニュースの速報だった。通知から内容は分からない。
念のために速報通知をオンにしてはいるが、役に立った試しはない。
信号待ちの持て余した時間を埋めるためにスマホのロックを外した。
『──佐田製薬社長死亡』
最初に目に入った文言はそれだった。呼吸が浅くなる。
いつ、どこで、なぜ──。そのような疑問符のついた言葉だけが須崎の頭を駆け巡る。
汗ばんだ手で画面をスクロールして記事を読み進めると、事故の詳細が記されていた。
『一昨日未明、中央道で運転中、ガードレールに激突し死亡。警視庁は運転操作の誤りとみて調べを進めている』
今日、香山が持ってきた資料には、佐田製薬の名があった。
だが、その代表者が一昨日未明に死んでいたことには、誰も触れなかった。
触れなかったのか。
それとも、触れられなかったのか。
須崎の横にいた人達は前へ流れ始める。けれど、彼の足は動かなかった。
「そうだ、香山──」
昼休みの香山の言葉を思い出した。
「その話、そこまでにしようか」──そう、香山は知っていたのかもしれない、この一件を。
ではなぜ、香山と同部署、同役職の須崎に情報がまわって来なかったのか。一定以上の人間にだけ知らされ、箝口令が敷かれているのだとしたら──。なぜ香山は、わざわざそれを匂わせるような発言をしたのか。
その瞬間、背後に気配を感じる。
「ねぇ、青信号だよ」
背後から落ちたその声を、須崎の脳はすぐに現実として処理できなかった。
喉の奥がひきつり、えずく寸前のような上擦った声が漏れた。
「......香山さん」
須崎が振り返ると香山は笑っていた。いつもと変わらない顔で。
「スマホ見てると危ないよ。後ろとか……ね?」
香山は電柱に寄り掛けた体を起こして須崎に歩み寄る。
信号は再度、赤になった。
「あぁ、また赤になっちゃった。……渡れないね、須崎くん」
彼は須崎の後ろでふふっと笑う。
須崎は、佐田製薬の件を尋ねようとした。
「あの、香山さん──」
香山は須崎の言葉を遮る。
「須崎くん、今日って車?」
風が吹いた。香山の髪が彼の輪郭を霞める。
須崎は焦りに煽られて、噛み合わない返答をしてしまう。
「いえ、コンビニに。あぁ、いや──」
須崎が額を押さえると、香山は首を傾げた。
香山の視線が、須崎のポケットと、そのこわばった指先をなぞる。
「コンビニ? 煙草なら持ってるけど」
その言い方は、質問ではなく断言に近かった。
須崎は顔を背けた。
いま、その言葉だけで喉が焼けるように疼く。
「......車ですが」
「そっか、乗せていって欲しい場所があるんだ。タクシー捕まらないからさ」
今の須崎に、彼の頼みを断る理由は思いつかなかった。
「いいですけど……。どちらまで」
香山は承諾を得ると、くるりと踵を返し須崎に背を向けた。
「葬儀場まで。……間に合わないけど、別にいいよね」
香山は須崎の返事を待たず歩き出す。
葬儀場──誰かの通夜だろうか。須崎が庁舎を出たのが午後八時半頃、すでに通夜が終わっている事は確かだった。
それでも香山は向かうつもりらしい。
須崎はかける言葉も思いつかず、青になった信号を背にして香山の後ろを歩いた。
ピッ──車の解錠音が響く。
ハンドルに触れた須崎の指先が、わずかに震えていた。
須崎が運転席に乗り込むと、香山も何の躊躇もなく助手席へ腰掛けた。
「車の中、綺麗だね。……普段から誰も乗せてないの?」
香山はそう言いながら、シート脇に片手を伸ばし、ベルト金具の位置を直すような、取るに足らない仕草をとる。
須崎は図星をつかれ、気まずそうに首を傾げる。
「えぇ……まあ」
「几帳面なんだ。僕も散らかさないようにするよ」
香山は軽く笑い、何事もなかったかのように指先を戻した。
