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公安のファムファタールは暴かれたい  作者: 篠川織絵


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第十三話 架空取引

黒い扉の内側には、紙ばかりが詰まっていた。


現金も、貴金属も、印鑑もない。

代わりに、茶色く縁の擦れた封筒と、薄いファイルが、隙間なく重ねられている。


佐田頼仁(さたよりひと)という男が、最後まで抱えていたもの。

娘にも、妻の部屋にも、会社にも置けなかったもの。


それらは、声を持たないまま金庫の奥に並んでいた。


詩織(しおり)は何も言わなかった。

ただ、取っ手を握っていた指だけが、少しずつ白くなっていく。


須崎(すざき)はその手を見て、静かに言った。


「一度に全部出さないでください。順番に確認しましょう」


香山(かやま)だけが、金庫の中を見ていなかった。


彼は詩織を見ていた。

まるで、書類の中身よりも、それを見た彼女の顔の方を確かめているようだった。


須崎は、その視線を見なかったことにした。

今は、そこに踏み込むべきではない。


「一番上の封筒から」


詩織は小さく頷いた。

返事はなかった。


金庫の中から、茶色い封筒が一つ取り出される。

封はされていなかった。何度か開けられたのか、口の部分だけが少し柔らかくなっている。


「机の上に置いてください」


須崎が言うと、詩織は言われた通り、封筒を頼仁の机の上に置いた。


中から出てきたのは、数枚のコピー用紙だった。


須崎はすぐには触れなかった。

上から紙面を覗き込む。


振込明細の写し。

支払依頼書らしき表。

取引先一覧。

請求書のコピー。


どれも一見、会社で日常的に処理されている書類に見えた。


だからこそ、須崎は眉をひそめた。


綺麗すぎる。


書式が整っている。

押印欄もある。

名目もそれらしい。


調査委託費。

試験補助業務費。

物流調整費。

技術資料作成費。


いずれも、外から見れば説明がつきそうな言葉だった。

だが、説明がつきそうな言葉ばかりが並んでいること自体が、須崎には不自然に見えた。


「……須崎さん?」


詩織が不安そうに呼ぶ。


須崎は一枚目を指差した。


「この会社名に見覚えはありますか」


詩織は紙面を覗き込んだ。


「ありません。佐田製薬の取引先ですかね」


「資料上は、そう見えます」


「資料上は?」


須崎は答えず、二枚目に視線を移した。


会社名は違う。

だが、所在地の一部が似ている。

電話番号の市外局番も同じ。

代表者名は別人。


それなのに、請求書の書式配置が妙に揃っていた。


須崎は三枚目、四枚目と確認する。


金額は、一件ごとには極端に大きくない。

だが、複数回に分けて支払われている。時期も近い。名目だけが少しずつ変えられている。


「……同じ人間が作った可能性があります」


須崎は低く言った。


詩織の顔がこわばる。


「どういう意味ですか」


「まだ断定はできません」


須崎は先にそう言った。

詩織が飛びつきそうな言葉を、あらかじめ押さえるように。


「ただ、複数の外部業者へ支払いが行われたように見える資料があります。ですが、取引先の実在性、業務実態、支払承認の経緯に不自然な点がある」


「つまり」


詩織の声が細くなる。


「架空取引、または実体のない外注費を使った不正支出の疑いがあります」


言葉は書斎の中で、冷たく落ちた。


詩織は紙束を見下ろした。

その表情から、血の気が引いていく。


「父が、横領していたってことですか」


「まだ横領とは言えません」


須崎は即座に遮った。


「この資料を佐田頼仁氏が保管していたことと、頼仁氏本人が不正をしたことは別です。むしろ、誰かの不正を把握して、証拠として保管していた可能性もあります」


「でも、父の金庫にあったんですよ」


「だからこそ、慎重に見る必要があります」


須崎は紙面から目を離さなかった。


「これはコピーです。原本ではありません。作成者も、入手経路も、保管目的も分からない。この場で登記や取引実態も確認できません。これだけで誰かを断定するのは危険です」


詩織は唇を噛んだ。


「危険って……誰にとってですか」


須崎は一瞬だけ言葉を止めた。


詩織にとって。

佐田頼仁にとって。

佐田製薬にとって。

そして、ここにいる全員にとって。


そう答える代わりに、須崎は別のことを言った。


「少なくとも、通常の家庭内で処理できる書類ではありません」


その時、香山が小さく息を吐いた。


須崎は顔を上げる。


香山は、机上の書類ではなく、詩織を見ていた。

紙面に驚く者の目ではない。

それを見た詩織の反応を、静かに測っている目だった。


「香山さん」


須崎が呼ぶと、香山はゆっくりこちらを向いた。


「何?」


「あなたは、この中身を知っていましたか」


「知らないよ」


返答は早かった。


早すぎた。


須崎は香山の顔を見た。

叩かれた頬には、まだ淡く赤みが残っている。

それなのに、表情だけはもういつもの場所に戻っていた。


「では、なぜ金庫を開けるべきだと判断したんですか」


香山は少しだけ首を傾げた。


「頼仁さんが僕に会おうとしていた理由があるなら、ここだと思ったから」


「ここ、とは」


「鍵のかかる場所」


香山は静かに言った。


「人に見られたくないものは、だいたいそういう場所に入れるでしょ」


理屈としては通る。

だが、通りすぎる理屈だった。


須崎は、机の上に置かれたコピー用紙を見た。


佐田頼仁の金庫から、不正支出を示す可能性のある資料が出てきた。

それ自体は重大だった。


だが同時に、別の疑念が須崎の中で重くなっていく。


香山は、金庫の中身に驚いていない。


少なくとも、驚いた顔をしていない。


「……父は」


詩織の声が掠れた。


「父は、何を隠していたんですか」


誰もすぐには答えなかった。


香山は机上の紙束を見た。

それから、金庫の奥へ視線を戻す。


「他にもあるかもしれない」


その声は穏やかだった。


「全部出してみよう」


須崎はその一言で、ようやく形になりかけていた違和感を掴んだ。


香山は、見つけたものに驚いているのではない。

見つけさせるものを、選んでいる。


そして今、詩織に見せているこれは──少なくとも、香山にとっては見つかっても構わないものだった。


香山は胸元から白いハンカチを取り出した。


須崎が止めるより早かった。


香山はハンカチを指先に巻き、机上のコピー用紙を一枚持ち上げる。

紙の端だけをつまみ、光の角度を変えるようにして眺めた。


その手つきは、妙に慣れていた。


「香山さん」


須崎の声が低くなる。


「大丈夫。素手では触ってないよ」


香山は紙面から目を離さずに答えた。


「そういう問題ではありません」


「そう?」


香山は薄く笑い、もう一枚の書類へ視線を移した。


振込明細の写し。

請求書。

支払依頼書。

取引先一覧。


香山の目は早かった。

読むというより、必要な箇所だけを拾っているように見えた。


やがて、彼は小さく息を吐いた。


「これは、大胆にやってるね」


詩織が顔を上げる。


「……何がですか」


香山はハンカチ越しに、一枚の請求書を机へ戻した。


「外から見ると別会社に見える。でも、作りが似すぎてる」


須崎は紙面を確認した。


香山の指摘は、間違っていなかった。


それが、かえって嫌だった。


「まだ断定はできません」


須崎は言った。


「この場で取引先の実在性までは確認できない。ですが、通常の支払資料としては不自然です」


「誰が、そんなことを」


詩織の声は掠れていた。


須崎は答えなかった。


答えられる段階ではなかった。


佐田頼仁本人なのか。

社内の誰かなのか。

あるいは、頼仁はそれを掴んでいただけなのか。


金庫の中にあったという事実だけでは、まだ何も決められない。


「今分かるのは、佐田頼仁氏がこの資料を保管していたということだけです」


須崎は紙束を見下ろした。


「保管していた理由までは、分かりません。ここで、これ以上広げるのはやめましょう」


香山は何も言わなかった。

ただ、その表情から、ほんのわずかに力が抜けたように見えた。


須崎は、そんな彼を横目に続けた。


「資料は動かした順番が分かるようにして、いったん戻します。正式な手続きに乗せるなら、扱い方を考える必要があります」


詩織が顔を上げる。


「持って帰らなくていいんですか」


「持ち出せば、持ち出した側の責任が発生します」


須崎は香山を見た。


「少なくとも、今ここで私的に持ち出すべきものではありません」


香山は答えなかった。

薄く笑って、ハンカチ越しに紙を元の位置へ戻した。


その動作も、やはり慣れていた。

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