須崎はその言葉の意図が読めず、乾いた笑いが漏れる。
「別に……散らかすような事、しないでしょう」
助手席を横目に見ると、香山はネクタイを緩めて、自身の鞄を探って、黒い布状の筒を取り出す。弔事用のネクタイだった。彼は赤いネクタイを緩めながら口を開く。
「須崎くん、通夜ってさ……あれ、半分は“弔いに来たよ”っていう証拠づくりだと思わない?」
須崎は今まで葬儀に参加する意味など考えた事もなかった。
香山の言葉は少し極端ではある。だが冠婚葬祭というのは、感情とは切り離され、出席する“行事”として成立しているのもまた事実だと思った。
「それは事実ですが……。それでも出席するのは遺族のためでしょう。形だけでも救われる人は多いですから」
香山はその答えに、特に反論も興味も示さず、視線をフロントガラスへ向けた。
「着いたね」
かすかな違和感を感じた。
香山の視線の先にあるのは葬儀場というより、重厚な美術館に近い建物であった。
都心の一等地に、これだけの敷地を確保した会館があることに、須崎はわずかに驚いた。
葬儀場に近づくにつれ、須崎の違和感は色濃くなっていく。
駐車場の入り口には警備員が立っており、黒塗りの車が途切れず、来場者の身分を示すように同じメーカーの高級車ばかりが目につく。
入口には、官僚である須崎でも名前を見れば分かる政治家や企業トップの花輪が並んでいる。
会場や花輪の数で須崎は分かった。これは一般人の通夜ではない。正式な社葬ではないにせよ、政財界の人間が弔意を示すために集まる、事実上それに近い場だった。
この規模の通夜を行える人物は限られている。直近で亡くなった者もまた限られている──。
須崎は香山に尋ねた。
「失礼ですが、どなたの葬儀なんでしょうか」
本来、このような不躾な質問を、これから弔問しに行く上司へ尋ねたりはしない。
けれども、それを差し置いてでも知りたかったのだ。
香山はあっけらかんとした口調で答える。
「佐田頼仁さん──佐田製薬の社長だよ。須崎くんもニュースで見たんじゃないの?」
やっぱり、といった言葉が喉から出かけた。
香山はそんな人物の通夜に遅刻しているにも関わらず落ち着きすぎているように見えた。
須崎は思わず語気を強めてしまう。
「今からじゃ間に合いませんよ。なぜ早退しなかったんですか?」
香山は一瞬、須崎の叱責に目を丸くしたが、すぐに微笑みシートベルトの金具に指をかける。
「──だって、僕が早退したところで彼が生き返るわけじゃないでしょ。須崎くんって、目上の人には律儀なんだね」
目上の人には律儀──。そんな香山の言葉が須崎の胸に刺さった。香山はシートベルトを外し、鞄の中から濃い紫色の袱紗だけを取り出した。
「すぐ戻ってくるからさ、少しだけ待っててくれない?」
口では頼みの形を取っているが、鞄を置いていこうとしているあたり須崎に有無を言わせる気がない事をうかがわせた。
「……分かりました」
「助かるよ。......あぁ、待ち時間暇だよね」
香山はそう言って自身の胸元を探りなにかを取り出した。それを笑顔で須崎の目の前に差し出す。差し出されたのは紙煙草だった。
「僕ので良ければ」
須崎は条件反射的に手のひらを向けた。
「......いえ、今は吸ってないので」
香山は面白そうに目を細め、“それ”を胸ポケットへ戻した。
「そう、偉いね。じゃあ、待っててね」
須崎は葬儀場に消えていく香山の背中を眺めた。
あの男は、最初からここへ来るつもりだった。そのための黒いネクタイも、袱紗も、すべて持っていた。
なのに、なぜ自分を連れてきたのか。
胸の騒めきを無視できず、須崎はスマホを取り出す。検索窓に、ゆっくりと「佐田製薬」と打ち込んだ。




